現代において希薄になった理念は、唯一の真理という一なるものの肯定の色合いを弱め、多様な主観的パースペクティヴを肯定する真理という色合いを強めている。もちろんこの矛盾する曖昧な理念は民主主義的な理念である。それに対応するのは、多様なものの共存を許す、中立的媒介としての無関心を信条とする中間層であるが、これも同様に矛盾する曖昧さの錯綜の中にある。
中間層は、どこかに真実がある、神がいる、と漠然と考え、曖昧に信じる、のであるが、それは徹底して追及する態度の回避、極端の間にあること、極端と間接的な距離を置くことに自己のアイデンティティの基礎を置く。
この極端とは、科学なるもの、政治なるもの、宗教なるもの、芸術なるもの、の領域という、いわば原理主義的なものであるが、深く追求すると既成の秩序の破綻につながりかねないものである。
科学は、現実を徹底的に科学言語によって認識するという客観的な知識の担い手として、客観的な真実の保証人とされている一方で、あまりにもそれが非日常的な真実であるために、もはや常識的な言説の中に取り込みが不可能なものとなっている。
政治は、究極的な理念(普遍)の実現を担うのは、常に偶然的な(偏った)政治的担い手であり、支配者のご都合主義的な専制につながるという危険を常に秘めている。しかし、理念とその具体的な個別の担い手は、相互に相手を必要としている。そうでなければ、理念は単に空虚であり、また、個別の担い手(具体的な権威)は自らの(抽象的な)根拠を失う。
宗教もまた、神と人間の間の解決不能の裂け目において、政治と同様の矛盾、僭称の危険を秘めている。
芸術は、事物の不穏な二重性に関わるのであるが、それは既存の秩序に穴をあけかねない謎めいた対象である。
それらは、秩序の成立にとって(に伴う)避けて通れない条件そのものであり、また変革の条件となりうるものでもあるのだが、このような(既成の秩序の破綻の恐れを内包してもいる)極端に対して、中間層は、非原理主義的な文化を構築する。それは、何も真剣に考えることなく、何も本気で信じることなく生きる態度の総称である。文化という無害化された、ご都合主義的に歪曲された代理物を受動的に受け入れることで、つまり、絶対的な理念と相対主義を(同時にまた適当に)ほどよく肯定する平等主義の専制支配(という混合物)を受動的に受け入れることで、極端なものへの信仰を他者に譲り渡し、何も変化しないことだけを望むために自らの矛盾(綻び)をまともに受け止めようとせず、そのようなことに煩わされることを回避して、日常的な実利活動にだけ能動的に専念し(むしろ、それらを見ないためにひたすら能動的になるのでもあるが)、既成の構成された(閉じられた)現実だけを信じ、薄まった宗教的規範や日常的公共道徳を遵守して社会の中立的基盤であることを自認し、衛星無害の環境に暮らすことが可能だというフィクションの中に、汚れなき(過剰なき)自己という幻想の中に住まうのである。
