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しかし、同時に俺はニーチェについてはこう直観した。奴は勝ち誇ってこの人間の生きる愛の自己欺瞞を、その「半真理」性を暴きだし、嘲笑する。だが、それに苦しんでいるわけではない。ニーチェは断定する。「愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現であるはずだ」と。愛が「荒々しい所有欲と不正」をつねにその背面に潜めているのはそのとおりだ。人間が愛を語る場合の自己欺瞞的な「半真理」性を痛撃したニーチェは鋭い。だが、彼はその痛撃に自ら快哉を叫んでいるのであり、認識者としての凱歌をあげているのだ。

  否、それは俺の早とちりか?

彼の言葉がつねに響かせている激情、猛々しさ、その攻撃的でいてほとんど自虐的でもある陶酔性、それこそは彼の苦しみを物語っているのではないのか?

彼が発狂の直前に披瀝したかの有名な「ディオニュソス=イエス」のエピソードはどうだ! 彼は錯乱がつのりゆく日々のなかで自分のことを「ディオニュソスであり十字架に架けられし者」と呼んだ。或る日眼の前で馬車が横転し、車引きの馬が瀕死の重症を負う。彼はその馬に駆け寄り、その首を掻き抱いて泣きだしたというではないか。確かに『反キリスト者』が暗示するように、ニーチェはイエスの「白痴」的な――ニーチェ自身が注釈しているようにそれはあのドストエフスキーの描くような「白痴」的ということなのだが――その優しさを愛していた。

俺はニーチェを読むときつねに一つの呪文のようにルー・ザロメの次の言葉を思い出す。「いや、ニーチェが、まったく特別な憎悪をこめて、なんらかのものをつけまわし貶めているところでは、いたるところで、そのものが、なんらかの仕方で深く――彼固有の哲学ないしは彼固有の生の核心のうちに深く潜んでいるのだと、確実に想定することができる。このことは、多分、理論についてと同様、人格についても当てはまるであろう」[i] ニーチェが口をきわめて称賛するものこそ実は彼に欠如せるものであり、彼が口をきわめて罵倒するものとは彼自身の本質である、と。



[i]  ザロメ『ニーチェとその作品』