mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~ -45ページ目

神の住まいは神社とか御宮とか云っています、里宮もあるし奥宮もある、いやまの頂上にある屋根のある城

城塞として

神自身を比喩する場合もあるし

 

自分自身の存在を消してやるぞという正に侵害を意図している

いわゆる

敵の攻撃から

完全に守護保護防衛する方を

私の神といういい方もあるし

 

剣になって

矛盾になって

という

メタファーもあるし

 

実際に

そうして

神自身が

ある大王に差し向けたいくつもの厄災もある

 

 

 

それぞれの人が

自分の中にある神という存在があるとするならば

 

一体

地上では

何が発生するのでしょうか

 

正に

武器を使用しないで

全て権威を顕示して

したがいなさいと

いいふくめる

その権能は

どんな存在が

保持しているのでしょうか?

 

 

 

ある神は

山のトップに天空から

降って来たとして

その神は

山から

麓に

降りて来て

人々に

歓待される

同時に

その神は

人々にとって

meritである御品物を

ぎょうさん

あまりあるほどに

別け与えす施主として

威厳を顕示する

 

 

人々は

有難い事だとして

その神の住まう御宮を

里にも

郷にも

麓の最も良い

見晴らしの良い丘などに形成して

社殿を設営することもある

 

 

山の中腹まで

人々は

神を迎えに礼拝しにいきますとして

 

呼び鈴の代わりに

両方の手を合わせて

うちならすこと

 

鐘を鳴らす事

 

などある

 

門があり

 

獅子と一角獣の

守護

 

阿吽

 

 

うん

 

UM

 

はじめの言と

おわりの言

 

 

始末

終始

 

輪っか

 

 

 

CIRCLE

リサイクル

 

 

生命の循環システムの事でもあるけども

 

 

山といいますのは

 

正に

山背

 

日の光は

ひむかい

 

東から

南の中にそして

西に向かい

 

一転

 

闇夜にひあかりの光線があり

青い空に

白く光る

日輪がある

 

そして

西には

傾く月輪があり

 

世界のその様を

表現する時は

 

陰陽

 

光を受ける事で反射する陰

 

山は

その背後が

日の当たる場所を陽として

一体だと云う事ですけども

 

 

 

太陽から

鳥が

山の一本のわかわかしい

常に緑の生きている木に

止まると

 

それは

鳥のやとり

 

として

 

何かの神からのお知らせとか

人々は

認知したり

 

 

動物の出現が

庭先にあるなども

 

天の

神の意向を

人々に

しらせる

先を知らせる

きさし

 

であるとしての

認知もある

 

 

 

地球とは

確かに物理の現象にある事だし

人智でもそもそも

物質の物理現象の結果だけども

 

動物とは人には認知形成できていない物事も

自覚できている才能

能力も

備わっているし

 

何かを

知らせとして

 

人々の

家の界隈に

登場する場合もある

 

古来から

 

 

災害とはいいますけども

 

変化の兆し

 

 

予兆を報じる

役割は

確かに

動植物や

昆虫や

または

小さなもっと小さなバクテリアとか

VIRUSなどもある事

 

それは

正に

神の使命を預かっているのだと

いう観方も

いろいろ古来

いにしえの人々の

認知形成にはあって

 

吉兆をうらないます

一つの手段でもあった

 

陰陽の思想とか

 

方位がどうのとか

 

八卦とか

 

いろいろな

見立てというのもあるけども

 

自然の中に表出する

物理の現象を

詳しく

研究するというのは

非常に

人々にとっては

有意義ではあるというのは従来から

立証されていますのでね

 

 

 

神という概念はいろいろあるのですが

 

人智を遙かに超えている存在として

 

その特定をして

完全に存在を立証できないとしても

 

 

何かを知らせてくれる存在とする神の概念は成立できるでしょうから

 

 

細心の

最新の

ことこまかな

仕組みの全部を

今の人々が

完全に理解しているとは

言えないので

 

どんなにテクニックが

進化

変化して

発展し

発達しているとしても

 

全ての現象を

完全にその原因とか要因とか

事細かに

精査できて

全ての現象の根拠を知り尽くすなど出来ないのですし

 

そこで

 

そうして

難儀な事が人生には

無数に積まれてあるのだ

 

自分の事でさえ

維持するのは至難でもある時もあるのだし

 

自分の能力の限界のある事を

自覚している事とか

 

いつでも

死を我が身に迎える

実際のIMAGE

覚悟を知る事とか

 

 

それは

 

三熊野道とか

 

出羽三山の道などは

 

現世の生と

死を体験し

また

復生すると

いう

その過程を

既に用意し

予め

死の体験を経験できる装置が整備されていて

 

そこも

非常に神の概念と

仏の概念の規定の設えが興味深いところです

 

これは

世界にもある

 

死の通過儀礼を

もって

入会するグループ

 

組織

エクレジアなどもあるのです

複数

 

 

人の創作しているその仕組み

ARTというのは

非常に興味深いと云う事です

 

 

 

 

 

南山堂

 

 

衣食住 くう ねる あそぶ 活動する事 愉楽と云う事は人生を授かっているという低い立場から認知

衣食住 くう ねる あそぶ 活動する事 愉楽と云う事は人生を授かっているという低い立場から認知

 

何か自分は高い使命に召されているのではないかという思い

思惑を保持している者もあるでしょうし

 

いつか

自らを馬鹿にした世の狭間にあって生きている人々を「ぎゃふん」と言わせてやるんだと

ココロの中にいわゆる「野心」とか「大志」

おおいなる野望とか

抱いている者もあるでしょう

 

自尊心といっても

いろいろだ

 

自分の能力が他者と比較して

特に兄弟姉妹との関係性で

自己認知の形成の過程での

幼少期の一つ一つの体験した事の内実

その人の内部で実った事実を

積み重ねてまいるから

 

何を抱いているか

意思と意志

 

 

 

ひろく世界の出来事

事実

観察し

参与して

臨む事を

仕事としてあることを

決断して

地道に

その道を歩むと

実践するとか

 

 

JOURNALIST

 

旅する事で

世界の各地を

 

人々に出会い

その人々の意向を知る事

 

おそわることだ

 

ということ

 

断罪したり

審判する事では無い

 

なぜなら

完全に正義者としての

能力など

どの人にも無い

 

もちろん

自己として

 

尊大な者だとしても

 

それの方にも

全能である者では無いと

直ぐに理解できる事だ

 

 

かりにも

全能者のふりまけること

演じる事で

そういう尊大者を

意図するならば

 

正に

ドラマツルギーの理論の様な事を

実践していて

世界と云う事を

その者は

舞台として

演技しているんだと

自認するかもしれない

また

そうして

アイロニックに

自己表現を醸すのかもしれない

 

そして

いたずらだ

いう者もいて

しかも

複数人であること

 

 

 

表現する事は

各位は

自由そのものを

能力として

具えている事

自然法とかいうものでも

common senseでもいいけども

または

人権

ヒューマンライツ

でも

 

 

 

そのどれでもあるでしょうから

 

 

時に

侵害

マルトリートメント

アブユーズ

その個人に預かっている

授かっている

力を

どうつかうか

という

倫理

ethicsの照らす行為を実践しているのかどうか

であること

 

 

何を最優先の事として

 

選択したのか

 

 

 

自分を兎に角

世間の多くの人々にとって

目立つ事をしたいから

こそ

 

というのもある

 

 

 

 

人の気を引くため

 

 

 

と云う事

 

注目を引き寄せたいから

という手段的意図

 

ゆえに

演技する事も強く促す事もある

 

組織では

そうして

広告のようにして

 

売り出すための

前の準備として

 

芸を得意とする能力を保持した人々に仕事を提案し

契約する事例もあるし

 

競い合うSYSTEMだと

GAMEが既に成立しているので

 

貨幣の価値を計算して

何に投資したら

自尊を保持できるのか

いう

内的計算方式を

予め用意している組織

group

束になっている組もあるし

 

 

MEDIASYSTEMを

複数構築して

 

世界SYSTEMとして

共通の概念

共通の言語

共通のSYSTEM

 

 

地球上にある

世界のそれぞれの地域に成立している

複数の社会制度を一つにまとめる仕事についている

いわゆる

ヒューマンビーイングの属するあらゆるサブシステムを

統一化するための

作業に従事している人々も複数にいてます

 

 

 

 

 

世界を何分割かして

其の後に

世界統一SYSTEMの構築作業としての狙いですね

 

そして

何を欲しいか

 

 

そこは

実際は

とても

私的な価値にうらつけ

されてしまっていて

 

実際には

公示されてはいない

 

小さなそれぞれの

「いわゆるブラックボックス」の中にあるその狙い事

 

どうしても

欲しもの

 

 

 

があるからです

 

 

いつか

それは

完全に

おおやけ

 

開示されて

顕示

誰でも全ての人の本との

その嗜好

 

もとめてやまない

たしなみたい品物を

知るという時がくるかもしれませんが

 

 

どうでしょうか

 

 

秘匿にされれている

個々人の小さな室内を

 

覗き見る事などしても

一体

何かの価値を生産する事になるのでしょうか

 

 

 

それらは

全て

お天道様に

おまかせしていることで

 

よろしいかなとも思えます

 

 

 

 

秘密と云う事でも

それは

全く

秘密でもなんでもないという事実はある

 

それは

その当人の存在自体があると云う事は

既に

公であるので

 

 

暗闇の中にあろうが

全く光の中にあろうが

 

equalではある

存在自体は

どの方でも

 

 

 

南山堂安居子

 

 

 

 

 

 

 

 

何か?人にとっての普通 普遍価値はなんでしょうか? セインツとしてのワシリーさんとか。

佯狂者 - Wikipedia

 

 

『佯狂者(ようきょうしゃ 英:Holy Fools, fools for Christ/仏:fol en Christ/独:heilige Narr)とは、狂気・愚かさを装って人々を驚かす愚行・非行を行う者を指す言葉[1]。ロシア正教にはそうした者たちをある種の神聖さに近づいている存在「聖なる愚者」として畏敬する伝統があり、かれらが正式に聖人・聖者として位置づけられると「佯狂者」の称号が与えられる[1]。

ロシア語で「ユロージビイ jurodivyj (юродивый)」と称され、これを日本ハリストス正教会が正式な訳語として「佯狂者」と呼んでいる[2]。他に「聖愚者」「瘋癲行者(ふうてんぎょうじゃ)」「至福者」などの訳語がある[2]。

概要

パーヴェル・スヴェドムスキー(ロシア語版)『佯狂者』
佯(よう)の語義は「まねをする、振りをする」で[3]、「佯狂」は「いつわって狂気をよそおうこと」を意味する[4]。ロシア正教会の見解によれば、佯狂者・聖なる愚者は、自らの完全性を世間の目から隠し、世俗的賞賛の虚栄を避けるために、すすんで狂気の仮面を引き受ける。そうした彼らの奇矯なふるまいの背後に、正しい心や高度の道徳性・敬虔さが感じられるとき、彼らは単なる狂人ではなく「聖なる愚者」とみなされることになる[1]。』

 

以上はWikipedia参照。

 

 

あらゆる隣人に

神自身が

ある

という普遍事

 

 

 

 

 

とは

せいめい

いのち

そのもの

神自身だと

しても何もおかしくない

 

 

フーリッシュであっても

存在があり

その者として

成立してある

UNIQUEであるから

 

 

他にはその人は存在しない事

それは

正にくすしきことのそのもの

喜悦そのものであると

宣言しても

何もさしさわることは

無いだろうと

そういう

普遍

あらゆる

人々にとって

共通する価値

最善の物事equal

 

LIFE

VITA

生命そのもの

 

いきていまいることの

立証であるから

 

 

 

 

といLOGIC

 

ロゴではどうなのでしょうかね

 

 

ゆえに

何人も

生命を侵害するな

という

絶対命令

完全な

命令は

上位概念として

形而上でも

形而下でも

通用すると云う事

 

 

処刑せよ

汚れている者だ

として

排除して

拒否するのは

 

その存在自体を

消してしまえ

うそをふきつける者こそ

古(いにしえ)から地を這う者だと

言っている次第だ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南山堂安居子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下はWikipedia を参照。

『狂気・愚行を畏敬する心性の歴史は古代エジプト、ギリシャにまでさかのぼるとされるが、これを教会において聖人とみなす伝統はギリシャ正教などでは早くに衰退し、ロシア正教にのみ残った[1][5]。

キリスト教の文脈では、聖なる愚者の偽装された狂気は、イエス・キリストが示した「ケノーシス kenosis(自己無化)」と比較されることがある。新約聖書にある次のような一節がその典拠とされる[1]。』