mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~ -44ページ目

生命そのものを意図して損なう事をどこまでも保持していてそれを喜悦 快楽と意図しているとするならば

生命そのものを意図して損なう事をどこまでも保持していてそれを喜悦 快楽と意図しているとするならば

 

つまり

その行為と結果の報酬システムを選択していると云う事ならば

なんとも

嘆く事の

悲しみのそのもの一つの事と云う事は

出来るだろう

 

 

 

自分の生命を損なう危険がある事を自分で

意図して避ける事をしても

相手がどこまでも

自らを侵害しようとして

明確な意図を根性として成果しているならば

 

どうでしょうか

 

先手必勝であるか

 

後手であるのか

 

どうでしょう

 

勝ち負けでは無い事

 

 

生命そのものは

完全に善徳のそのもの

御品物でも

最善の物事であると

いう

大前提に立脚する時に

 

その者と相手の者の相互作用では

何を選択すと

最善のそれと同一するか

 

倫理の中でも何を選択する必要があるのか

 

 

正当防衛と云う事でも

ある

 

 

セルフヘルプと

自助そのものでもある

 

 

どこまでも

生命のあることを

憎しみ

排斥し

排除したい

それを

報酬としての快楽を得たいという思いがある存在があるとするとき

 

 

何を贈るか

その侵害を意図している存在に

 

全ての

行為を

柔軟にして

誠実に

荘厳にして

セレモニカル

しつかに

しつまり

 

安寧の心で

 

なこやかに

うけとめ

そして

いなすか

 

 

たちい

ふるまいは

三点

の位置で全部

済む

 

 

 

 

 

全て

 

とする事

 

相手の力量をそのまま

尊重する

と云う事

 

 

 

 

空である手とは

武器は保持していない

つまり

剣は無い

 

同時に

という

剣はあること

 

 

衣服も

用意してあること

 

限りない威力を保持している善徳そのものを

盾とする事

 

それは

正に

鏡を利用する事だったのだから

 

 

相手のそのまんまを

映す

 

 

鑑みる事の

必要は

 

賢明で

御徳であること

 

憎しみを

その相手は

何に抱いているのか

 

病的な思慮であるのか

 

真に意図した

ゆるすことをしたくないという

 

存在否定

 

 

 

その時の

状況というのは

正に

典型とはいかない事

 

臨機応変に機敏にもって

不動の動者としての

対峙

 

それは

非常に

困難な道行の過程ではある

 

 

 

つみかさねることは

私人としては

一体

なんであろうか

自戒

内省する

行為の

蓄積の

一つ

一つ

 

誰かの不完全な言に自己を

批判し

それの操作を

自らに

仕事として課す事ではない

 

最高の善徳とは

 

完全に存在自体とその人の行為を

予め

ゆるしている事

 

 

 

その自由であるので

 

 

権威ある者が世界には

各地に存在しているとしても

 

その権威とは

限られてあるのですから

 

全能をもってして

ゆるす

者では無いのですし

 

 

善悪で審判する事は

不完全そのものである人間にとり

どの人も

漏れなく

 

不完全な審判行為が生成されてしまうだけ

行為の瑕疵や

過誤も常に付きまとう事だ

 

十分に必要な実情を

傾聴しているのかどうか

さえも

疑わしい事

 

単純に

不完全な者である事から生成した

法律文を

土台にしている

GAME

言語ゲームでしかないものであるから

 

勝ち負けというのは

そうして

人々にとっての属性ではあることを

詳しく究明理してみると

 

何をその私的個人は

ココロのそこから

求めるのか

立証する事が

可能ではあると云う事

 

 

しかし

それも

全ての事を完全に完璧に

立証する事は

不可能だ

 

なぜなら

人は

Almighty

である存在では

無いからです

 

 

それに対しての

もしも

不満や

いや

絶対に私は

Almightyになってやるんだ

いう

ヒロイックな

英雄性を嗜む者もあるでしょうが

実際にはその行為選択は

はかない

夢のような

 

幻の心象でしかないと

知る事である

 

海の泡のようなものだと

そう認知している事の

御徳は

賢明と云う事

 

 

 

 

 

南山堂

POEMいつなないつ 五 七 五  音韻 SOUND 文脈 IMAGE 治療的行為 発露 吐露 

 

 

何らかの作品をOBJECT

 

それを

MEDIAとして

コミュニケーション

一人

一人

実践して

観る事

 

何を

発露して

何か吐露するか

 

ARTとは

 

単なる技法では無い事

明確な意図が

その個人の内部に芽をはやすことで

おガル

発生する

成長する

過程を

 

 

 

うらなう

というのは

 

予兆を確実な物として

示す事だが

 

ゆえに

 

今の自己の内面を

鏡に映して

観る事

 

それは

天命にある

ORDER

 

いわゆる

完全に善であるその者からの

意図と

どう

差異があるのか

検分して観る事の

道具

媒体

仲介

となる

MEDIAであることで

 

治癒とは

病気が前提となってしまうから

 

それは

 

ある種類の

偏見

差別の根源を

基底部にしてある判断を誘う可能性もあり

 

そこに

汚れ無い事の心

正に

検証するにあたっては

決して

汚れ無い器自体が

求められてあるのだ

という

THESISがある

 

Themeでありえない事

 

 

その

汚れ無い

インマクラータ

である物の器があって

そこで

自己を

誠実に

荘厳にして

優しい方の

意図を

うかがう事だ

と云う事

 

存在している今

ここで

何か

成果を無理して

見栄を張って

あげる

その努力は

何かの投資に成るかどうか

と云う事だ

 

そのまま

暫く

あって

いま

自己を知る事を

悦ぶ事

 

喜悦とは

そして

生命と共にあってこそ

喜悦そのものだと

いう

 

いわいふること

 

有難い事であって

正に

薬師木

 

奇しきはなさけのこと

 

 

 

薫香のかおりたち

それを

天の命令の出してくれた方に

ほめうたうこと

 

 

せしむる

 

令と云う事はその事で

いのちをはなさけ

いうことだった

なぜならば

 

天から

種子の

まことに

小さき

辛子の種っコ

よりも

最小の

種子が

おちて

そして死ぬことで

いわいふることだから

 

新芽

若枝のおがることのいわい

 

生命のにぎにぎしくあること

 

日の照日のように

事の他

現実を映す

うつくし

 

ということ

 

そこに

気持ち

感じた様を

表現する時に

 

作品としての

その結果を

奏でること

 

 

 

 

 

 

 

 

南山堂安居子

 

 

 

 

 

立原道造 - Wikipedia

 

 

TGDK20230211.pdf

 

 

ポイエーシス(ぽいえーしす)とは? 意味や使い方 - コトバンク
 

『ポイエーシス ぽいえーしす poíēsis ギリシア語 創(つく)ること、創造を意味する。プラトンの規定によれば、ポイエーシスとは、「あるものがまだそのものとして存在していない状態から存在(ト・オン)to onへと移行することについてのいっさいの原因」である(『饗宴(きょうえん)』)。いいかえると、それはまだ無秩序のうちにあるものを秩序(タクシス)へともたらすことである。この定義は緩やかに考えれば、全能の神による「無からの創造」creatio ex nihiloから人間的創造に至るあらゆる相に妥当する。イスラエルの宗教に固有のものとされる「無からの創造」の思想は、「無からは何も生じない」というメリッソス(前5世紀ころ)のことば(デールス・クランツ編『断片』30)に集約されるようなギリシア哲学の伝統にはみいだされない。この思想の直接の表明は『旧約聖書』「創世記」はもとより他の正典にもみられないが、「神はすでに存在するものからすべてを造ったのではない」という外典「マカベ第二書」のことばが一つの典拠とされている。「マカベ第二書」が紀元前1世紀初めごろに成立したと推定されることから、「無からの創造」がイスラエルの宗教に固有のものであるかどうかは議論の分かれるところであるが、アリストテレスのいう四原因――目的因、形相因、質料因、作動因のすべてを所有する完全な自己原因的創造として、思想史上ポイエーシスの最高の典型である。これに対してプラトンが世界創造の担い手とするデーミウルゴスdēmiūrgosは、メリッソスのことばに示されるように、自ら質料を創りえないために、それ自身の活動原理を有する必然(アナンケー)の力としての純粋質料を理性の力によって説得して自己の支配下に置かなくてはならない(『ティマイオス』)。アウグスティヌスのことばを借りれば、完全な原因性を有する創造者(ポイエーテース)は、その実体に本来的な存在性、善性あるいは美に拠(よ)って、存在するもの、善きもの、美しきものを創り出す(『告白』)。このような全能の神やそれに近い創造者デーミウルゴスのポイエーシスに対して、人間的なポイエーシスもまたそのテクネー(学問的技術的知識)に拠りつつ、善きもの美しきものを目ざして自己の作品(ポイエーマ)が一定の形(エイドス)をもち秩序(タクシス)を有する存在となるように仕上げてゆく(『ゴルギアス』)。しかし人は神やデーミウルゴスのような自己原因性をもちえない「劣った創造者」(『法律』)であるから、そのポイエーシスは不十分なテクネーに基づく小さな創造、すなわち神の宇宙創造とのアナロギア(類比)にたつ小さなコスモスの創造である。文芸創作に代表される人のポイエーシスが神の創造に倣う小さな創造であることから、それは本来的にミメーシス(模倣)となる。 プラトンは、人のポイエーシスが存在論的にも認識論的にも十分な根拠をもちえないことから、高次の哲学的ポイエーシスの可能性は許容しつつも、とりわけ文芸創作としてのポイエーシスを現象の模倣的再現(ミメーシス)にすぎないものとしてその原理的および事実的危険性を指摘した(『国家』)。一方アリストテレスは『詩学』(悲劇創作論)において、ミメーシスとしてのポイエーシスをその蓋然(がいぜん)的な真理性において積極的に評価し、歴史的記述(ヒストリアー)とは異なる詩的記述(ポイエーシス)の存在理由を、詩作が人間的生における普遍的なありよう(カトルーkatholou)を呈示するところにあるとしている。魂の教導という観点からプラトンは詩作の虚構(プセウドス)の危うさを論難し、アリストテレスは同じ観点から虚構というよりはポイエーシスのもたらす可能的世界(ありうべき世界)の現実的効果(驚きやカタルシス)を重視したのである。その意味で、アリストテレスは創作論の祖であるといえる。[藤田一美]『藤田一美著『ミメーシスとポイエーシス』(『新岩波講座 哲学13 超越と創造』所収・1986・岩波書店)』▽『W. TatarkiewiczHistory of Aesthetics, I (1970, Mouton‐PWN, Warszawa)』[参照項目] | テクネー | ミメーシス出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)』

 

 

以上はコトバンクから参照。

私人の身代わりに全ての侮辱行為や侵害行為を受け止る方 私の犯した罪に対しての全部償いする方

私人の身代わりに全ての侮辱行為や侵害行為を受け止る方 私の犯した罪に対しての全部償いする方

 

 

それは

NazarethのMariaが

その腕に抱いている子

である事

 

 

 

 

 

償い主

贖い主

 

捕虜になった者の

身代わりに捕虜になる者

 

何の捕虜か

 

Catholicでは

悪魔の捕虜としている

 

 

 

悪魔とは

そもそも天使だ

 

 

天使の大勢の中でも

 

天主

いわゆる

天使と云う存在も無から

クリエイトした

クリエイターそのもの

 

 

の意向

 

人は

土から

クリエイトしたので

 

天使の中には

汚いから

人に奉仕

生きる事の世話を提供すのは

嫌だと

命令

主人の命令を

拒否し

廃棄した存在が複数あって

 

 

 

MI

KA

EL

という階級は下級の天使が

 

神のような者は誰か

という意味だそうだが

 

真っ先に

その主人の

命令を拝命して

人々の守護保護防衛

生命を保持できるための

あらゆる手段を提供する事を

誓い

そうした

存在

 

7つの

アークエンジェルといっていること

 

 

大天使だそうだけども

 

その天使の軍団を想起したのは

やっぱり聖人である者ですし

 

そうして

秩序の事とか

法の事を思案する事でもある

 

社会学的な思考の前触れではある

 

 

むしろ

形而上なので

metaphysics

 

そのものについての

人智での思考だから

 

 

天使の事は

いくつも

記事があるのですけども

 

それを

信じるとか

信じないとか

まあ

私的個人の自由であるのは

全部で

 

そもそも

 

そんなものあるわけないね

いう人でも

では

天使の存在自体を全部

完全に立証できる

能力があるかと云えば

無いとなるしかない

 

 

天使の存在を完全に立証できる能力を既に保持しているか

と言われて

はい

という者はいない

 

 

そういう実例があったと云う事を

証言する者はあるし

 

体験として

私的体験でしかないのであるから

 

 

大勢の人々が

実際に天使に遭遇したんだとしても

それが

ホントに天使かと

疑う事は何も善意を欠如する行為では無いのです

批判とかいうのは

 

検証する事でも批判で

と云う時には

 

どこまでも

質問して

試験する事は重要ですね

 

 

信じなさいと

命令される事は

 

その

NazarethのJesusの事であっても

信じなさいというのは

本来

意味としては

 

 

信じ込む事を強制する事では無い事で

 

信頼を共に構築する事の作業を意図している事だから

 

安心できる方か

どうか

 

 

生命そのものを

慈しみ

どこまでもその行為を

促すかどうか

です

 

 

ゆえに

あなた方の父はサタンである

ユダヤの大祭司とか戒律主義者に

宣言したのは

 

神殿で

 

Nazarethのイエシュアを

石殺しにせ

意図していたのですから

 

 

 

小さな石を手にして

大勢が

死刑に参与する事を戒律としてあったので

 

それは

父の意向では無いと

 

証明する事でしたから

 

 

 

 

何の権威があって

そのような事を

お前ははけるのか

怒鳴る

大祭司

 

 

あいつを殺せと

そう

命令すので

 

既に

立証してしまっている事だった

 

 

当然に

どの私人に向けても

生命そのものを

提供する事が

Nazarethのイエシュア自身なので

 

幼いイエシュアを抱っこする母のMariaは

その子を

全ての人々に

贈り物として

まず先に

父に返納したと云う事

 

Mariaの

犠牲はそこにあって

しかも

 

酷い

虐げが

 

Nazarethのイエシュアにあって

それを全て

Mariaは

目の前にしている事

 

それは

全部

観る事を

命令として

受け止めていた

 

父からの

 

わたしの後からついてきなさい

というのは

 

その人生のはじめからおわりまでを

知る事を

促しているから

であって

その目的は

 

誰かを

業火で焼くためでは無い

正に

お前は

キライだから地獄に落ちろ

なんて

慈愛そのものである神は命令はしない

 

それぞれの自由である判断をどこまでも尊重する仁慈であるそのものだからです

 

これは私の体

 

多くの人々に

提供

差し出している

 

 

アンパンマンのMODELとしてもあるといっていいね

 

 

腹をすかしている者

餓鬼

 

飢えて死人のようになっている者だ

 

きわめて

仁慈

 

不足で

 

荒れている土地のような状態を

内的に抱えて

苦しみを

背負っている者

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南山堂安居子