そろそろマジで哲学しよう


秩序内のわれわれの根本的態度は、われわれに内在する矛盾である先験的な空白を、見ようと、認めようと、受け入れようとしないことである。
秩序は、その不可能の中心の隠蔽を取り巻くように構築されている。空白は、偶発的な仮初の想像物で埋められ、その共有としての文化が立ち上がる。通常の秩序内の生は、空白に触れないことによって、それを幾重にも取り巻く偏見の層としての常識の覆いに安住することによって、つまり、それを考えないふりをすることによって、安堵(灰色の安堵ではあるが)が得られるのであるから、それに対する知的探究(真摯な使命としての)は、そのような偏見の層を剥ぎ取っていく困難な作業としてある(反常識であり、極端な場合、狂気と紙一重である)。
しかしそれは、われわれが少しずつわれわれ自身を理解するという歩み、要するに、次第に露わになる、意味作用の連鎖が途切れてしまう点である空白を秩序内に書き込むという、できるはずのないことへと漸近していく過程であるのだろう。


世界はこうである、と示すことはできるが(未だ完全でないにせよ)、問題は、なぜこのように世界はあるのか、それは何を意味しているのか、なぜわれわれは世界を知ろうとするのか、が謎のままであることである。
単に生きるための見取り図としての世界の概念だけに満足できない、満足できていないために人は、幸福、を考えなくてはならない。このような漠然とした、謎めいた、もしくは空虚な概念は、実際にはわれわれ自身の欠落である空白の穴埋めをするための代理表象としての空っぽの容器である。われわれにはなぜか不可解な穴があいている、その空虚感を埋めるのは、おそらく幸福である(と想像する)が、それが何かはよくわからない、というわけである。
空白を直視しないためのおとり(幻想)である幸福は、常に、失われているもの、なのだ。では、幸福はなぜ失われているのか、それは常に、達成すべきもの、だからだ。それについて、考えなくてはいけないし、探さなくてはいけない、ものなのだ。常に、未だそれではない、状態である現在の状況を、そこへと向けて変化させなければならない。ここにおいて、移動したい、というわれわれの圧倒的な欲望が湧き起こる(ハムスターの回転車のように)。
あるいはまた、他者との社会関係の中では、幸福は、失われている、奪われている、妨害されている、という幻想を生む。なぜか。他者がそれを盗んだからである。もしくは、得体の知れない他者の張り巡らす、こちらには不可解な陰謀が、われわれに幸福を享受させないように仕向けているからである。ここに、このような幻想に、理不尽な(つまり、たいした理由などない、そうだからそうなのだ、というような)、隣人憎悪や人種差別の妄想(それだけに根強い)の端緒があるだろう。
つまり、そのように空想しておけば、その虜になっていれば、幸福は手に入らずに済むからである。自らの手の届かないところにあえて設えておくのである。そうでなくては、それが、実は空っぽであることが露呈してしまうからである。もちろん、誰もが、薄々そうであることを知っているからこそ、そうするのだ。しかも、その事実は頑なに否認し通すのであるが。
このような(幻想的な)幸福観の共有こそが文化である。それは何かを見ないようにしておくための周到な装置である。したがって、隣人(隣国)憎悪も人種差別も、文化的な産物、共同体的なものなのである。また、資本主義や共産主義などの社会体制も、原理は幸福の追求としてある。民主主義も、言うまでもなく、実現不可能な理念を何でも詰め込めることによって機能する、空っぽの容器である。
だが、これは、単なる防衛処置としての空しい身振りなのではなく、徐々に真の(芯の)空白へと接近するための、こうするしかない方策なのだろう。