神の住まいは神社とか御宮とか云っています、里宮もあるし奥宮もある、いやまの頂上にある屋根のある城
城塞として
神自身を比喩する場合もあるし
自分自身の存在を消してやるぞという正に侵害を意図している
いわゆる
敵の攻撃から
完全に守護保護防衛する方を
私の神といういい方もあるし
剣になって
矛盾になって
という
メタファーもあるし
実際に
そうして
神自身が
ある大王に差し向けたいくつもの厄災もある
それぞれの人が
自分の中にある神という存在があるとするならば
一体
地上では
何が発生するのでしょうか
正に
武器を使用しないで
全て権威を顕示して
したがいなさいと
いいふくめる
その権能は
どんな存在が
保持しているのでしょうか?
ある神は
山のトップに天空から
降って来たとして
その神は
山から
麓に
降りて来て
人々に
歓待される
同時に
その神は
人々にとって
meritである御品物を
ぎょうさん
あまりあるほどに
別け与えす施主として
威厳を顕示する
人々は
有難い事だとして
その神の住まう御宮を
里にも
郷にも
麓の最も良い
見晴らしの良い丘などに形成して
社殿を設営することもある
山の中腹まで
人々は
神を迎えに礼拝しにいきますとして
呼び鈴の代わりに
両方の手を合わせて
うちならすこと
鐘を鳴らす事
などある
門があり
獅子と一角獣の
守護
阿吽
あ
A
うん
UM
はじめの言と
おわりの言
始末
終始
輪っか
和
CIRCLE
リサイクル
生命の循環システムの事でもあるけども
山といいますのは
正に
山背
日の光は
ひむかい
東から
南の中にそして
西に向かい
一転
闇夜にひあかりの光線があり
青い空に
白く光る
日輪がある
そして
西には
傾く月輪があり
世界のその様を
表現する時は
陰陽
光を受ける事で反射する陰
山は
その背後が
陰
日の当たる場所を陽として
一体だと云う事ですけども
太陽から
鳥が
山の一本のわかわかしい
常に緑の生きている木に
止まると
それは
鳥のやとり
として
何かの神からのお知らせとか
人々は
認知したり
動物の出現が
庭先にあるなども
天の
神の意向を
人々に
しらせる
先を知らせる
きさし
であるとしての
認知もある
地球とは
確かに物理の現象にある事だし
人智でもそもそも
物質の物理現象の結果だけども
動物とは人には認知形成できていない物事も
自覚できている才能
能力も
備わっているし
何かを
知らせとして
人々の
家の界隈に
登場する場合もある
古来から
災害とはいいますけども
変化の兆し
予兆を報じる
役割は
確かに
動植物や
昆虫や
または
小さなもっと小さなバクテリアとか
VIRUSなどもある事
それは
正に
神の使命を預かっているのだと
いう観方も
いろいろ古来
いにしえの人々の
認知形成にはあって
吉兆をうらないます
一つの手段でもあった
陰陽の思想とか
方位がどうのとか
八卦とか
いろいろな
見立てというのもあるけども
自然の中に表出する
物理の現象を
詳しく
研究するというのは
非常に
人々にとっては
有意義ではあるというのは従来から
立証されていますのでね
神という概念はいろいろあるのですが
人智を遙かに超えている存在として
その特定をして
完全に存在を立証できないとしても
何かを知らせてくれる存在とする神の概念は成立できるでしょうから
細心の
最新の
ことこまかな
仕組みの全部を
今の人々が
完全に理解しているとは
言えないので
どんなにテクニックが
進化
変化して
発展し
発達しているとしても
全ての現象を
完全にその原因とか要因とか
事細かに
精査できて
全ての現象の根拠を知り尽くすなど出来ないのですし
そこで
そうして
難儀な事が人生には
無数に積まれてあるのだ
自分の事でさえ
維持するのは至難でもある時もあるのだし
と
自分の能力の限界のある事を
自覚している事とか
いつでも
死を我が身に迎える
実際のIMAGE
覚悟を知る事とか
それは
三熊野道とか
出羽三山の道などは
現世の生と
死を体験し
また
復生すると
いう
その過程を
既に用意し
予め
死の体験を経験できる装置が整備されていて
そこも
非常に神の概念と
仏の概念の規定の設えが興味深いところです
これは
世界にもある
死の通過儀礼を
もって
入会するグループ
組織
エクレジアなどもあるのです
複数
人の創作しているその仕組み
ARTというのは
非常に興味深いと云う事です
南山堂
衣食住 くう ねる あそぶ 活動する事 愉楽と云う事は人生を授かっているという低い立場から認知
衣食住 くう ねる あそぶ 活動する事 愉楽と云う事は人生を授かっているという低い立場から認知
何か自分は高い使命に召されているのではないかという思い
思惑を保持している者もあるでしょうし
いつか
自らを馬鹿にした世の狭間にあって生きている人々を「ぎゃふん」と言わせてやるんだと
ココロの中にいわゆる「野心」とか「大志」
おおいなる野望とか
抱いている者もあるでしょう
自尊心といっても
いろいろだ
自分の能力が他者と比較して
特に兄弟姉妹との関係性で
自己認知の形成の過程での
幼少期の一つ一つの体験した事の内実
その人の内部で実った事実を
積み重ねてまいるから
何を抱いているか
意思と意志
ひろく世界の出来事
事実
を
観察し
参与して
臨む事を
仕事としてあることを
決断して
地道に
その道を歩むと
実践するとか
JOURNALIST
旅する事で
世界の各地を
人々に出会い
その人々の意向を知る事
おそわることだ
ということ
断罪したり
審判する事では無い
なぜなら
完全に正義者としての
能力など
は
どの人にも無い
もちろん
自己として
尊大な者だとしても
それの方にも
全能である者では無いと
直ぐに理解できる事だ
し
かりにも
全能者のふりまけること
演じる事で
そういう尊大者を
意図するならば
正に
ドラマツルギーの理論の様な事を
実践していて
世界と云う事を
その者は
舞台として
演技しているんだと
自認するかもしれない
し
また
そうして
アイロニックに
自己表現を醸すのかもしれない
そして
いたずらだ
と
いう者もいて
しかも
複数人であること
表現する事は
各位は
自由そのものを
能力として
具えている事
は
自然法とかいうものでも
common senseでもいいけども
または
人権
ヒューマンライツ
でも
そのどれでもあるでしょうから
時に
侵害
マルトリートメント
アブユーズ
力
その個人に預かっている
授かっている
力を
どうつかうか
という
倫理
ethicsの照らす行為を実践しているのかどうか
であること
何を最優先の事として
選択したのか
自分を兎に角
世間の多くの人々にとって
目立つ事をしたいから
こそ
というのもある
人の気を引くため
と云う事
注目を引き寄せたいから
という手段的意図
ゆえに
演技する事も強く促す事もある
組織では
そうして
広告のようにして
売り出すための
前の準備として
芸を得意とする能力を保持した人々に仕事を提案し
契約する事例もあるし
競い合うSYSTEMだと
GAMEが既に成立しているので
貨幣の価値を計算して
何に投資したら
自尊を保持できるのか
と
いう
内的計算方式を
予め用意している組織
group
束になっている組もあるし
MEDIASYSTEMを
複数構築して
世界SYSTEMとして
共通の概念
共通の言語
共通のSYSTEM
地球上にある
世界のそれぞれの地域に成立している
複数の社会制度を一つにまとめる仕事についている
いわゆる
ヒューマンビーイングの属するあらゆるサブシステムを
統一化するための
作業に従事している人々も複数にいてます
世界を何分割かして
其の後に
世界統一SYSTEMの構築作業としての狙いですね
そして
何を欲しいか
そこは
実際は
とても
私的な価値にうらつけ
されてしまっていて
実際には
公示されてはいない
小さなそれぞれの
「いわゆるブラックボックス」の中にあるその狙い事
どうしても
欲しもの
があるからです
いつか
それは
完全に
おおやけ
開示されて
顕示
誰でも全ての人の本との
その嗜好
もとめてやまない
たしなみたい品物を
知るという時がくるかもしれませんが
どうでしょうか
秘匿にされれている
個々人の小さな室内を
覗き見る事などしても
一体
何かの価値を生産する事になるのでしょうか
それらは
全て
お天道様に
おまかせしていることで
よろしいかなとも思えます
で
秘密と云う事でも
それは
全く
秘密でもなんでもないという事実はある
それは
その当人の存在自体があると云う事は
既に
公であるので
暗闇の中にあろうが
全く光の中にあろうが
equalではある
存在自体は
どの方でも
南山堂安居子
何か?人にとっての普通 普遍価値はなんでしょうか? セインツとしてのワシリーさんとか。
『佯狂者(ようきょうしゃ 英:Holy Fools, fools for Christ/仏:fol en Christ/独:heilige Narr)とは、狂気・愚かさを装って人々を驚かす愚行・非行を行う者を指す言葉[1]。ロシア正教にはそうした者たちをある種の神聖さに近づいている存在「聖なる愚者」として畏敬する伝統があり、かれらが正式に聖人・聖者として位置づけられると「佯狂者」の称号が与えられる[1]。
ロシア語で「ユロージビイ jurodivyj (юродивый)」と称され、これを日本ハリストス正教会が正式な訳語として「佯狂者」と呼んでいる[2]。他に「聖愚者」「瘋癲行者(ふうてんぎょうじゃ)」「至福者」などの訳語がある[2]。
概要
パーヴェル・スヴェドムスキー(ロシア語版)『佯狂者』
佯(よう)の語義は「まねをする、振りをする」で[3]、「佯狂」は「いつわって狂気をよそおうこと」を意味する[4]。ロシア正教会の見解によれば、佯狂者・聖なる愚者は、自らの完全性を世間の目から隠し、世俗的賞賛の虚栄を避けるために、すすんで狂気の仮面を引き受ける。そうした彼らの奇矯なふるまいの背後に、正しい心や高度の道徳性・敬虔さが感じられるとき、彼らは単なる狂人ではなく「聖なる愚者」とみなされることになる[1]。』
以上はWikipedia参照。
あらゆる隣人に
神自身が
ある
という普遍事
とは
せいめい
いのち
そのもの
神自身だと
しても何もおかしくない
フーリッシュであっても
存在があり
その者として
成立してある
UNIQUEであるから
他にはその人は存在しない事
それは
正にくすしきことのそのもの
喜悦そのものであると
宣言しても
何もさしさわることは
無いだろうと
そういう
普遍
あらゆる
人々にとって
共通する価値
最善の物事equal
LIFE
VITA
生命そのもの
いきていまいることの
立証であるから
といLOGIC
ロゴではどうなのでしょうかね
ゆえに
何人も
生命を侵害するな
という
絶対命令
完全な
命令は
上位概念として
形而上でも
形而下でも
通用すると云う事
処刑せよ
汚れている者だ
として
排除して
拒否するのは
その存在自体を
消してしまえ
と
うそをふきつける者こそ
古(いにしえ)から地を這う者だと
言っている次第だ
言
南山堂安居子
以下はWikipedia を参照。
『狂気・愚行を畏敬する心性の歴史は古代エジプト、ギリシャにまでさかのぼるとされるが、これを教会において聖人とみなす伝統はギリシャ正教などでは早くに衰退し、ロシア正教にのみ残った[1][5]。
キリスト教の文脈では、聖なる愚者の偽装された狂気は、イエス・キリストが示した「ケノーシス kenosis(自己無化)」と比較されることがある。新約聖書にある次のような一節がその典拠とされる[1]。』