そろそろマジで哲学しよう


思考のトータルな活動と、これが自らの思考であると自覚していること、この両者は一致しない。それというのも、思考が、自らと自らを溢れ出す何かとに二重化しているからである。
われわれの思考は、二重化として自らを溢れ出すことによって、自らの外部の対象(事物)上に思考を展開し、その物質的諸特性に沿った思考の形態を生成する。
たとえば、物々交換においては、それまでは単なる自然な物という、それぞれの使用価値としてしてしか存在していなかった二つの物が、いざ交換の場面になると、突如として、自分の物が、相手の物の使用価値をあらわす(量る)内容として、相手の物の使用価値に相当する価値であるかどうかを体現する交換価値として見えてくる。つまり、相手の物が欲しいわけであるから、自分の物は具体的な使用価値としての側面よりも、、相手の物に見合っているかどうかの抽象的な価値(対価)のようにしか見えなくなるのである(この交換価値が純化されたものとして、貨幣という抽象的な価値物が生まれてくる)。この場合、物は、外見上は何一つ変化をしたわけではない。しかい、視点の切り替えによって、使用価値から交換価値へと(また、その逆にもスイッチ変化する)実体変化したように感じ、別の物(内容)に見えてくるのである。
これは、われわれの思考の内部で起こっていることではない。まず最初に、外の現場でもって交換が現になされ、その時、無意識のうちにそのような体験が起きているのであって、われわれがそのことに気づくのは、常にその後、そのような認識を持つのは、あくまでも事後においてなのである(というよりもむしろ、意識的だったら、交換の駆け引きがうまくいかない)。
このように、対象上にそれに沿った思考が生成するのは、われわれの二重化においてであり、事物もまた二重化していることがわかる(それ自身とそれ自身を超える何かに)。


秩序的な意識は、このような二重化の制限としてある。首尾一貫した秩序の形成は、二重化に対する防御体制でなければ成立しないからである。したがって、中心的な意識は同一性をこととする統覚であり、それによって二重化を直接意識する(組み込む)ことはできない。つまり、二重化は、意識と意識に対する無意識に相当する。中心的な意識は、自己同一性の構成に関わる収縮作用であり、無意識的な偏心的な意識は、拡大作用としてある。
思考は、脳内の閉じた回路というばかりではなく、外部の対象上にそれに沿った思考の形態があるのである。たとえば、視覚において、われわれは頭の中(脳内)で物を見ている、という科学的な認識はグロテスクである(普通、素直に、そのように実感し得ない)。むしろ、見ているという行為は、外部の見ている対象そのものの場(表面、表層、表情)にある。思考と視覚の連動体は、その外部の場所そのものに生成しているのである。それを、思考は脳の中にあり、それが外的世界の対象と対応しているととらえるのは、ひとえに、二重化に対する秩序の防御体制としてである。


外部の対象上の物質的な出来事に沿って進行する他律的な場面としての偏心的な思考から、中心的な思考は作用(感化)を受ける(影響を受ける)。われわれの思考の成り立ちは、まず、思考が、元の位置から前方(外部)へと投げかけられ(偏心的な意識)、そこからの作用を受けて変革された元の意識(中心的な意識、統覚意識)が、遡及的に元の位置をとらえ直す(遡及的な因果性、フィードバック)というようにして前進化するものである。存在(物質)から発するような思考(すべては存在である、すべてはより深い存在のあらわれである、という唯物論)と、認識(自己意識)から発する思考(すべては認識の効果である、すべては形式的な意味の効果である構成物としてはじめてあらわれる、それ以外に存在というものはない、という観念論)が組み合わさって、絶えず思考は前進するのである。
能動的な積極的な認識の過程は、事物の潜勢的な生成過程に半ば受動的に巻き込まれているのである。したがって、思考は、潜勢的な生成過程の現勢化(現実化)として、未知の可能性に開かれているのである。
人は、合理的な能動的な功利主義者として、すべてを統覚しているように振舞うが、それゆえに、つまり、まさにその秩序的な思考範囲の限界ゆえに、不合理な物質的思考という自らの溢れ出し(超出)に(社会的諸関係という無意識に)気づかないのである。しかしながら、内部の思考といっても、そもそも、われわれの思考は、言語という外的な物質の上に生成しているのであって、それを可能にしたのは、先行する二重化なのである。