そろそろマジで哲学しよう


言語という(象徴的な)機械は、われわれから独立した外的な物質的ネットワークのように見えるが、実際には諸個人の使用においてのみ存在しているものでもある。われわれは、二重化(自己からの溢れ出し)によって、言語という外的な物質に乗り移ったのであるが、言語的思考の中では、まるで言語は、外からやって来てわれわれに取り付いた(寄生した)ウィルス(侵入者)のようにも思える(そして、われわれを変質させてしまった、と)。というのも、われわれの意識は、二重化においてその言語の物質的特性(運動)を生きるのであるが、それが無意識としてわれわれの意識にはね返って、われわれの意識を規定するからである。
そのような、意識の二重化における言語的な物質性に寄り添った運動、つまり、われわれが、言語の表層を際限なく横滑りしてしまうような、いわば、非人間的な様相(衝動)は、秩序的な思考においては容認されない(それを拒絶することによってこそ、秩序は整合性を得るのであるから)。秩序的な思考にとって、言語は、形式として把捉され、われわれの心理的内容を盛り込むその単なる器として扱われ、主であるわれわれに従属する地位を割り振られる。つまり、言語にわれわれが翻弄されるというようなことは起こりえないと決めつけられる。われわれが、言語を使いこなしているだけである、というわけである。
心理とは、このような秩序の形成、維持のために(つまり、言語を馴化するために)設けられた(捏造された)概念である(それゆえ、心理は、意識の二重化によるあらゆる暴走を読み解けない。というのも、心理は、その後手後手のあとづけの説明に終始するだけだからである)。意識は、心理として主体の中に閉じ込められ、言語使用の源(根拠)とされる。


秩序的な思考は、意識の言語上(物質上)の二重化を排除するように構成されているため、その様態を直接に知る(把握する)ことはできない。それゆえ、われわれには、一種の空無感、喪失感のようなものが常につきまとう。そして、様々な代理物がその空白を埋めるべく探し求められることになるのであるが、そのような試みの一つとして文学(芸術)がある。
文学は、そのもっとも先鋭的な活動においては、言語の二重化に身を任せる、もしくは、その二重化にまつわる諸様態を精査する(二重化そのものに接近しようとする)。もとより、それは、心理の表現(言語の道具化)とは関わりがなく、言語の物質的な側面(表層的次元)を腑分けしていく、思考の二重化の軌跡(痕跡)を秩序的思考によってとらえ返そう(定着させよう)という困難な試みである。
たとえば、詩は、古来(本来)、われわれの心理という内容からではなく、むしろ形式から作られている。通常の言語使用の規範を寄せつけない、規範から逃れるような、比喩や韻や即興等の技法(逸脱現象)は、言語の物質的な連関、反響、等の自動的な運動である。
しかし、そのような過激な試み(衝動)も、秩序的な思考は、単なる形式的な言葉遊びのようなものとして秩序内に回収し、そのような脱線は、抑圧された心理の表現(噴出)の場であると見做される。意識の(無目的な)二重化によってそれが可能になった事実は、事後的な視線によって故意に見落とされる。さらに、そのような反省化(事実改ざん的な)によって、われわれは、そのような形式的な言葉遊びを高尚な文化として受け入れ、意図的に使いこなすようになり、そのようにして二重化を懐柔するのである。
秩序的な思考において、作品の意味は、作家の内面(意図、言いたかったこと、表現したかったこと)とされ、その読解は、その作品の背後に隠された起源(作家の真意)を探ること、と認識される。そのような起源は、もともと二重化を隠蔽するために想定された理念(という幻想)の反復使用であり、それは、二重化から目を逸らすための囮であって、その疑似餌を追うという構図(図式)に沿って、解決されるあてのない、終わりのない、無数の一連の読解が試みられる。
そのような解読格子に則った解読行為の中で、作品の意味(の合意)は徐々に形作られていくのであるが、このように、われわれが、物事を知っていくやり方は、彼方に想定した幻想(結局は空白)を追うようにしてなのであり、その中で、常に、結局それとは違う何かを、後から遡及的に構成するのである。


このような過程(歴史)が繰り返されて、反省が重層化し、作品に対する知見がわれわれの意識に組み込まれていくと、われわれの意識は、確立されたあらゆるノウハウで一杯の頭でっかちになり、その帰結として、作品の創作の不可能性と安易な作品の多産が生じる。
というのも、反省行為の中で、何重にも錯綜した二重化の様態が、徐々に感知され、秩序的な思考に翻訳されて、知識化された二重化の様態が創作に反映されていくと、次第に、秩序的な思考は、自家中毒的に身動きが取れなくなって、破綻していくからである。つまり、端的に言えば、理念(普遍性)の想定のもとに形作られた秩序的な思考は、それを否定するような事態(出来事)に出会って(巻き込まれて)、収拾のつかない機能不全を起こし、そのシステム自体の見直しを余儀なくされるのである。真摯な創作は、狂気に陥るか、書きえないものを書く、という袋小路に陥る。
そのような手詰まりとは裏腹に、一方では、そのような反省の過多という極端を排し、つまり、深く考えることなく安易に、中途半端な段階(姿勢)に留まったままの創作が、手軽なノウハウの周知によって加速されて、繁茂する。しかもそれは、理念という幻想に固執する執拗さなのであり、今や風前のともし火のように消えかかったその幻想に必死にしがみつく、秩序を切り崩さないための必死のあがきであって、急進的な創作の存在自体を否認し(急進的な創作を過激化することは、自らの拠って立つ基盤を根本的に変革せざるを得なくなる事態につながりかねない、ということを秩序的な思考は予感するからである)、幻想の破綻を先送りして、秩序を延命させるための彌縫策なのである。