殺害された半身である死者はそれゆえに見ている者である。生に、快楽に、幸福に酔い痴れる者は見ない者だ。俺はノートにこう続けた。
「ものみな反対の裏面をもつ。その裏面があってこそ正面が正面たりうる。相対立するものが、しかし、実は支えあっている。相手なくして自分なし。だから、それは自分の対立者でありながら、同時に自分自身なのだ。にもかかわらず、自分自身だけで自分が成立しうるがごとく事態を偽る。自分の真理の裏側を隠す。裏面の苛酷さに耐える力を人間はもたない。ゆえに人間は原理的に半真理的存在である。ゆえに人間は根本的に自己欺瞞的だ」。
こう俺が書いたとき、俺は自分の愛の「半真理」性に苦しんでいたのだ。
次のニーチェの言葉は俺自身の経験の黒き半身をまっすぐに言い当てるものだった。
「愛する者は、じぶんの思い焦がれている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。…(略)…また愛する者は他の一切の恋敵の零落や失望を狙い、あらゆる『征服者』や搾取者のなかでの最も傍若無人な利己的な者として自分の黄金の宝物を守る竜たろうと願うのを考えると、…(略)…われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない。――つまり性愛のこういう荒々しい所有欲と不正が、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、人々がこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出した――愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現であるはずなのに――という事実である」[i]
(『悦ばしき知識』)。