■「半真理」というモチーフが俺を捉えていた。
サルトルの書いた『聖ジュネ』の次の一節が前から俺の脳裡には棲み着いていた。
「われわれの活動の否定的な時期を、わが社会は沈黙で過ごす。愛される者の敵を憎むことなしに愛すること、肯定されるものの反対物を否定することなしに肯定し、選ばれなかったものを見捨てることなく選択を行い、消費することなく生産することが必要であるわけだ。死者はたちまち持ち去られ、屑はひそかに回収され、清掃の名のもとに前日の破壊をかくすことが毎日くりかえされ、地球の略奪は隠蔽される。」[i]
俺はこの一節が真底気に入っていた。いまもだ!
人間が抱く自分に安心しきった自己正当化の欲望を、匕首の一突きで突き崩すサルトルの言葉はいつも俺を満たした。だから、俺はこの一節から「半真理」という概念を創り出したほどだった。ノートにまず俺はこう書きつけたのだ。
「生は同時に殺害である。殺害なくして生はなし。建設は同時に破壊である。創造は破壊である。破壊、捨て去ること、見捨てることなくして、創造はない。愛の獲得は愛の剥奪である。一人の女から愛を得ることは、その女を愛しているもう一人の男に絶望を強いることである。一人の男から愛を得ることは、その男を愛しているもう一人の女に絶望を強いることである。愛は憎しみである。愛は排除である。生の進行は同時に死への進行である。等々。」
俺はニーチェから或る一節を引用し、そのあとに宮澤賢治のなかから目当ての一節を探してきて、それを並べた。以前賢治はだいぶ読んだ。いま俺はニーチェに浸っている。だから、「半真理」という概念が閃いたとき、それぞれから引用すべき文章を即座に思い出せたほどだ。
「生きるとは何か?――生きる――とは、死のうとする何ものかを絶えず自分から突きはなすこと、だ。生きる――とは、われわれにおける、またたんにわれわれにおけるだけのものでないところの一切の弱化し老化したものに対して、冷酷で無情であることだ。生きる――とはしたがって、死にかけたもの、憔悴したもの、老いぼれたものに対し、敬虔の念をもたないことであるか? 不断に殺害者たるをいうのか?――それなのに年老いたモーゼは言った、『なんじを殺すなかれ!』と。」[ii]
(『悦ばしき知恵』)
宮澤賢治から引いたのは次の一節だった。
主人公のよたかはこう悲嘆にくれる。
「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩ぼくに殺される。そしてそのただ一つのぼくがこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで飢えて死なう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向こうに行ってしまはう。」[iii]
(『よたかの星』)