魅惑的なものとは、およそ、事物の不実な二重化の様態である。時として事物は、単なる実用的なものであることを超え出るかのように、不可解な気がかりな何かへと自ら分裂し、事物以上の何かを溢出(漏出)し始めることがある。それは、そのような様態を認める(目撃する)主体との関わりにおいてあり、その出会いによって主体は、他者と共有している事物(のイメージ)の、他者とは共有し得ない側面(超現象的な、神秘的な)に触れ、その主体自身が、客観的中立的な主観性と特殊な極端な主観的観点とに分裂二重化してしまう。それは人を、うっとりさせると同時に孤立させ、秩序的な思考を狂気へと滅ぼしかねない。
一個の対象が得体の知れない二重化を帯び始める例は枚挙に暇がない。たとえば、性は、単なる子供をつくるため以上のものとなり、食事は、単なる栄養補給以上のものとなり、金は、単なる生活の必要以上のものとなる、というように、あらゆるものがそうなる可能性のもとにある。物神崇拝(フェティシズム)とはそのことを指すのであろう。
この事物の二重性によって、人間の世界は根本的にバランスが崩れている。秩序は、これに制限を与えるように構築される。それゆえ、禁欲や節制という原理(知恵)が、常に秩序の根幹に据えられる。そして、それと対をなすように、様々な儀式的なガス抜き(抑圧したものの捌け口)の方法が考案される(その最たるものが戦争であろう)。二重化はより強固な同一性の確定に回収され(たとえば、男は、あるいは女は、こういうものである、というような規定)、同一性は相補的な二項対立に整序される(陰と陽、男と女、正と悪、敵と味方、肉体と精神、等等)。二重化の混乱は、このような二項対立の一時的な不均衡、乱れとしてとらえられる(解釈される)。そのようにして、何はともあれ、本質的にバランスが崩れている事実は隠蔽される。
とはいえ、事物の二重化が解消されるわけではないので、このような二元論的宇宙の均衡モデルは、結局のところいつも乱れている体をさらして、それを効果的に回収し得ない。そのような世界観は十全に機能しないので、われわれは、この混乱を回収するために、われわれの外部へと手の届かない理念を投射する(想定する)。理念は、逆説的にも、何が真実かを確定しない。その確定は、遠い未来に先延ばしされるのである。われわれの未熟さや偏りや錯誤を取り除いていけば、徐々にそこに到達できるだろう、という見かけを与えるのである(「明日がある」という台詞の根拠のない大合唱)。
想定された理念である普遍の中身は、空っぽなのである。そして、この空っぽの容器には、不都合なこと、解決不能なこと、思考不能なこと、等といった、社会の過剰な部分(手詰まり)を何でも放り込むことができるのである。理想とは、あらゆる厄介ごとを嘘のように解決してくれる、文字通りに夢のような希望(幻想)なのである。つまりそれは、内容のない空虚な容器(シニフィエなき空虚なシニフィアン)として、この世の矛盾(非秩序的な要素)を回収する装置なのである(たとえば民主主義という理念は、解決不能の対立の様態の渦中にある人々すべてが使えることによって、根本的には意味をなさない、単なる和解の希望である。むしろ大事なのは、ナンセンスな和解のイメージにすぎないということより、希望となりうるのは、その理念の共有によってその対立の所在がより明らかになることであろう)。
このようにして、秩序(均衡)の不可能性は、不可能な理念(統整的な理念)に置き換えられるのである。
しかし、事物の二重化は、そのような事後的な対処によって包摂されない、先行する事態であって、決してなくならない。時に、それは、人を惑わせ、狂わせる。通常の生の軌道(流れ)を逸脱させ、有機的な全体(という幻想)のバランスを崩す(たとえば、科学技術の進歩は、環境の破壊をもたらしかねないし、資本の自己拡大は、現実の生活世界を顧みずに作動し続けて、それに甚大な被害をもたらしかねない)。
ただ、二重化する事物の幻惑は、われわれがただ生きているだけの状態以上の何かを、動物的な活動以上の何かをあらわしている。通常の動物的な活動においては生の手段であるものが、目的自体になっている、というだけではなく、手段と目的という論理以上の何かを示唆している。それは、身体的な(動物的な)領域を超過している高次の運命のような何かの可能性を開いているのではないだろうか。これこそが、奇跡が現実に起こることの可能性ではないだろうか。有限なる秩序(われわれを矮小さへと閉じ込めようとするもの)からの超越の兆しと、それは現にわれわれを開いた空白の行為にも関わるものではないのだろうかと、彼方に想定された理念は、そこへと行き着くための手立てではないだろうかと、言えないだろうか。
