生命そのものを意図して損なう事をどこまでも保持していてそれを喜悦 快楽と意図しているとするならば
生命そのものを意図して損なう事をどこまでも保持していてそれを喜悦 快楽と意図しているとするならば
つまり
その行為と結果の報酬システムを選択していると云う事ならば
なんとも
嘆く事の
悲しみのそのもの一つの事と云う事は
出来るだろう
自分の生命を損なう危険がある事を自分で
意図して避ける事をしても
相手がどこまでも
自らを侵害しようとして
明確な意図を根性として成果しているならば
どうでしょうか
先手必勝であるか
後手であるのか
どうでしょう
勝ち負けでは無い事
生命そのものは
完全に善徳のそのもの
御品物でも
最善の物事であると
いう
大前提に立脚する時に
その者と相手の者の相互作用では
何を選択すと
最善のそれと同一するか
倫理の中でも何を選択する必要があるのか
正当防衛と云う事でも
ある
セルフヘルプと
自助そのものでもある
どこまでも
生命のあることを
憎しみ
排斥し
排除したい
それを
報酬としての快楽を得たいという思いがある存在があるとするとき
何を贈るか
その侵害を意図している存在に
全ての
行為を
柔軟にして
誠実に
荘厳にして
セレモニカル
しつかに
しつまり
安寧の心で
なこやかに
うけとめ
そして
いなすか
たちい
ふるまいは
三点
の位置で全部
済む
全て
一
一
一
とする事
相手の力量をそのまま
尊重する
と云う事
空である手とは
武器は保持していない
つまり
剣は無い
同時に
言
という
剣はあること
衣服も
用意してあること
限りない威力を保持している善徳そのものを
盾とする事
それは
正に
鏡を利用する事だったのだから
相手のそのまんまを
映す
鏡
鑑みる事の
必要は
賢明で
御徳であること
憎しみを
その相手は
何に抱いているのか
病的な思慮であるのか
真に意図した
ゆるすことをしたくないという
存在否定
その時の
状況というのは
正に
典型とはいかない事
臨機応変に機敏にもって
不動の動者としての
対峙
それは
非常に
困難な道行の過程ではある
つみかさねることは
私人としては
一体
なんであろうか
と
自戒
内省する
行為の
蓄積の
一つ
一つ
誰かの不完全な言に自己を
批判し
それの操作を
自らに
仕事として課す事ではない
最高の善徳とは
完全に存在自体とその人の行為を
予め
ゆるしている事
その自由であるので
権威ある者が世界には
各地に存在しているとしても
その権威とは
限られてあるのですから
全能をもってして
ゆるす
者では無いのですし
善悪で審判する事は
不完全そのものである人間にとり
どの人も
漏れなく
不完全な審判行為が生成されてしまうだけ
行為の瑕疵や
過誤も常に付きまとう事だ
十分に必要な実情を
傾聴しているのかどうか
さえも
疑わしい事
単純に
不完全な者である事から生成した
法律文を
土台にしている
GAME
言語ゲームでしかないものであるから
勝ち負けというのは
そうして
人々にとっての属性ではあることを
詳しく究明理してみると
何をその私的個人は
ココロのそこから
求めるのか
立証する事が
可能ではあると云う事
しかし
それも
全ての事を完全に完璧に
立証する事は
不可能だ
なぜなら
人は
Almighty
である存在では
無いからです
それに対しての
もしも
不満や
いや
絶対に私は
Almightyになってやるんだ
と
いう
ヒロイックな
英雄性を嗜む者もあるでしょうが
実際にはその行為選択は
はかない
夢のような
幻の心象でしかないと
知る事である
海の泡のようなものだと
そう認知している事の
御徳は
賢明と云う事
南山堂
POEMいつなないつ 五 七 五 音韻 SOUND 文脈 IMAGE 治療的行為 発露 吐露
何らかの作品をOBJECT
それを
MEDIAとして
コミュニケーション
を
一人
一人
実践して
観る事
何を
発露して
何か吐露するか
ARTとは
単なる技法では無い事
明確な意図が
その個人の内部に芽をはやすことで
おガル
発生する
成長する
過程を
占
う
うらなう
というのは
予兆を確実な物として
示す事だが
ゆえに
今の自己の内面を
鏡に映して
観る事
それは
天命にある
ORDER
いわゆる
完全に善であるその者からの
意図と
どう
差異があるのか
と
検分して観る事の
道具
媒体
仲介
となる
MEDIAであることで
治癒とは
病気が前提となってしまうから
それは
ある種類の
偏見
や
差別の根源を
基底部にしてある判断を誘う可能性もあり
そこに
汚れ無い事の心
正に
検証するにあたっては
決して
汚れ無い器自体が
求められてあるのだ
という
THESISがある
Themeでありえない事
その
汚れ無い
インマクラータ
である物の器があって
そこで
自己を
誠実に
荘厳にして
優しい方の
意図を
うかがう事だ
と云う事
存在している今
ここで
何か
成果を無理して
見栄を張って
あげる
その努力は
何かの投資に成るかどうか
と云う事だ
そのまま
暫く
あって
いま
自己を知る事を
悦ぶ事
喜悦とは
そして
生命と共にあってこそ
喜悦そのものだと
いう
いわいふること
有難い事であって
正に
薬師木
奇しきはなさけのこと
薫香のかおりたち
それを
天の命令の出してくれた方に
ほめうたうこと
せしむる
令と云う事はその事で
いのちをはなさけ
と
いうことだった
なぜならば
天から
種子の
まことに
小さき
辛子の種っコ
よりも
最小の
種子が
おちて
そして死ぬことで
と
いわいふることだから
新芽
若枝のおがることのいわい
生命のにぎにぎしくあること
日の照日のように
事の他
現実を映す
うつくし
ということ
そこに
気持ち
感じた様を
表現する時に
作品としての
その結果を
奏でること
南山堂安居子
ポイエーシス(ぽいえーしす)とは? 意味や使い方 - コトバンク
『ポイエーシス ぽいえーしす poíēsis ギリシア語 創(つく)ること、創造を意味する。プラトンの規定によれば、ポイエーシスとは、「あるものがまだそのものとして存在していない状態から存在(ト・オン)to onへと移行することについてのいっさいの原因」である(『饗宴(きょうえん)』)。いいかえると、それはまだ無秩序のうちにあるものを秩序(タクシス)へともたらすことである。この定義は緩やかに考えれば、全能の神による「無からの創造」creatio ex nihiloから人間的創造に至るあらゆる相に妥当する。イスラエルの宗教に固有のものとされる「無からの創造」の思想は、「無からは何も生じない」というメリッソス(前5世紀ころ)のことば(デールス・クランツ編『断片』30)に集約されるようなギリシア哲学の伝統にはみいだされない。この思想の直接の表明は『旧約聖書』「創世記」はもとより他の正典にもみられないが、「神はすでに存在するものからすべてを造ったのではない」という外典「マカベ第二書」のことばが一つの典拠とされている。「マカベ第二書」が紀元前1世紀初めごろに成立したと推定されることから、「無からの創造」がイスラエルの宗教に固有のものであるかどうかは議論の分かれるところであるが、アリストテレスのいう四原因――目的因、形相因、質料因、作動因のすべてを所有する完全な自己原因的創造として、思想史上ポイエーシスの最高の典型である。これに対してプラトンが世界創造の担い手とするデーミウルゴスdēmiūrgosは、メリッソスのことばに示されるように、自ら質料を創りえないために、それ自身の活動原理を有する必然(アナンケー)の力としての純粋質料を理性の力によって説得して自己の支配下に置かなくてはならない(『ティマイオス』)。アウグスティヌスのことばを借りれば、完全な原因性を有する創造者(ポイエーテース)は、その実体に本来的な存在性、善性あるいは美に拠(よ)って、存在するもの、善きもの、美しきものを創り出す(『告白』)。このような全能の神やそれに近い創造者デーミウルゴスのポイエーシスに対して、人間的なポイエーシスもまたそのテクネー(学問的技術的知識)に拠りつつ、善きもの美しきものを目ざして自己の作品(ポイエーマ)が一定の形(エイドス)をもち秩序(タクシス)を有する存在となるように仕上げてゆく(『ゴルギアス』)。しかし人は神やデーミウルゴスのような自己原因性をもちえない「劣った創造者」(『法律』)であるから、そのポイエーシスは不十分なテクネーに基づく小さな創造、すなわち神の宇宙創造とのアナロギア(類比)にたつ小さなコスモスの創造である。文芸創作に代表される人のポイエーシスが神の創造に倣う小さな創造であることから、それは本来的にミメーシス(模倣)となる。 プラトンは、人のポイエーシスが存在論的にも認識論的にも十分な根拠をもちえないことから、高次の哲学的ポイエーシスの可能性は許容しつつも、とりわけ文芸創作としてのポイエーシスを現象の模倣的再現(ミメーシス)にすぎないものとしてその原理的および事実的危険性を指摘した(『国家』)。一方アリストテレスは『詩学』(悲劇創作論)において、ミメーシスとしてのポイエーシスをその蓋然(がいぜん)的な真理性において積極的に評価し、歴史的記述(ヒストリアー)とは異なる詩的記述(ポイエーシス)の存在理由を、詩作が人間的生における普遍的なありよう(カトルーkatholou)を呈示するところにあるとしている。魂の教導という観点からプラトンは詩作の虚構(プセウドス)の危うさを論難し、アリストテレスは同じ観点から虚構というよりはポイエーシスのもたらす可能的世界(ありうべき世界)の現実的効果(驚きやカタルシス)を重視したのである。その意味で、アリストテレスは創作論の祖であるといえる。[藤田一美]『藤田一美著『ミメーシスとポイエーシス』(『新岩波講座 哲学13 超越と創造』所収・1986・岩波書店)』▽『W. TatarkiewiczHistory of Aesthetics, I (1970, Mouton‐PWN, Warszawa)』[参照項目] | テクネー | ミメーシス出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)』
以上はコトバンクから参照。
私人の身代わりに全ての侮辱行為や侵害行為を受け止る方 私の犯した罪に対しての全部償いする方
私人の身代わりに全ての侮辱行為や侵害行為を受け止る方 私の犯した罪に対しての全部償いする方
それは
NazarethのMariaが
その腕に抱いている子
である事
償い主
贖い主
捕虜になった者の
身代わりに捕虜になる者
何の捕虜か
Catholicでは
悪魔の捕虜としている
悪魔とは
そもそも天使だ
天使の大勢の中でも
天主
いわゆる
天使と云う存在も無から
クリエイトした
クリエイターそのもの
の意向
人は
土から
クリエイトしたので
天使の中には
汚いから
人に奉仕
生きる事の世話を提供すのは
嫌だと
命令
主人の命令を
拒否し
廃棄した存在が複数あって
MI
KA
EL
という階級は下級の天使が
神のような者は誰か
という意味だそうだが
真っ先に
その主人の
命令を拝命して
人々の守護保護防衛
生命を保持できるための
あらゆる手段を提供する事を
誓い
そうした
存在
7つの
アークエンジェルといっていること
大天使だそうだけども
その天使の軍団を想起したのは
やっぱり聖人である者ですし
そうして
秩序の事とか
法の事を思案する事でもある
社会学的な思考の前触れではある
むしろ
形而上なので
metaphysics
そのものについての
人智での思考だから
天使の事は
いくつも
記事があるのですけども
それを
信じるとか
信じないとか
まあ
私的個人の自由であるのは
全部で
そもそも
そんなものあるわけないね
と
いう人でも
では
天使の存在自体を全部
完全に立証できる
能力があるかと云えば
無いとなるしかない
し
天使の存在を完全に立証できる能力を既に保持しているか
と言われて
はい
という者はいない
そういう実例があったと云う事を
証言する者はあるし
体験として
私的体験でしかないのであるから
大勢の人々が
実際に天使に遭遇したんだとしても
それが
ホントに天使かと
疑う事は何も善意を欠如する行為では無いのです
批判とかいうのは
検証する事でも批判で
と云う時には
どこまでも
質問して
試験する事は重要ですね
信じなさいと
命令される事は
その
NazarethのJesusの事であっても
信じなさいというのは
本来
意味としては
信じ込む事を強制する事では無い事で
信頼を共に構築する事の作業を意図している事だから
安心できる方か
どうか
生命そのものを
慈しみ
どこまでもその行為を
促すかどうか
です
ゆえに
あなた方の父はサタンである
と
ユダヤの大祭司とか戒律主義者に
宣言したのは
神殿で
Nazarethのイエシュアを
石殺しにせ
と
意図していたのですから
小さな石を手にして
大勢が
死刑に参与する事を戒律としてあったので
それは
父の意向では無いと
証明する事でしたから
何の権威があって
そのような事を
お前ははけるのか
と
怒鳴る
大祭司
あいつを殺せと
そう
命令すので
既に
立証してしまっている事だった
当然に
どの私人に向けても
生命そのものを
提供する事が
Nazarethのイエシュア自身なので
幼いイエシュアを抱っこする母のMariaは
その子を
全ての人々に
贈り物として
まず先に
父に返納したと云う事
Mariaの
犠牲はそこにあって
しかも
酷い
虐げが
Nazarethのイエシュアにあって
それを全て
Mariaは
目の前にしている事
それは
全部
観る事を
命令として
受け止めていた
父からの
わたしの後からついてきなさい
というのは
その人生のはじめからおわりまでを
知る事を
促しているから
であって
その目的は
誰かを
業火で焼くためでは無い
正に
お前は
キライだから地獄に落ちろ
!
なんて
慈愛そのものである神は命令はしない
それぞれの自由である判断をどこまでも尊重する仁慈であるそのものだからです
これは私の体
け
と
多くの人々に
提供
差し出している
アンパンマンのMODELとしてもあるといっていいね
腹をすかしている者
餓鬼
飢えて死人のようになっている者だ
きわめて
仁慈
の
不足で
荒れている土地のような状態を
内的に抱えて
苦しみを
背負っている者
南山堂安居子