人には限界のある能力しかない、 人にあるのは不完全である能力だけ、
人には限界のある能力しかない、 人にあるのは不完全である能力だけ、
EL(Almightyそのもの)をそれ以外の存在が呼ぶ言
ELI
IYA
弥
あなたは
ELI
EL
IYA
FUA
ELI
IYA
EL
ヤエル
イヤフアエル
イヤフアエーー
彌榮
八重
とか
弥高とか
あなたに
榮
高い誉れ
そのもの
高い方
いやたかし
とてもとても
高い者だ
崇高で
うず高く
うずまさる方
禾
稲などの穀物
だそうだから
か
腹いっぱいだべれるあまりある
あふれる食い物
品物
糧を
くれる
くださる
大宴会に招く方は
HOSTの中のHOST
金を呉れとはいいません
必要な衣服も事前に用意してくれている
けているのです
あげている
あなたに
も
わたしにも
あゆる人々に
個別に
予め
用意している
それは
地上での顕示した事でした
品々は
全て
開示されている
食べ物も
呑み物も
着る衣服も
大王の中の大王
大祭司の中のはじめとおわりの大祭司
祭司だからこそ
父
に
まむくこと
いつも
静かな寂しい
つまり
誰もいない
ものさみし
處で
真向く事
父よ
アバ
AVA
あヴぇ
アラム地方のコトバを使う事
イヤフアーヴェ
あなたこそ
力そのもの
いきるちからの源泉
みなもと
その
者の別け足る者は
地上の管理人として
世話人として
派遣されてきたという
事である
それゆえに
全ての物事について
教えてくれる方
おしわりたい者は
ついていきましたけども
奇跡
死者を一言で起きよと命令し
その死人は
起き上がって
再度
息を吐き
空気を吸う事が出来た
ゆるされて
起き上がった
死人
それは
なぜ
そうしたのか
顕示し
示したのでした
天の父から
一人子は
派遣されて
地上に
降りて来たのですよ
と
太陽の宮でも無いと云う事だ
太陽と
月と
あらゆる星々は
創作され
クリエイトしたのは
その大いなる天主である
父と子と聖霊その三方だと云う事だと
いうことを
示しにきた
なぜなら
なんども
言を
預かる者はあって
いわゆる
預言者といっている次第だが
それらは
まだ
確実な品としては
顕示されていなかった
2025年からすると
紀元前の4年に
その者は
Maria
Nazarethのマリアの胎内に降りて来て
結実した
そのFRUIT
フルクトス
ベントリウス
Mariaの胎内は
受け止める皿
全く一つの染も汚点も無い
器として
NazarethのMariaは
予めその存在は用意されてあった
事の
証明
そして
その子は
神からの
仔羊のそのものとして
成長した
父に奉献
完全に
全焼の生贄としてのそれだと云う事
既に
アブラハムの時には
正に
イサクをもって
身代わりにした
その角の二本あり
その角を柴に絡めていた後ろの正面の羊だ
という事
予兆は既に
いくどもあって
しかして
結実した事
何千年もの積み重ねの末のまた末
40年と
30年と
30年と
3年と
40年
最期の三年と半年と
その最後の三年と半年と
というのは
何か
70年で
エルサレム
神は平安であるその都
城塞は
堅固であった城塞は
完全に周囲をぐるりと
ローマ帝国から
派遣されてきた
大軍団の群れにより
包囲
城内に居た者たちは
飢餓にあえぐ
その後に
陥落したのは
城塞の地下を掘り
通路をつくり
火で燃やす事で
大きな石組みを繋ぐ
アスファルトを
溶かして
土台を
崩壊して
後に
城内の深部である
奧の室
至聖所に到る事で
完全に
聖所は
踏みにじられる事
それは
Nazarethのイエシュアが
顕示した事でしたが
道行の最中
エルサレムの婦人たちに
わたしの為に
泣くのではない
あなたがたのために
その涙
海の磯の鹽の味のする潮
その涙を
流しなさいと
そうしたのは
40年後
その婦人たちの
こどもたちは
どうなったというのでしょうか
正に
大患難を過ぎ越す事になるのです
荒廃は更に荒廃を激しく
齎した結果
これは
アッシリアのニネベとまったく
同じ事でした
予告したことは
正に
そうして
成る事を立証して
いくつも
事例があるのであった
それを
神話だ
人の構築した
物語というのでは
まったくもって
非道と云うことでもある
真面目に
物事を観る時
確かに
太陽のような品は
地上を
焼き払うこと
これは
広島と
長崎で
実際に
いまから
80年前に遭った
現代の
帝国とは
いくつもあるが
さあて
避難所というのは
どこなるのか
そこはなぜ
避難所なのか
地上には
楽園は無いのですから
無理やり
地上に天国を耕作して
構築して
楽園建都するとしたい人々もあるが
そもそも
聖体は
あって
それを
わが
黒い腹に
迎えた者も
幾人もあるのに
なぜか
いまだに
迷い惑うというのは
不思議なモノ
それこそ
主ヨ
主ヨよか
神よ
神よ
とか
口先では
直ぐに吐き出すものだが
しかして
一体
自己イメージのそれらは
何を観ているのか
IDOL
IDEA
EGO
そのものから吐き出し
IMAGEした
偶像とは
何の事だろうか
詳しく
鑑みる事は
重要で
御徳な行為実践の事
judgmentを
下す
裁判官では無いし
あらゆる人々は
人々の構築したきた
法令の審判員と
全てを完全に知り尽くしているいてあるその裁判官とは
まるで
その権能の働きの具合が
違う事
審判員のそれぞれは
その人の
こころの
貧しき事の
立証でもあるからこそ
自己覚知の作業は
重要といわれている次第だ
すこら
では
南山堂安居子
せっかく完全に善い品を顕示されても、そんなもの欲しくないね、と廃棄したのではね・・
人には自由そのものを
贈り物として
あるからこそ
です
何か
対象として
信じ込む必要があるものは
何も無いと云う事だ
詳しく見る事
観察する事
指標を得ている事
最善の事とは
一体何かと
研究する
究明理の事を
自分から
学び
習う事
格物致知というのは
そういう根拠の言の一つだと云う事
南山堂安居子
「人ヨ あなたに一体何がわかるというのだ? 人ヨ わたしは共にあるではないか」
「人ヨ あなたに一体何がわかるというのだ? 人ヨ わたしは共にあるではないか」
ともにあるではないか
ともに
WITH YOU
結ばれているものとして
存在自体のそのひとつ一つとして
いのちそのものであるもの
わたしは過ぎ去ってしまう
ともにあるか
と
問われるとき
いかがするのか
その時は
誰にも
知らない
知る事は無い
3年
30年
4年
40年
終末というのは
いつのことか
知らない
今若木でも
翌日には
一瞬で枯木となる事もあるのだ
長い間の根の生えているその姿は
何を目に映す事か
受け止めた
その事の中にある
人の生きた様々なその状態を
詳しく知る事はあるのか
人は今
もしもいま
その事を
知る事を希望するなら
いのち
そのものを
しつかにして
知る事
存在は
何故
あるのか
自
EGO
われ
我
WO
WAE
我
手
子
わひこ
我は
日の子
光の子とかいうのも
使命感とか
オカルトの中で出現するが
巻物には
「光の子」という表現が登場する
記事を書いた人は
誰か
ペトロとか
パウロとか
言われている者
自分で
もっとも最小の砂粒の一つと
認知した者
か
もっとも小さい
どんな小さな者よりも最小者である
という自己認知を形成した者か
大きく強くたくましくなりたいと
どこまでも
希望していた
憧れの
自己イメージを礼拝していた者たちが
何を見聞きして
そして
我をもって
枝折るか
腰をかがめ
両膝を折って
御前に鎮まる事
鎮魂とは一体何をいいますけ?
quiescere
requiem
もうこれで十分です
満足です
完全に善い事を
理シエテ
理解して
あなたと共にあるから
永遠に
終わりの無い事
終わり無
はじまりも
おわりも
無い
今
そのもの
ずーーと
今
時は無い
刻まれる時は
無い
120%の
溢れ出るその
仁慈
いつくしむその配慮の根源
生命そのものを
常に
よろこぶ
いわいふり
終りなく
たのしむこと
すなわち
やすらく
やすらか
やすらき
保良喜
気
木
木の国
紀
悠紀
よろこばしく
私も
アナタと共にあることをうれしく思うその
うれしみ
何もかも
必要十二分に
善徳であること
私の
いのちを
失う事は
あなたの
いのちを
受け止める事
完全に知る事の
いのちそのもの
という
その過程そのもの
ある人は
Nazarethのイエシュアと
その父と
二方の愛情の事を
理解し
余命の宣告の時に
むしろ
悦ぶ事でした
肉体を過ぎ越して
あの方々に
直接
出会えて
観る
至福直観が
そのまま
永遠にあることを
予告で
知り得たから
という
理由であった
すなわち
死を過ぎ越す時に
その手のひらには
なにかを所持して
もっていくことは
無い
逝くこと
自力では立つ
起きることも出来ないのです
その自発する意識さえも
もう発動されない
その時
暗闇の世界に埋没した
その者であるのか
正に
光
その者との出会いがあるのか
自分の意向と意志で
判断し
決断する事の
希望と云う事である
何かを
善意でした事も
それはそれ
戒律を遵守する事とは
何を求めてか
詳しく理解した者は
かの
サウロと云う男子
彼は
Benjaminの末裔の一人で
非常に優秀で
エリートである者で
ガマリエルという博士の門弟の一人であった
博士で
権力も保持していた
金持でもあって
実際に
神は
唯一だとして
そこに固執するあまりに
Nazarethのイエシュアを
侵害する事
殺すな
生命を
と
いう命令に
反対する事を
いくつも
積み重ねていた者であった
なぜ
目は開かれないのか
目を開いても
知らない
理解しようとしなかった
ゆえに
雪よりも
太陽よりも
真っ白な光そのものは
到来した
馬上の君に
ダマスコに追跡していた
予告があったから
エルサレムから
逃げる事を事前に
予告されていた
なぜか
ローマ帝国の軍団と
それに
大祭司の強権
國の内外からの
憂慮する侵害行為は
生命の破壊そのものを嗜好する行為で
満ち溢れた
廃棄したのは
大祭司自身の固い
意固地
それに恐怖を示して
大勢の者たちを
道連れにして
まさに
迷いする道の
羊たちを
囲って
悲惨なその場所に
まったく
やすらきのない處まで
強制連行する事であった
栄華と共にあったそこは
火の海となり
灰塵
そして
人々は
その場を退く
各地に
避難
難儀を回避して
災難を回避する事
自己にある
生命を大切に
大事にする事を
そもそも
知らされていたから
SYRIA方面に向かう者
アレキサンドリアに向かうもの
地中海を舟で渡る者
東
太陽の昇る方面に向かう者
遠く
インド
や
中国の方面まで
向かった者
北の山脈を超えて
北の大王の領地まで
はせたもの
12人の
聖体を運ぶ者たちは
証拠品をしっかり
自己に
携えていたのだったが
そこで
敵対してくる者たちの事を
行為を
一つ
一つ
受け止める事であった
IYO
PHUEA
ANEE
のみ
100才ころまで
生命を地上に保持したのは
はじめから
おわりまでを観る事であったし
後の人々の
その知り得た事を
伝える事だった
サクリファイドの事
奉献した事
その後に何があったのか
予告されていた事は
全て
成果として
成就したのである
と
説明する事
正に
人々は
それらを
無視する事で
自前の私的偏重したImageを
偶像化する事で
似せて構築してきた
その事の
品の
つみかさね
のいまのこと
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
散らばる文書
とても
生真面目な性格傾向の方には
ふざけているとか
不正義だとかあるでしょう
認知形成結果が
その方の
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
同時に
自由発想という
遊びもあるものだから
何か
おもしろいこと
とは
私的な情感も加味して
あることだ
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ほんとに
自由
そのものとは
一体
何かを
理解できる
必要十二分の能力というのは
一体
どこにあるのか
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
わたしの持論では
それこそ
ローマカトリックのエクレジア自体が
継承してきた2000年の間に
宝珠だと
判断している次第
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
人自身が
なぜ
存在しているのか
という
クエスチオン
QUEST
何
と云う事が
今
ここにあること
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
何かを盲目に信じ込めなど
誰も申していないが
いつしか
人の不安とか
災難を経験して
過ぎ越した者である事で
苦痛を体験を
いくつも
自己の小部屋に
積み重ねてまいった方などは
いわゆる
こころにある傷とか
かなり
曖昧な表現で
理屈を説明されてきた次第であるが
精神分析の手法もあいまって
人の意図をどう理解するか
のテーマですが
ACTそのものを
個別化し
しっかりと
何も混在しないように
細心の注意を
配慮して
事実を
必要十二分
確認する事の作業が
重要であること
霊の仕業だとか
そのような
曖昧な事は
誰でも思慮できる
IMAGEとしては
そこに
人の
よわさがあること
の
証左も
いくつもある
人の頭脳神経細胞システムの機能を
より鮮明にして
いろいろな機能が
同時に
運用されてしかも
自働運用ですから
人体がどのようにあるのか
その設えの事を
究明する意図も必要であること
自己で理解できない現象を
直ぐに
神霊などの動きでそうなっているんだ
などという
人智でも即断した
信じ込みとは
恐怖以外の何ものでもない一つの事で
cultというのは
人知で創作したImageを
偶像化して
どこまでも
アディクトさせようとする強制行為の結果であるから
そういう宗教行為の
あやうさを
実地で検分し
検証し
証拠品として
実例を
それぞれ
casestudyは
必要だ
と
言えます
社会とは人の意図した事で
形成されているので
そこの中で
宗教行為とは
最高位に
重要な部分ではある
現代では
人々の中に
習慣化している
宗教行為ではあるが
神仏の幻想とか
神仏のIMAGEとか
無数の情報がある
それは
人々が世界の人々の創作してきた
品物を
それぞれ
知る事が出来る
媒体を
開発して
商品化して
情報をすぐに得る事を
人々に
可能にしたからでもある
どんな状態にあっても
情報を得る事を
自由
より自由にしてきた歴史過程はあるが
そこで
どんなものが
あるのか
と
査定する指標を
無数に設えて
研究する事
批判
対象物を批判です
自己批判というのは
Catholicの内省の亜流なので
ある人物の思想を
経典にして
それに
自己を照らす
鑑みる事で
操作する対象化にされているのですから
当然
完全な者としての
人物があって
そこにいきつくように
強制
強要など
が
当たり前の事だとすると
それを
懸命に努力しなさい
なんて
命令されてしまった人の中には
どうにかして
現在の
悪いという認知している自分自身の状況を
よりよくしたいからと
支援を求めるでしょうし
そうした
実際は物理的な現象の一つ一つの事であるのですが
何か
霊だとして
人の意向さえも
包括して
しまう
そのまとめ上げの
諸雑さが
散らばり
観る事が
可能ではあるのですから
いつか人というのはその人自らの
肉体から
生命そのものは
逝きます
過ぎて行きますので
どうなのでしょうか
その時は
誰も知っている者など存在しないのです
たとえ
自死を選択した者でも
です
実際にそうして
実行した方の中には
肉体から生命が過ぎていかなかったという方もあるので
どうして
そのような物理的な現象として
あるのか
理屈を知る事も
非常に重要な点で
曖昧な精神論というのは
cultのイデアとも近くて
一応の理由としての説明と
実際に
物理としての説明の統合化と云う事の作業がどうしても必要ではあるのです
そこの乖離
NICHEを
どう一人
一人
受け止めるか
そして
いろいろな状態を抱えている者があって
わたしは
ともにある
あなたと
という
事実
実行しているそのACT
行為実践は
どうでしょうか
確実な事の一つとは言えるのです
その者の霊と事実ある肉体とそれを知る事とは
どういう事でしょうか
ともにあること
いのち
とともにあること
の
意義
意味
価値
merit
などなど
自力で得る事が出来ないのが
いのち
そのものです
人には
能力が限定されているのです
全知全能全善があるとして
なぜ
人自身を
同じように形成しなかったのか
それは
唯一
全知全善全能があることで
必要十二分であるからです
全善と云う事を
知る事は
どうしたら
理解できるか
人
不完全な者が
完全な善を理解するのは
当然
完全な善である状態を保持してる者が
全部
それを
証明してからこそ
理解すること
一つ一つの品
品物を
その者自身の構成している
無数のpeaceそのものを
理解
解体し
て理屈を
構成を
何を
ほのめかしていたのか
とか
何を顕示したのか
見ようとしないと
見えない事は当然だからです
動機の問題
Motif
探している物事が
検討違いでは
いつまでも迷います
惑いますと
いうのは
論理としては
合理なのですから
南山堂安居子