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■男が女性器を視覚的欲望の対象として発見するなら、フリーダはもちろんそれを絵に描いたのだから、彼女もまたそれを視覚的欲望の対象としてそこに現出させたのだ。だが、俺は思う。

たぶん根本的には、それは彼女の体の内側から触知される内観的な対象としてのそれだ。絵はあくまでもこの内観的触知のシンボリックな視覚化であって、決して男のそれ、外部的で、かつバタイユ風にいえば「侵犯的」な視覚を意味するものではない。それは内から外へと溢れ出て開かれたものなのだ。だからサルトルのいうようなではない。口といっても穴的な口ではない。存在欠如としての穴的口ではなく、成熟したあけびが自らを割るように、内側から充実が開口する口だ。そこには内から外への開くという運動ベクトルが帯電されている。しかもそこには欠如としてであれ、喪失あるいは不可能性の悲しみとしてであれ、胎児が保護され内蔵されている。それは快楽の入り口であると同時に母性の入り口だ。

俺が「対称性」というのはこの点を指してだ。彼女のなかに激しく女性器へのオプセッションが息づいていること、同時にそれが男たちのそれと対蹠的な反対ベクトルのものであること、この両方の意味を込めて、「対称性をなしている」と俺はいいたい。

  果実となったフリーダの女性器は、クールベのあの世界の暗い不安な亀裂、まだ開けられていない縦の線となった闇の入口ではない。また覗き見られた、ロダンの絡み合った蛸の足の迷宮の内奥への入口でもない。サルトルのいう存在欠如のメタファーたるではない。それは子宮の側から果肉となって開かれた紅い血の色の果汁に溢れた口だ。ペニスに貫かれることを、同時に充たされ飲み込み喜びとして享ける能動的受動性、つまり最もポジティヴなマゾヒズムだ。同時に、それは胎児に充たされている充実性だ。たとえ死児という欠如を通して描かれたとしても。

  フリーダ・カーロの伝記は俺に教える。彼女が激しい性欲の持ち主であったことを。セックスの快楽が彼女の生の快楽のなかで中心的な位置を占め、そのことを彼女が強く自覚していたことは、伝記が伝えるさまざまなエピソードからして明白だ[i] 。彼女の描く果実こそはその証拠だ。 俺はそういうあけすけなフリーダが大好きだ。そういう女がいてこそ、俺のヴァギナへの強迫観念は肯定される。恥ずべきものではなくなる。相棒を得る。 



[i]  ヘイデン・エレーラ『フリーダ・カーロ』、一九八~二〇〇、三五六~三五八、三六〇~三六二頁、等