そろそろマジで哲学しよう


われわれの現実に対する理解がぶつかる不可避的な矛盾、この不合理へと直面してしまう行き詰まりという経験の限界を直視するかわりに、われわれは、真実(真の現実)を接近不可能なものとして想定して、われわれのこの挫折を合理化する(そうしなければ秩序を維持できない)。そして、来たるべき、という様態のもとに、真実への到達の期待が夢想されることで、常に先送りされる未知の空間である、未来という時間機制が生じることになる
それは、われわれという否定性が描き出す、否定的自己関係であり、つまり、現在の不完全さに対する未来の十全さ、仮象としての現在に対する真の現実の実現としての将来、という自己否定の構図のもとにある、秩序内のまやかしの合理的物語、窮地に切羽詰った意識が思い描く夢想、である。


しかし実際には、現にわれわれの否定性が発揮されたのは、過去における空白の出来事である。空白の出来事とは、根本的なはじまり、であり、既存の秩序に対する否定の身振りであるがゆえに、現在としては経験できない無心(無我)の行為である。そしてそれは、それが起きてしまった後になってはじめて反省されるしかなく、そこに回顧としての過去という時間機制が生じることになる。
つまり、空白の出来事は、無からの再創造の場であり、新たな秩序の布置へと飛躍する空白という零地点の場所を切り開き、その絶対的自由、自発性の行為を通過することなのであるが、そこで構成された事後的な意識によってしかそれを解明することはできないのである。われわれの認識の方法は、そのように常に遅れた地点からの、後ろ向きの時間とともにある。


メシア(救世主)の到来の約束は、現在における不合理の行き詰まりを合理的な構図へと変換配置する見せかけのシナリオの直接的な表現である。われわれは現実において困窮し続けなければならない定めだとしても、神の助けに頼ることができる、というあるかなしかの望み(夢想)でも、無よりはましだ、というわけで、無期限の宙吊り状態における受動的な待機の時間の中で、辛抱強い忍耐を強いられることになる。
ところが、現実化されることのない約束としての最後の出来事は、すでに起きてしまったのである。キリストという救世主はすでに到来してしまったのだ。皆が待ち望んでいたものが到来したというのに、われわれは救済されたのだろうか。今や矛盾は、此岸と彼岸の間の裂け目は、不気味なことに現実のものとなっているのではないだろうか。
神は不可視のまま、われわれと接触不可能のまま、沈黙へと退隠してしまい(つまり、いないも同然のものとなってしまい)、キリストの出現とその死だけがそこにある。われわれの手にしたものは、与えられたこの不可解な出来事だけである。この空白の出来事以後、われわれは、もはや救世主も神も頼ることはできない。それは、望みを託す存在はなくなった、という出来事なのである。したがって、それゆえわれわれは、この謎に満ちた光景から自力で能動的に何かを引き出さなければならない立場に立たされたのである。
彼岸に何らかの実体があるはずだ、という信念(望み)は潰え去り、われわれは救世主とともに完全に地上に墜落する。とはいえ、もともとそうなのである、この出来事が、もともとそうであったことを決定的に再発見(再認識)させるのである。以後、われわれは、われわれのこの現実の矛盾をまともに引き受ける覚悟を迫られることになったはずなのである。われわれは、もはや受動的な未来という夢想(期待)への安住に後戻りすることはできず、自らの責任において能動的に積極的に未来を切り開かなくてはならない主体とならざるをえない。その契機を、その可能性を、この空白の出来事から新たな意味を創造的に汲み上げるようにして、いわば自己否定的に(つまり、生まれ変わるつもりで)、この出来事から読み取らなければならないのではないだろうか。そのような他を顧みない自己放棄的な態度によって、キリストに何かを賭ける(託す)身振りこそ、キリストへの愛、なのではないだろうか。そのようにして、未だ十分には開かれてはいないこの空白の出来事を救済(開示)しなければならない、という任務こそ、自由の実現としてのわれわれに与えられた使命なのではないだろうか。