『ツァラトゥストラ』にこうある。「同情(Mitleiden 共苦)」こそはツァラトゥストラにとって「これまで留保し続けてきた、わたしの最後の罪」[i]
であった、と。つまり、彼は同情するという罪を犯し続けてきたのだ! そのように彼に取り憑いてきたものとして、同情は彼にとって最大の敵であり、最大の誘惑であった。事実ツァラトゥストラは同書の終結へと向かう踏み切板のごとき「最も醜い人間」章においてその「最も醜い人間」に出会い、思わず同情に襲われ昏倒する。これはツァラトゥストラを襲う最後の危機として描き出される[ii]
。この危機をのりこえ、あらゆる同情の倫理の彼方へと超出してこそツァラトゥストラはツァラトゥストラになる。いいかえれば、彼は神の死を彼の内面において確立する。この『ツァラトゥストラ』の展開は、裏返しにいえば、同情こそがニーチェの最深の内的本質であり、そうだからこそ打倒しがたき最大の力をもって彼に立ち向かってくる敵であったことを物語ってはいないか? ニーチェも賢治の苦しみを生きていたのかもしれない。
だが、もしそうであったとしても、ニーチェは自分の苦しみを主題に据えたわけではない。彼は、苦しんだにしろ、その果てに倣岸にそうした苦しみを軽蔑することに態度を決したのだ。そのかぎり、奴はこの「半真理」性に苦しんではいない。「愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現であるはず」という透徹した認識に到達するなら、いまさら何を苦しむ必要があろうか。苦しむのは弱さの証だ。むしろ君は哄笑したまえ。人間の愛の陳腐な残酷さを。笑うことを学びたまえ! 同情するのではなく! 奴はそういうのではないか?
