それは、このバーの、店主に関する特徴だった。
すなわち、二十代半ばくらいの若者の身でありながら、物腰が至極丁寧で、老獪(ろうかい)な年配者とも良く話が弾み、珍しい菫色の瞳をしていたということだった。
旅人は、薄暗いカウンターの奥の方で、何食わぬ顔で、グラスを磨き始めた若者を捕まえて、質問責めにしたい衝動に駆られた。
このバーは、異空間に漂っているかのように、謎めいている。
だが、その謎を解き明かすことは、例えば、惹かれ合った男女が、一度身体を合わせてしまえば、お互いに抱いていた謎めいた魅力が一つ、消えるようなものなのだろう。
旅人の祖父は、老齢ではあるにせよ、勘は人一倍鋭い方だった。
その祖父が、このバーの謎を解き明かすことなく、幾度も足繁く通っていたのだから、旅人も、その態度に倣(なら)うべきかも知れない。
旅人は、取るべき態度を決めかねて、長い溜め息を漏らした。
それから、六角形のタンブラーを、ゆっくりと口に運んだ。
ブランデーの華やかで官能的な香りが鼻腔を擽(くすぐ)り、水で中和したアルコールの熱が、喉と胃を、穏やかに焼いていく。
それから、黒い革の手帳を開くと、純銀製の万年筆のキャップを外した。
鋭く尖ったペン先に刻まれた繊細な彫刻は、何度見ても、惚れ惚れするくらい、美しいと感じる。
旅人は、この謎めいたバーの印象を、手帳に書き加えながら、祖父も同じようにして、この場でモンブランの滑らかな書き心地に酔いしれていたのだろうと、ふと思った。
そして、既に解き明かされた謎とは、そこで行き止まりになっている袋小路のようなものだとも思った。
つまり、それ以上奥行きがなく、また、広がりようもないのだ。
そのように考えると、謎とは、謎のままにしておくからこそ、無限に解釈の余地があり、無限に想像力の翼が羽ばたいていくとも言えるだろう。
もしもこの世界から、全ての謎が消え失せてしまったら、恐らく豊かな想像力も、同じように潰(つい)えてしまうだろう。
今宵、旅人の手記が、いつもの倍くらいの速度で捗(はかど)っているのは、明らかに、『モンブラン紳士が集うバー』にまつわる謎が、たっぷりとした栄養分を与えているからに他ならなかった。
まるで探偵小説でも書いているような気分だ。
そのようにして、さらさらと調子良く万年筆を走らせていた旅人は、不意にその手を止めた。
インクがそこで切れたのだ。
ところで、モンブラン社製のインクボトルは、少し風変わりな形をしている。
正面から見ると横長で、イタリア製の革靴のようなデザインをしているのだ。
そのことも、少しミステリアスな雰囲気を醸し出すのに、一役買っていた。
そのインクボトルの蓋を開けると、その場で祖父も嗅いだかも知れない、少し苦味のある湿った苔のようなインクの匂いが、ぷんと漂ってきた。
それは、モンブランの滑らかな書き心地に酔いしれる夜が、長引きそうな予感がする瞬間である。
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