ニーチェは勝利者が生きる傲慢な自己陶酔に己を同一化する。弱者を踏みにじって、己の勝利を言祝ぐことを恥じることなぞしない、むしろ踏みにじることに己の強者たることの快感をいやがうえにも味わうサディスティックな自己陶酔に同一化する。反対に賢治は、生のゆえに殺害されねばならない弱者の悲哀に己をマゾヒスティックに同一化する。
こうして両者の立ち位置は正反対だ。しかし、見ているところは同じだ。生は同時に殺害だということこそが真理の全体性をなす。にもかかわらず、人はその半面であり背面であるところのもう一つの真理は自分に隠す。隠さざるをえない。表に浮かんだ半分の真理しか見ようとはしない。もう半分を見てしまっては幸福が成り立たないからだ。幸福が、快楽が台無しになるからだ。犠牲となって殺害される者の死毒がシミとなって、享受する幸福と快楽の上に広がりだすからだ。このモチーフの認識においては両者は同一だ。
「半真理」という概念が俺の脳裡に誕生した。
これは俺のオリジナルだ。ちょっとした自慢だ。
俺は或るとき「道化の行進」というタイトルの絵を描いた。その脇に次の言葉を添えた。馬に乗った道化の一群が川岸を進む。その川には人間の顔や眼が溺死体のそれのように漂流物となって陸続と流れてゆくのだ。川は冥府へと注ぐ死の川なのだ。
「We are so sad and happy,
because we have already found the truth,
that we have no solution in this world
エピグラムが道化たちの掲げる旗に記される。
道化たちは川沿いをゆく。
死の川の淵を。
眼、それは彼らの徽章だ。
見ている者たちよ!
君たち、死者よ、殺害された者たちよ!」
真理の全体性を見ることができるのか、それとも半真理しか見ることができないのか?