すると、バーテンダーの出で立ちをした若者は、軽く眉を釣り上げたものの、それでも丁重な口振りを崩さずに、このように応対した。
「これは失礼致しました。
お客様は、ご立派なモンブラン紳士とお見受けしましたので、当店の仕組みを、既にご存知なのかと思っておりました。
この場で少しご説明させて頂きますと、当店は、お飲み物もご用意させて頂きますが、メインで楽しんで頂くのは、専(もっぱ)らモンブランの滑らかな書き心地に関してでございます。
そのため、予(あらかじ)め吸入してございます万年筆のインクが、途中で切れた時のために、お客様のお好みのインクの色を、お訊きしているのでございます。
そのような仕組みになっておりますので、改めてお尋ね致しますが、インクは何色をご用意致しましょうか?」
その説明により、アルコールの匂いよりも、インクの香りの方が、より濃密に漂っていた理由が理解出来た。
それにしても、風変わりなバーである。
その奇妙さを面白く感じながら、旅人はこう答えた。
「そういうことなら、エメラルドグリーンのインクを、お願い出来るでしょうか。
僕の祖父の代から、使っている色なんです」
黒や紺ならいざ知らず、わざわざエメラルドグリーンのインクを好きこのんで使っている物好きは、そうそういるものではないだろう。
けれども、この風変わりなバーでは、どんな色のインクを注文しても、即座に出てくるような予感がした。
また、それでこそ、『モンブラン紳士が集うバー』として、常連客に愛されることになるのだろう。
若者は、軽く会釈をしてから、カウンターの奥へと引っ込み、旅人が注文した物の準備に取り掛かり始めた。
旅人は、少し色の褪めた赤い革張りのスツールに腰を落ち着けると、傷だらけの木製のカウンターの上に、純銀製のモンブランの万年筆と、黒い革の手帳を並べた。
祖父も使用していた黒い革の手帳は、判型こそB6版で小型なものの、綴じられている薄い紙が集合した厚さは、およそ2㎝近くもある立派な物だった。
けれども、祖父の達筆な筆跡で占められている覚え書きは、そのうちの4分の1ほどに過ぎなかった。
その後を旅人が引き継いで、滞在した街に関する感想や、印象に残った出来事などを、四角張った筆跡で、書き継いでいるのだった。
やがて旅人の手許に届けられたのは、熱湯で消毒されたお絞りと、ブランデーの水割りで満たされたタンブラー、それにエメラルドグリーンのインクが入ったインクボトル、そして、両の掌で包めるくらいの大きさの、小型のキューブランプだった。
小型のキューブランプが用意されたのは、書き物をする際には、店内の照明だけでは薄暗いと考えての、細やかな配慮なのだろう。
「エメラルドグリーンのインクを愛用されているお客様は、実はあまりいらっしゃらないんですよ。
私の記憶にありますところでは、確かお客様の前にお一方だけ、ご用意させて頂きました。
偶然かも知れませんが、その方の穏やかな面差しが、お客様に良く似ていらっしゃいました。
では、モンブランの滑らかな書き心地を、ごゆるりと、ご堪能下さいませ。
他にご入り用な物がございましたら、お気軽に、お申し付け下さい」
そんなふうに言い添えた若者の瞳が、キューブランプの光に照らし出されて、アメジストのような美しい菫色に煌めいた。
そのまま軽く会釈をして、カウンターの奥の方へ引き取って行ったので、見間違いなのかと疑った。
けれども、旅人の脳裏には、祖父による旅の記述が、鮮やかに甦っていた。
・・・モンブラン紳士が集うバー〈全四部~第四部~〉へと続く・・・
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