■俺は見逃さない。それは特筆すべき問題だ。性愛欲望の母性愛欲望への謎に満ちた反転、転位。この問題がフリーダを捉えているのだ。
それは二重の謎というべきではないのか?
〈性愛の女〉から〈子を抱く母〉へフリーダが転化することも謎なら、そもそも母性愛自体が大いなる謎ではないのか?
ディエゴを膝に抱くフリーダはメキシコの太母神ラソルテオルトルに抱かれ、そのラソルテオルトルはさらに宇宙の太母神に抱かれる。
あらゆる神話学者は異口同音にいう。太母神・大地母神の二つの顔、そのアンビヴァレントなヤヌス性について。太母神は大地の神的象徴にほかならない。この太母象徴において、豊饒と多産の意味をもつ大地は、同時に、枯らし、すべてのものの死を受け入れる大地でもある。一つにして二つの面がそこにある。包み、支え、育て実らせる育成の力・生の力において現れると同時に、太母神は、引っ捕まえ、握り、呑み込み、狂乱し、陶酔の果ての死をもたらす暗黒の死の力としても現れる。
フリーダがディエゴの母となったというのは、母たることの力のどの側面にフリーダが自己を同一化したということなのか? 育成の生の力たる母なのか、それとも、併呑の死の力としての母なのか?
そもそも母性とは恐るべきあの併呑の欲望、絶対的所有の狂気ではなかったのか?
それともバッハオーフェンやエーリッヒ・フロムが強調するように、父権制の私的所有主義に根源的に対立する、あらゆる生命的なものへの大いなる肯定、あらゆる区別を突破する絶対的自発性としての抱擁感情、あらゆる死にゆくものへの分け隔てのない哀悼、生命がじかに生命に呼応するという大いなる普遍性において私的所有を内破する生の根源的感情、それこそが母性の本質というべきなのか?
フリーダはあの恐るべき併呑の死の欲望に憑きまとわれた自分に恐れをなし、耐えきれず、自己欺瞞の必死の方策として、「慈しみの母」なる反対の仮面を自分に被せたのか? あの「宇宙、大地(メキシコ)、ディエゴ、私、ショロトル、神の愛の抱擁」において。
そもそも太母神において一方は他方と分かちがたく一つであるというなら、この問いに一義的に答えようとすること自体がそもそも不可能なのではないのか?
「おお、孤独よ! おまえ、わたしの故郷である孤独よ!」[i]
(『ツァラトゥストラ』)
をもじって、俺はこういおう。
「おお、矛盾よ! おまえ、わたしの故郷である矛盾よ!」。