そろそろマジで哲学しよう


事物がその同一性において、自らとの構成的な不一致に揺れているような、事物の自己分裂的な二重化は、秩序内の整合性に不可解な穴をあけてしまう不実な矛盾点であるが、その先行する矛盾は、それに対する事後的な想像上の矛盾、すなわち、内部と外部の矛盾へと置き換えられて、その力点(焦点)をずらされて、後者に包摂されるような見せかけをとるようになる。
つまり、秩序内の諸事物の同一性を相対化してしまうような唯一の異質の点が外部に投射されるのであるが、これには、われわれの否定性の発露でもある否定的な自己関係が関わっていて、われわれ自身を否定するような外部の点を想定するのである。われわれの空白の行為は、われわれの現実的な快楽や実利に基づく行動を、すなわち、環界との有機的なつながりへの埋没を、はねのける(断ち切る)ものであるが、このいわば素朴な動物的な生(動機)に対する否定性が、想像物として手の届かない彼方に実体化されるのである。
このような外部の点は、神、理念、真理、真の客観的現実、等と称されるわけであるが、いずれにしても絶対的なものとして想定され、われわれの現実を仮初のとして相対化する(否定する)点なのである。これは、内実を伴わない想念であるがゆえの揺るぎない絶対的な否定性でもって、われわれの行動を規定する(縛る)道徳的な規範(厳格な禁止)の絶対的根拠となる。われわれは理由もわからぬまま、この絶対的な否定性の点に向って、偏りや錯誤に満ちた自身を常に乗り越えていかなくてはならない定めとなる。
しかし、われわれの否定性は、当然、権威にも向う。というのも、権威の座に着く者もわれわれと同様に偏りと錯誤に満ちた人間に他ならないからである。したがって、抑圧的な権威は、常に否定による破壊の対象となって、徐々に没落していく。まとまりをもった統一として確立している既存の秩序という普遍は、より大きな普遍である否定性の点に呼応する個々人の怒りに満ちた活動によって切り崩されてしまうのである。
このような否定の力の噴出は、古い秩序、権威、規範、等を掘り崩していく。新たなる秩序、権威、規範、等は、先のそれらへの否定性を土台に築かれるのであるが、この過程において、同時的に、外部の点もまた変化する(神による支配から何らかの理念による支配へ、王権神授説から民主主義的な理念の代表へ、というように)。外部の点は、次第に、安易なイメージの内容を払拭され、純化されて痩せ細り、何のイメージもない亡霊のような純粋な否定性の形式(形なき形式)そのものとなっていく(いかざるをえない)。
このような進展、このような純粋化する外部の点に相関して、内部の現実は、多様性の戯れ(真の決定や解決の宙吊りによる多数性の承認)が猖獗を極めるようになる。逆説的にもこの多様性は、多様なるものの共存を許す、純粋な否定性という一なる原理を背景として可能となっている(成り立っている)。そうでなければ、単なる多様性というものは論理的に破綻して灰色の無へと解消してしまうであろう。
結局のところ、多様性は、ほとんど内実が蒸発した一神教的な背景があってこそ、内部の現実と外部の点との矛盾の解消されない宙吊り状態という地があってこそ、成り立っているのであり、最終的には、この外部の点それ自体が単に幻想にすぎないということが自覚されるほどに否定性が徹底されれば、この多様性の称揚は単に目的や意味を失って灰色の無関心、無気力へと解消(暴落)してしまうだろう。
この予測可能な行き詰まりに対する打開の途(応答)があるとすれば、それは、キリストの身体に戻ることであろう(まさに文字通りに、救世主の復活、として)。矛盾の宙吊りではなく、キリストという矛盾のラディカル化による無神論の可能性の開示である。漠然とした想像物である安易なまやかしの神への受動的なもたれかかりではなくて、今やむしろ無神論こそが、この現実における真の神秘的な何かへのアプローチではないだろうか。