実体的な連続性の無から、空白の決断によって仮初に身を引き剥がすわれわれの根本的身分は仮象である。まず仮象が成立する、ついで、事後的に仮象に対する現実(真の本体的実体、真の客観的現実)が想定されるが、この現実自体さらなる仮象である。
つまり正確には、仮象とは、はじめから分裂を起こしている、二重化の様態としてある。仮象は本体を隠していると同時にほのめかすものとしてあらわれ、本体は背後に何も隠してはいないものとしてあらわれる仮象なのである。現実と思われたものも仮象であることに気づくと、その背後にさらなる現実が想定される、というようにこの分裂、二重化は際限なく続いて複雑化する。そして、何が真の現実なのかを巡って常に争われることになるが、実際にはどこにも、いかなる中立的な客観的な現実もないのである。
この苦境の解決策として、この先行する裂け目の二次的な効果として、想像上の彼方(背後)に、真の客観的現実、真実、真理、本質、等々の想像物が投射される。つまり、仮象の果てしない交替劇の彼方には、永久にわれわれから逃れ続ける、真の基底、中立的な背景としての何かがあるはずだ、という思い込みである。
このようにして、究極の彼方として、天国、極楽、救済の約束、などの形象が夢想される。つまり未来とは、こうした期待を持ち込む場なのであるが、その期待とは、仮象と現実の決定不能性がもたらす秩序内の、混乱、葛藤、闘争などといった、秩序にあいた手に負えない穴(行き詰まり)を取り繕うための解決の期待である。
そして、それゆえ、われわれの根本的な経験は、ぬか喜びではないだろうか。期待していた未来の到来は、常にわれわれをがっかりさせないだろうか。真の救済はいつまで待ってもやって来ない。
たとえば、映画の結末は、がっかりさせられることが多い。前半部分、導入部とその展開では、未知のXを隠しているとほのめかしている形象がわれわれを惹きつける。だが、後半で明らかになる、隠された秘密のその正体(結末)は、たいていは、たいして驚くべきものでもない、既知のつまらないものである(わかりやすい例で言えば、人の気を引く謎めいた不可解な事件の真相や真犯人などのあっけなさ)。要は、この未知のXに、なぜ、かくも情熱的にわれわれの目は惹きつけられ、飛びつくのかである。そこには、自分の現実を超えた何かに対する過剰な期待がある。
われわれの消費における商品の際限のない差異化もそのような期待に対応している。自己拡張し続ける資本主義自体も、結局のところ、現在の(現実の)辻褄の合わなさを、未来の解決に先送りして成り立っている。将来からの借入を繰り返すことによって、現状の困窮を破綻にいたらないように維持し、真の決済を先送りしながら、未来において解決されるであろう完全な還付を夢想し、それに依拠している。要するにそれは天国と同じであろう。
