記憶 | これって闘病!?

これって闘病!?

子宮頸癌Ⅰb2でした


みなさま、こんにちは。
お久しぶりです。ご無沙汰してました~。

前回の記事では、たくさんの方の目にとめていただいたようで…本当にありがとうございます。

そして、こんな垂れ流しのヨダレみたいな私に、たくさんの優しさをくださり感謝します。

テレビ相手に、お一人様昼メシを喰らっていた私、この感謝と喜びのあまり、温泉旅館の大宴会場でたくさんの友人達と大忘年会をしているような、暖かくて嬉しい気分で満腹になれました。
ちなみに今日の昼飯は、納豆御飯オン玉子(もちろん大盛り)でした。


はい。
元気でしたよ。通常営業です。

いつものように、朝起きて。
いつもと変わらぬ日常を。


「どんなに悲しくて泣いても、お腹は空くし、ご飯は食べるし、そうやって生きていくのよね~」

お葬式帰りの義母が言っていました。
ほんとう、その通り。
切なく悲しいことがあっても、どんなんでも、生きているし地球は回る。

そんな自分を薄情な人間だと自己嫌悪になったり、はたまた、これもまた自分の防御反応なのかと思ったり。
いつも通りの行動パターンで、いつも通りに過ごすことで、平常心を保っているかのようです。




いつかどこかで聞いたことがあります。

人は、膨大な量の情報を整理し記憶の引き出しに片付けていく。
潜在意識では、もしかしたら全てのことを記憶していて、なんらかのきっかけがあれば思い出すのかもしれないけれど、基本的には毎日毎日、情報は整理されていく。

それは忘れるということ。
記憶は薄らいで過ぎていく。

人が人を忘れるとき、一番最初に忘れるのは「声」だという。
次に「顔」、そして「思い出」だとか。


顔に関しては、遺影を含め写真が残されている場合が多いので、見るたびに容易に思い出せるでしょう。

数々のエピソードや思い出は、印象的なもの含め、なんの出来事も無かったような日常の一場面が蘇ることがあります。
それは、光や色彩、空気や温度、雰囲気、その時の自分の感情、手触りや息づかい…そう、体と心全部の五感の記憶だったり。
そして確かに、その時に聞こえていたミュージックや車のエンジン音、波音、草木のざわめきなどの「音」は蘇るのに、何故か「声」は曖昧になっている気がします。

もちろん、記憶に新しい人の声ならば、すぐに思い起こすことができる。


けれど、例えば30年近く前に逝った祖父母の声は、今の私には、何となくしか思い出せません。

その声は、今はすぐには思い出せなくても、もしも今、祖父母の声で呼びかけられたら、考えることなく「おじいちゃんの声」「おばあちゃんの声」と認識して振り返ることができるでしょう。

私の記憶の引き出しが開いて。


更に、それらの思い出は、苦い思い出ではなく、朗らかな姿とエピソードを伴っています。
叱られたこともあったはずなのに。

人の記憶というのは、もしかしたら、自分に都合良くできているものなのかもしれません。


◆◇



あのとき、私たちはどんな会話をしていたのでしょう。
会話の内容は思い出せるのに、一語一句は思い出せない。

全部の会話を覚えてるわけじゃないけれど、笑ったときの細めた目尻とか、真剣に話に聞き入る大きな印象的な目、美味しかったランチ、張りのある女性らしい声。


会いに行くたびに、細くなり、弱々しく私の手を握る華奢な指。
「笑うとお腹痛いよ~」って、かすれた声で笑っていた姿。

「こんなんなら、死んだ方がマシって思っちゃうんだよ…」って、吐露してくれた心の変化。

「ありがとうね」「帰り道、気をつけてね」
そう言って、ドアを背に「またね」と振り向く私に向かって、小さく手を振ってくれる。


少しずつ、少しずつ。
私も、受け入れざるを得ない。




いつか、これらの記憶も薄らいでいき、柔らかで明るい、この声も忘れるときが来るのでしょうか。



そして、いつの日か自分も、誰かの記憶の引き出しに、そっと片付けられるのでしょうか。
でももしも、誰かの記憶に残るなら、できるならば、それは笑顔と笑い声だけであってほしい。

同時に、誰かの記憶に残りすぎて、その人の心の足枷みたいな存在になるのは嫌だから、適度に忘れ去ってほしいなぁ、とも思う。





願わくば
私にとって大切な人に関する記憶は、どれも笑顔や笑い声であってほしい。
だけど、辛さや苦しさ、その涙声も、きちんと私は受け止めて、記憶に残したい。
ぽろりぽろりと零れる、その切ない声も言葉も、大事な人の心の一部。

そして、その人たちの人生の最後までの時間、ささやかでも笑える時間が持てるなら、何度でも会いに行きます。


見送らなければならない立場は、正直、とても辛い。
だけど、逃げずにいたいと思います。

家族と違い、友人という他人の関係は「会わない」という逃げ道、選択肢もあるし、それだって、決して悪いことではないと私は考えます。
それがベストな選択の時だってあるだろうから、罪悪感を持つ必要はないのでしょう。


ただ、私にとって、私の場合。
元気なときに楽しい時間を共有できたことや、色んな気持ちを共感しあえたことは、私にとって大切な宝物。
その宝物を、もらい逃げなんてできない。



だから、今日も会いに行ってきます。
「待ってるね~」という、彼女のメールが嬉しいから。



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車から見える景色は、日毎に移りゆく。




いつもありがとう!(・ω・)/
皆様のとこへ、読み逃げばかりで
かたじけない。

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