そろそろマジで哲学しよう


われわれの意識は、その初発の行為(決断)による自らの起源の空白を背後に抱え、また、意識自体も環界から切り離された空白の中に生じる。したがって、われわれは自己意識とは何かという空白を、自らの首尾一貫した秩序的思考を構築するためには、何らかの間に合わせの(真に知ることはないので)首尾のよい説明によって埋めなくてはならない。
結局のところそれは、神秘(神が与えた)とでも言うしかないのかもしれないが、自己意識とは何か、という問いは放っておくことのできない懸案なのである(「それは、あるからあるのだ」という貧しい同語反復の開き直りによる、「考えたって仕方がない」という思考停止的なあきらめの中に安住しながらも)。


自己意識に関する科学的追及も、単なる知的好奇心というのではなくて、止むに止まれぬこの問いの衝動から派生したものであろう。科学による合理的説明(つまり、神などをもちださない)の追求は、そもそもこの不合理な起源への問いが動機になっているのではないだろうか。
たとえば細胞は、その境囲のネットワークにおいて相互作用の中で活動しているが、その細胞膜が単に受動的な媒介ではなく、能動的な媒介となるのは、つまり、内部(自)と外部(他)のあわいとなって内部が自己として存在し始めるのは、どのようにしてなのか、といった問いは、われわれが関与しているからそのように探究されるのであろう。しかし、まさに、われわれの自己意識の発生過程の相似形であることによって、すべては明らかにはならないはずである。仮に、純粋な客観的メカニズムが解明されるのであれば、原初の問いの必要がなかったのだ(問いの発生する余地がない)、という奇妙なループを描いてしまう(問いがなぜ発生するのかが、余剰であり、宙に浮いてしまう。あるメカニズムだとしても、いったいなぜ、その解明にかくも躍起になったのか、がわからない)し、そもそも単なるメカニズムであれば、自己は機械的な因果関係の中に解消してしまうのではないだろうか。
したがって、脳に意識の解明を求めることも同様であろう。空白を埋めるために意志の根拠をそこに(物質に)見出したいのであるが、意識の諸要素を脳の各部に対応させ、意識のはたらきがその機能のもとに説明されるとしても、意識に空白がある以上、必然的にそれに対応して、脳にも解明不能な知られざる機能(つまり空白)があり続けてしまうはずである。もしそのようなことが完全にわかれば、つまり、空白が謎のままでなければ、すべては物質(単なる相互作用)であり、自由の確保(余地)は失われてしまい、われわれは因果連鎖の連続性の中に埋没してしまうだろう。つまり、われわれは消滅してしまう。だから、仮に完全に解明できたとしても、その時にはわれわれは消え去っているに違いない、のではないだろうか。
意識が意識を問うのは循環してしまっている(自己言及的なループ)し、しかも、なぜ問うのかが、理解を超えた奇妙な過剰なのだ。