mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~ -81ページ目

東京国 トンキン

 

 

奉天至理應運自在聖明龍見睿文英武崇仁廣孝天下太平欽明光宅章昭萬邦顯應符感威震藩蠻睿謀神功聖治則天道政皇帝

 

李公蘊 - Wikipedia

 

ハノイ - Wikipedia

 

 

ハノイがベトナムの中心都市となったのは、7世紀頃のことである。唐代には雲南と南シナ海を結ぶ交易路上にあったこともあり、安南都護府がおかれ唐による南方支配の拠点となった。唐末に安南都護府の支配は形骸化し、さらに紅河が当時の海上交易網から外れていったため、その重要性は一時低下した。しかし、11世紀の李朝はこの地を都と定め、農業地帯を統治する拠点とした。李朝の成立以降、1802年に阮朝がフエに都を移すまで王都として繁栄。その間は昇竜(タンロン)、東京(ドンキン、トンキン)、東都(ドンドー)など様々な名で呼ばれてきたが、1831年に現在の名称になった。1873年にはフランスに占領され、1887年以降はフランス領インドシナの中心地となった。

1940年、日本軍の仏印進駐により日本の影響下にはなるが、仏領インドシナ植民地政府はそのまま存続していた。1945年3月の明号作戦によって仏領インドシナ植民地政府は解体され、日本の事実上の占領下となるが、1945年(昭和20年)8月15日に、その占領状態は終了し、9月2日にハノイでベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立が宣言された。その後、1946年から1954年の第一次インドシナ戦争においては、ハノイも戦場となり、一時フランス軍が占領した。しかし、ベトナム側が戦争に勝利したことにより、ハノイはベトナム民主共和国の首都となった。

ベトナム戦争中は、橋などの交通施設を中心にアメリカ軍の爆撃を受けた。1976年には南北ベトナムの統一に伴い、ベトナム社会主義共和国の首都となった。

2010年は、1010年に李太祖が、ハノイに遷都して1000年目にあたることから様々な記念行事が行なわれた。同年10月10日には軍事パレードも行なわれている[2]。


『奉天至理應運自在聖明龍見睿文英武崇仁廣孝天下太平欽明光宅章昭萬邦顯應符感威震藩蠻睿謀神功聖治則天道政皇帝

ベトナムの民間伝承によれば、李公蘊には父親がなく、母の范氏が蕉山に遊んだ折、夢の中で神と交わり、その後に李公蘊を産んだという。3歳の時、母は李公蘊を古法寺の法師である李慶文の養子とした[6][7]。

李公蘊は泉州の閩南民系であるという[8][9][10][11][12]。宋の沈括が著した『夢渓筆談』の記載によれば、李公蘊は閩人とされている[注 1]。泉州晋江県安海鎮(中国語版)で発見された『李荘𤆬内李氏房譜』による李氏の家系に関する記載によれば、李公蘊は李淳安[1]の次男で、幼少時に父に従って泉州を離れ、安南に移住した。ただ長兄の李公澡のみは安海に残り、その地の李氏の始祖となった[1]。

華僑大学(中国語版)華人研究所教授の李天錫は、『宋史』と『元史』の記述を考証した上で、李公蘊と後の陳朝初代皇帝陳煚は泉州安海の閩南民系であるとする[1][9]。この他、ある学者は李公蘊は唐の太宗の十四男の曹王李明の末裔との説を立てている[12]。少なくとも李公蘊の父の家系が中国の民族的な背景を持っていたことは、ベトナムの歴史家チャン・クオック・ヴオンによって受け入れられている[13]。

前黎朝への出仕
李公蘊は聡明にして学問を好み、その器は気宇壮大であった。幼い頃から六祖寺に学んだが、僧の万行(中国語版)は李公蘊の非凡ぶりを見抜き、いずれ名君として立つ者と予感した[4][6]。

李公蘊は長じるに及んで経済や歴史を学び、やがて当時安南を支配していた前黎朝に出仕し、殿前軍として仕える[14]。李公蘊は大行皇帝黎桓の娘の黎氏仏銀(中国語版)を娶り[15]、黎姓を賜った[注 2]。

大行皇帝の没後、中宗黎龍鉞が即位するものの、ほどなくして弟の黎龍鋌に殺害され、皇位は簒奪された。群臣が皆恐れて四散逃亡する中、ただ李公蘊のみは中宗の遺体を抱いて慟哭していた。その忠義ぶりに感心した黎龍鋌によって、四廂軍副指揮使、さらに左親衛殿前指揮使に任じられた[14]。

痔を患っていた黎龍鋌は臥したままで政務を執ったため、「臥朝皇帝」と綽名されたが、暴虐で過酷な統治に人心は離反した。そんな折、古法州延蘊郷(現在のトゥーソン市社タンホン坊(ベトナム語版))にある木棉の木が裂け、その中から一行の詩(ベトナム語版)が現れた。

樹根杳杳 禾刀木落
十八子成 東阿入地 木異再生
震宮見日 兌宮隠星
六七年間 天下太平
僧の万行は、「十八子」とはすなわち「李」であり、黎氏が滅んで李氏による国が興るとの寓意が込められたものと解した。万行はその「李氏」こそ李公蘊であり、彼が英邁なる君主として即位すると推察した。臥朝皇帝に害されることを恐れた李公蘊は、万行の手引きで蕉山に隠れた。一方、詩の寓意を知った臥朝皇帝は李姓の大臣を誅殺するものの、帝からの信頼篤い李公蘊のみは免れることができた[5]。

この事件の後、李公蘊は皇位簒奪の野心を抱くようになる[5]。

李朝の創建
景瑞2年(1009年)、臥朝皇帝は崩御した。皇太子の黎龍乍は10歳と幼く、臥朝皇帝の2人の弟の定藩王黎龍鏦(ベトナム語版)と行軍王黎龍鍉(ベトナム語版)は皇位をめぐって争った。時に左親衛殿前指揮使に任じられていた李公蘊と右殿前指揮使の阮低(ベトナム語版)はそれぞれ500の兵を率い、護衛の名目で宮中に侵入する。その折、祗候の陶甘沐(中国語版)は李公蘊に対して即位を勧めた。これを「陰謀」とみなした李公蘊は2人を逮捕するものの、最終的にその意を受ける。陶甘沐と万行の策略の元で、李公蘊は兵を率いて黎龍鏦と黎龍鍉を討って皇位を奪った。そして黎姓から李姓に復し、新たに李朝を興した[4]。翌年には元号を順天とし、父に顕慶王と追号し、生母を明徳太后(中国語版)とした[5]。』

 

以上はWikipediaから参照。
 

くにはうれい山河ありしつことなしのしつること おおきなやねのあるものはかゆく ありもしとね

結局、自分のことしか考えていなかった…高市早苗総理誕生に賭けた麻生太郎の「本当の思惑」

 

 

くにはうれい山河ありしつことなしのしつること おおきなやねのあるものはかゆく ありもしとね

 

 

インドの神々の訪問神

とおくくにつく

その神々は

 

三神

 

また

多くの複数の神々のあること

 

 

ヒンディ

 

海を渡し津の姫の人々

 

 

 

 

 

火の芽

日の女子

 

ひのめこ

 

 

 

ひこ

 

比古

 

日子

 

火子

 

天の目のような太陽と

そのひかりかかやけるその光線を

反射する

月陰

 

 

 

 

 

 

陽光

月陰

 

反射板のようなその月は

 

地上の海のしつまるときの

凪ぎ

なこやかなうみのめん

 

いさないます

いさなきます

 

 

 

 

 

 

いそ

なく

 

 

 

 

海の音根

 

 

 

木のすかすかしくあることの

 

気の空のさえわたる時

 

 

 

共にあることの

しつまるそのこと

 

 

安泰こと

平和

たいらけくあり

やすらけく

 

安寧奈良のここち

 

みよし

よしののみよしのの

 

詳しく

その構成要素の一つ一つを

観察至極

 

格物

致知

 

ゆえに

窮理学

 

希哲学

とは

LIBERALART

 

 

 

 

その

大基盤を

いわいふることの無であるとすると

 

砂上の楼閣もかくかくしかじか

 

大洪水

大地震

 

瓦解の事も

ある

 

白き石の

全てを

排除されてある

大神殿もあって

 

 

それは

既にその神殿には

いのちそのものは

過ぎてない

正に

枯れ木そのものだと

いう

訓示

いましめること

 

うつくしき

くしき

 

 

はなくしの

のはらのうえの

つきかけも

うめはなさけと

とりもなつくし

 

 

安宿倍頎甫

 

南山堂去月院

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある人Aさんある人Bさん 御互いが操作しあう対象物としての人ものだとすると、どうなるのでしょうか

ある人Aさんある人Bさん 御互いが操作しあう対象物としての人ものだとすると、どうなるのでしょうか

 

操作する行為にアディクトして

いる状態を

どこまでも

維持する

 

そのために

ENERGYを得る必要があるので

 

食べ物を得る事も必要だ

 

生きる事の本義

ほんとの意義

 

その人にとっての実際と云う事

 

 

事実

 

あらゆる根拠は

その人に内在している

 

その人とは

A

さん

 

B

さん

それぞれに

各位にある

その

 

どうしても

 

やめたくない行為

 

 

 

何かを操作する事

 

思惑

私的イメージの通りに

自分の人生を生成したいからこそ

 

他人を私の品物として

認知形成し

どこまでも

そする

事を

嗜好する

 

もとめて

このみ

たしなめること

 

 

 

 

 

おもむき

 

 

何をいかしたいのか

 

その人は

という

Theme

 

私的なその嗜好性の内容自体

 

何かと

ASSESSMENTする事のworking

 

 

 

 

 

 

 

その結果

その方には

何が

生産されて

成果として

あるものは

一体

何かと云う事

 

 

たとえば

愛しているんだ

といっては

相手を私物化してしまっているなら

どういう事なのでしょうか

 

愛着物としての

御互いさまと

いうことで

納得する事であろうか

 

なんとなく好きだとか

好ましいとか

 

それで

 

明確な契約もしないままに

 

ただ

なんとなく

生きている仲間とか

そんな

事なのでしょうか

 

 

 

 

 

 

一緒にパンを食べる間

 

関係性

 

 

 

カンパニオン

 

カンパニ

 

companion

 

 

service品としての

それでは無いけど

 

 

 

 

本来はserviceとは

無料などでは無いのです

 

パーソナルサービス程

対価として

高額なのですから

 

 

 

それを全部当然だ

無料なんだと

している

その思惑こそ

内的価値化

できるだけ

価値を低下させていたい思惑が渦巻いている

 

 

それは

人はなんぼでもあるという

暴利の根拠なので

 

どんどん

 

人材を集めて

とにかく

仕事をさせていればいい

役に立つ事を出来ないなら

即刻

やめさせてしまえ

 

という

魂胆

 

あり

 

 

そこで

口先では

人こそ資材としての賢明とか

いうのは

 

なかなか

二枚舌の事でもあり

 

なぜか

俺もいきていかないといけないんだと

そういう人もある

 

みんな

汚いんだ

それなりに

 

そして

 

本質の倫理に響く事は

無視する事

拒否する事

回避する事で

 

生命維持を操作したがる

 

 

 

自分にある生命こそ一番とする時には

特にそうなる

 

 

 

 

 

奉仕したふりとか

 

恩を着せて来る者もあるけども

 

 

何を恩義と云う事だ

 

その御恩とは

一体

何をさす事なのか

 

そもそも

生命自体

自分で

生成した品物ではないのにね

 

 

 

成るのに

 

・・・・・

 

 

どこまでも

これは

おれのものなんだぞ

 

主張し

吠えるのは

なぜ?

 

 

 

 

南山堂安居子