人権擁護法案に関する考察, 第2章 人権擁護の現実
第1章
では人権の概念について考察したが、ここでは、これまでに人権擁護運動がどのように進んだのかを考察したい。
第1章第3節 で述べたように、1965年に人種差別撤廃条約(あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約)が第20回国連総会において採択され日本も1995年にこれに加入したのであるが、人権擁護委員制度自体は既に1948年に創設されており、翌1949年には人権擁護委員法 (昭和24/5/31法律139号、改正平成11/12/22法律160号)の制定により法的位置づけが明確になった。現在、約14000人の委員が人権擁護活動を行っている。人権擁護法案自体に関連する歴史の詳細については人権擁護法案10年史 に解説されているので、これを参照されたい。そこで、以下、人権擁護運動の功罪を考えていく。
§1. 人権擁護の歴史
1922年に全国水平社(現在の部落解放同盟 、なお水平社博物館 という施設が存在する)が創立されたことにはじまり、差別事件との闘争を行い、京都市など一部地域では同和対策事業に相当する措置が行われていたが、本格的な同和対策事業の始まりは1951年のいわゆる「オールロマンス事件」を契機としている。
この年、雑誌「オールロマンス」10月号に京都市職員執筆の『特殊部落』と題する小説が掲載された。これを被差別部落を極めて劣悪な状況にあるものとして差別的に描いたもので、被差別部落に対して誤った認識を与えるものとして部落解放委員会(今日の部落解放同盟)によって糾弾されたのである。
なお、この小説は実際には在日コリアンの生活風景を描写したもので、そこに介在する朝鮮人差別問題が題材とされていたという指摘がある。れんだいこ氏のページ「補足・オールロマンス事件考 」でこの問題が触れられている。
ただ、筆者は小説原文を読んでおらず、上記のページにおける小説引用が的確であることも保証し得ないのでこの問題はここではこれ以上触れない。とにかくもここでは、この小説が差別小説として糾弾されたという事実を押さえておきたい。
ここに至って、この小説のみならず、そもそも部落の低位な実態そのものについて何ら対策を採らずに放置してきた京都市にこそ最大の責任があるという指摘がなされた。差別事象と行政闘争とを結合させるという運動論の嚆矢となったのである。
以来、京都市では本格的に同和事業が行われ、各地区に改良住宅、診療所などが建設され、大きな改善を見た。そして、全国においても同様の運動論が実践され、部落解放運動の高揚期に至る。そして、同和対策事業特別措置法が成立し、被差別部落内外の格差の是正を目的とした同和事業はいよいよ本格化するのである。
実際、同和対策事業の本格的実施まで、被差別部落内外の格差は著しいものがあった。その実態を表した書物や記事はいくつかあるが、それらは現代の日本人の目から見れば、かえって被差別部落に対して誤った負の印象を与え、差別意識を助長するために書かれたのではないかとさえ思わせる。(雑誌「部落」の1950年代の記事など, また角岡信彦『部落解放運動が残してきたもの』解放出版社『「同和利権の真相」の深層―何がリアルや!』第2章も参照)
こうした状況の改善のために、積極的に同和事業が行われたのであるが、この時点ではこうした措置は適切であったといえる。ただ、被差別部落を対象とし、在日コリアンやその他のマイノリティ・貧困層への配慮を後回しにしたことは問題であった。
また、行政闘争との結合による運動という形態が人権擁護を離れ、単なる行政への圧力へと変質し、「同和利権」などと呼ばれ問題になるのだが、これは第2節 で取り上げたい。
もう一つには在日コリアンに関する差別問題がある。
在日コリアンに関しては、国籍において韓国籍・朝鮮籍(かつての日本統治下の朝鮮出身者という意味で、朝鮮民主主義人民共和国の公民という意味ではない)・帰化したコリア系日本人という違いがあり、日本への移住の原因においても、戦前の出稼ぎ労働・官斡旋や徴用(現在「強制連行」と呼ばれ問題にされているものである)による来日・戦後の朝鮮半島の南北分裂、政治対立、各種弾圧事件(北における旧ブルジョア層や民族主義者への弾圧・南における共産主義者への弾圧や済州島虐殺事件など)、朝鮮戦争などの混乱による難民化と多種多様であり、同和問題のようには単純に議論できない。
ただ、どのような経緯で日本に定住し、いずれの国籍を保持するにせよ、その生活実態が日本社会と深く結びつき、本国からの保障を受けることが困難である限りにおいて、その状況に照らして適切と見られる範囲において一定の保障があってしかるべきだろう。しかし、実際においてこの施策が十分になされてこなかった感がある。もっとも、外国人学校等の卒業者に対して、大学入学資格検定の受検による大学入学資格の取得を可能にすることや、地方公務員の国籍条項の部分撤廃などの差別的な条項の撤廃は行われていた。一方では、在日コリアンの民族団体で、朝鮮民主主義人民共和国の海外同胞団体である在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯) の本国への送金、日本人拉致問題への関与などの疑惑が浮上してくる。これについて第3節 で取り上げていく。
§2. 同和問題の利権・言論蹂躙への変質
同和対策事業によって、多くの被差別部落においては周辺との格差が大幅に縮小したにもかかわらず、同和対策としての多数の措置が残存している地区があり、一方では依然として「低位な実態」が改善されずにいる地区が存在している([北] )。周辺との格差が大幅に縮小した地区においてなお、同和対策としての多数の措置が残存していることが批判されるべきなのであって、事業そのものを、その初期まで遡って批判するのではない。
それ以上に重要なのは、差別問題を口実とした圧力を通じて、運動団体の一部の幹部や一部業者などが独占的に利権を享受したり、ある種の表現・言論・議論を封じようとしたりする事例が表面化していることである。
利権問題については詳しい解説は[中原] に譲り、表現・言論・議論への介入を含む事件については詳しいことは後述し、簡単に実例をあげると
*矢田教育差別事件([中原] , 第7章)
*八鹿・元津事件(橘謙, 『八鹿・朝来暴力事件と言論表現の自由』, [成澤] , pp.175--181)
*「橋のない川」撮影妨害事件(湯浅貞夫, 『「解同」による映画「橋のない川」撮影妨害』[成澤] , 第3部第3章)
といった例が挙がってくる。
§3. 朝鮮総聯にまつわる疑惑・事件
朝鮮総聯による朝鮮民主主義人民共和国への組織的な献金、帰国者を人質にとっての在日コリアンに対する恐喝はよく知られている。また、日本人拉致事件に関しては、工作員の密上陸や拉致対象者の選定への関与、被害者家族あるいは被害者救済運動を行っている人物への嫌がらせの疑惑が強い。そして1993年には大阪で開かれたRENK(救え!北朝鮮の民衆/緊急ネットワーク) の集会を襲撃するという、1990年代とは思えぬ事件([李] )が発生している。
もっとも、朝鮮総聯による献金や嫌がらせ、報道機関に対する抗議活動は次第に減少しているようである。1990年代以降の朝鮮総連とその関連団体によるマスコミへの抗議活動としては、
*上述した93年のRENK集会におけるマスコミへの取材妨害、同集会について報道した毎日新聞社への抗議([李] )
*同年のAERAの朝銀の融資疑惑の報道に対する抗議
*97年のAERAの東明商事事件の報道に対する抗議
*同年の毎日新聞の朝銀大阪破綻問題の報道に対する抗議
*98年の産経新聞の朝鮮商工連脱税疑惑の報道に対する抗議(以上4つは[野村, pp.190-192] )
などがあるが、次第に下火になっているようである。日本人拉致問題に関する嫌がらせも沈静化していると見られるし、最近ではむしろ共和国の拉致問題のほか、飢餓状況や人権問題についてかなり取り上げられている。ただ、依然として安心は禁物であろう。
なお、拉致問題に関しては、この問題を追っていた兵本達吉・元共産党議員秘書が1998年に「警備公安警察官と会食し、この際に警備公安警察に就職斡旋を依頼をした、警察のスパイ」とされて共産党から除名される事件が起こっている。これに対して兵本氏は拉致問題を追及する政府のプロジェクトチームへの参加を紹介され、当局から参加を依頼されたのだとしてこれに反論している。ここではこの問題の真相を追及することは行わないが、共和国においては「美帝(アメリカ)・日帝(日本)・南朝鮮(韓国)のスパイ」という口実での粛清は、南労党粛清事件をはじめ枚挙に暇がない。部落解放同盟への追及において実績をあげている(事実、本章では部落解放同盟の功罪を論ずるにあたっては、全国部落解放運動連合会(現・全国地域人権運動総連合)や部落問題研究所といった共産党と関連の深い団体の資料を大きく参考にした)共産党がこのような国家と同類でないことを祈るばかりである。
さて、朝鮮総聯による事件、すなわち「北」に関連する問題を取り上げたが、「南」に関連する問題はどうであろうか。実はこちらのほうが謎が多く、日本社会の問題より根深く関与しているとも言えるのである。しかし、その全貌を取り上げるには多くの準備が必要となる。ここでは、人権擁護法案への反対運動や、自虐史観批判に深く関わっている勢力に、「南」との関わりが強く問われている勢力が存在するとだけ言っておこう。この論考を書くことにした動機の一つはここにある。すなわち、人権擁護法案への賛成論だけでなく、反対論の中にも何かしらの他意が潜在しているのではないか、それを検討することが本論考の目的の一つなのである。
§4. 総括
以上で部落解放運動が現在、歪んだ形に変質していること、また在日コリアンの人権擁護を目指していた朝鮮総聯が実際には帰国者を人質にとっての恐喝や、本国に批判的な報道・活動への集団的圧力を度々行ったことなどを述べた。
このように部落解放同盟や朝鮮総聯といった団体の事件を挙げたからといって、これをもってそれらの団体の一般の構成員、ましてそれらの団体に所属してすらいない一般の被差別部落出身者や在日コリアン、その他のマイノリティを攻撃するというのではない。これらの団体の横暴によって利益を享受しうるのは、多くの場合一部の団体幹部、業者、共和国本国の高級幹部などに限られる。朝鮮総聯に至っては、在日コリアンの人権を擁護するといいながら、彼らから帰国した親戚を人質にとって恐喝を行ってさえいる。そのような横暴に関しては、当該団体の構成員においてさえ批判する声は相当に強い。
ただ、人権団体の関与する事件を差別するための理由付けに利用する人々がいることも確かである以上、そのような事件を指摘することはこうした人々が自らの差別的主張に取り込むことのできる議論を用意することになるだろう。しかし、これは差別するための理由付けに用いること自体の誤りを意味するものである。この点は、何を差別と見るかということを議論するために後にしばしば取り上げるだろう。
さて、第1章 および本章において、人権擁護法案を考察する背景を準備してきたのだが、次章では人権擁護法案の法的な解釈、第4章では人権擁護法案の現実上の運用に関して考えられる問題について記していきたい。
参考
[北] 北孔介, 放置された1000部落―事業未実施地域をみて , 人権ブックレット 15, 解放出版社, 1989.
[中原] 中原京三, 追跡・えせ同和行為, 部落問題研究所, 1988.
[成澤] 成澤榮壽, 表現の自由と部落問題, 部落問題研究所, 1993.
[野村] 野村旗守, 北朝鮮送金疑惑, 文春文庫, 2002.
[李] 李英和, 朝鮮総連と収容所共和国, 小学館文庫, 1999, または 李英和, 北朝鮮収容所半島, 小学館, 1995.
第1章第3節 で述べたように、1965年に人種差別撤廃条約(あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約)が第20回国連総会において採択され日本も1995年にこれに加入したのであるが、人権擁護委員制度自体は既に1948年に創設されており、翌1949年には人権擁護委員法 (昭和24/5/31法律139号、改正平成11/12/22法律160号)の制定により法的位置づけが明確になった。現在、約14000人の委員が人権擁護活動を行っている。人権擁護法案自体に関連する歴史の詳細については人権擁護法案10年史 に解説されているので、これを参照されたい。そこで、以下、人権擁護運動の功罪を考えていく。
§1. 人権擁護の歴史
1922年に全国水平社(現在の部落解放同盟 、なお水平社博物館 という施設が存在する)が創立されたことにはじまり、差別事件との闘争を行い、京都市など一部地域では同和対策事業に相当する措置が行われていたが、本格的な同和対策事業の始まりは1951年のいわゆる「オールロマンス事件」を契機としている。
この年、雑誌「オールロマンス」10月号に京都市職員執筆の『特殊部落』と題する小説が掲載された。これを被差別部落を極めて劣悪な状況にあるものとして差別的に描いたもので、被差別部落に対して誤った認識を与えるものとして部落解放委員会(今日の部落解放同盟)によって糾弾されたのである。
なお、この小説は実際には在日コリアンの生活風景を描写したもので、そこに介在する朝鮮人差別問題が題材とされていたという指摘がある。れんだいこ氏のページ「補足・オールロマンス事件考 」でこの問題が触れられている。
ただ、筆者は小説原文を読んでおらず、上記のページにおける小説引用が的確であることも保証し得ないのでこの問題はここではこれ以上触れない。とにかくもここでは、この小説が差別小説として糾弾されたという事実を押さえておきたい。
ここに至って、この小説のみならず、そもそも部落の低位な実態そのものについて何ら対策を採らずに放置してきた京都市にこそ最大の責任があるという指摘がなされた。差別事象と行政闘争とを結合させるという運動論の嚆矢となったのである。
以来、京都市では本格的に同和事業が行われ、各地区に改良住宅、診療所などが建設され、大きな改善を見た。そして、全国においても同様の運動論が実践され、部落解放運動の高揚期に至る。そして、同和対策事業特別措置法が成立し、被差別部落内外の格差の是正を目的とした同和事業はいよいよ本格化するのである。
実際、同和対策事業の本格的実施まで、被差別部落内外の格差は著しいものがあった。その実態を表した書物や記事はいくつかあるが、それらは現代の日本人の目から見れば、かえって被差別部落に対して誤った負の印象を与え、差別意識を助長するために書かれたのではないかとさえ思わせる。(雑誌「部落」の1950年代の記事など, また角岡信彦『部落解放運動が残してきたもの』解放出版社『「同和利権の真相」の深層―何がリアルや!』第2章も参照)
こうした状況の改善のために、積極的に同和事業が行われたのであるが、この時点ではこうした措置は適切であったといえる。ただ、被差別部落を対象とし、在日コリアンやその他のマイノリティ・貧困層への配慮を後回しにしたことは問題であった。
また、行政闘争との結合による運動という形態が人権擁護を離れ、単なる行政への圧力へと変質し、「同和利権」などと呼ばれ問題になるのだが、これは第2節 で取り上げたい。
もう一つには在日コリアンに関する差別問題がある。
在日コリアンに関しては、国籍において韓国籍・朝鮮籍(かつての日本統治下の朝鮮出身者という意味で、朝鮮民主主義人民共和国の公民という意味ではない)・帰化したコリア系日本人という違いがあり、日本への移住の原因においても、戦前の出稼ぎ労働・官斡旋や徴用(現在「強制連行」と呼ばれ問題にされているものである)による来日・戦後の朝鮮半島の南北分裂、政治対立、各種弾圧事件(北における旧ブルジョア層や民族主義者への弾圧・南における共産主義者への弾圧や済州島虐殺事件など)、朝鮮戦争などの混乱による難民化と多種多様であり、同和問題のようには単純に議論できない。
ただ、どのような経緯で日本に定住し、いずれの国籍を保持するにせよ、その生活実態が日本社会と深く結びつき、本国からの保障を受けることが困難である限りにおいて、その状況に照らして適切と見られる範囲において一定の保障があってしかるべきだろう。しかし、実際においてこの施策が十分になされてこなかった感がある。もっとも、外国人学校等の卒業者に対して、大学入学資格検定の受検による大学入学資格の取得を可能にすることや、地方公務員の国籍条項の部分撤廃などの差別的な条項の撤廃は行われていた。一方では、在日コリアンの民族団体で、朝鮮民主主義人民共和国の海外同胞団体である在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯) の本国への送金、日本人拉致問題への関与などの疑惑が浮上してくる。これについて第3節 で取り上げていく。
§2. 同和問題の利権・言論蹂躙への変質
同和対策事業によって、多くの被差別部落においては周辺との格差が大幅に縮小したにもかかわらず、同和対策としての多数の措置が残存している地区があり、一方では依然として「低位な実態」が改善されずにいる地区が存在している([北] )。周辺との格差が大幅に縮小した地区においてなお、同和対策としての多数の措置が残存していることが批判されるべきなのであって、事業そのものを、その初期まで遡って批判するのではない。
それ以上に重要なのは、差別問題を口実とした圧力を通じて、運動団体の一部の幹部や一部業者などが独占的に利権を享受したり、ある種の表現・言論・議論を封じようとしたりする事例が表面化していることである。
利権問題については詳しい解説は[中原] に譲り、表現・言論・議論への介入を含む事件については詳しいことは後述し、簡単に実例をあげると
*矢田教育差別事件([中原] , 第7章)
*八鹿・元津事件(橘謙, 『八鹿・朝来暴力事件と言論表現の自由』, [成澤] , pp.175--181)
*「橋のない川」撮影妨害事件(湯浅貞夫, 『「解同」による映画「橋のない川」撮影妨害』[成澤] , 第3部第3章)
といった例が挙がってくる。
§3. 朝鮮総聯にまつわる疑惑・事件
朝鮮総聯による朝鮮民主主義人民共和国への組織的な献金、帰国者を人質にとっての在日コリアンに対する恐喝はよく知られている。また、日本人拉致事件に関しては、工作員の密上陸や拉致対象者の選定への関与、被害者家族あるいは被害者救済運動を行っている人物への嫌がらせの疑惑が強い。そして1993年には大阪で開かれたRENK(救え!北朝鮮の民衆/緊急ネットワーク) の集会を襲撃するという、1990年代とは思えぬ事件([李] )が発生している。
もっとも、朝鮮総聯による献金や嫌がらせ、報道機関に対する抗議活動は次第に減少しているようである。1990年代以降の朝鮮総連とその関連団体によるマスコミへの抗議活動としては、
*上述した93年のRENK集会におけるマスコミへの取材妨害、同集会について報道した毎日新聞社への抗議([李] )
*同年のAERAの朝銀の融資疑惑の報道に対する抗議
*97年のAERAの東明商事事件の報道に対する抗議
*同年の毎日新聞の朝銀大阪破綻問題の報道に対する抗議
*98年の産経新聞の朝鮮商工連脱税疑惑の報道に対する抗議(以上4つは[野村, pp.190-192] )
などがあるが、次第に下火になっているようである。日本人拉致問題に関する嫌がらせも沈静化していると見られるし、最近ではむしろ共和国の拉致問題のほか、飢餓状況や人権問題についてかなり取り上げられている。ただ、依然として安心は禁物であろう。
なお、拉致問題に関しては、この問題を追っていた兵本達吉・元共産党議員秘書が1998年に「警備公安警察官と会食し、この際に警備公安警察に就職斡旋を依頼をした、警察のスパイ」とされて共産党から除名される事件が起こっている。これに対して兵本氏は拉致問題を追及する政府のプロジェクトチームへの参加を紹介され、当局から参加を依頼されたのだとしてこれに反論している。ここではこの問題の真相を追及することは行わないが、共和国においては「美帝(アメリカ)・日帝(日本)・南朝鮮(韓国)のスパイ」という口実での粛清は、南労党粛清事件をはじめ枚挙に暇がない。部落解放同盟への追及において実績をあげている(事実、本章では部落解放同盟の功罪を論ずるにあたっては、全国部落解放運動連合会(現・全国地域人権運動総連合)や部落問題研究所といった共産党と関連の深い団体の資料を大きく参考にした)共産党がこのような国家と同類でないことを祈るばかりである。
さて、朝鮮総聯による事件、すなわち「北」に関連する問題を取り上げたが、「南」に関連する問題はどうであろうか。実はこちらのほうが謎が多く、日本社会の問題より根深く関与しているとも言えるのである。しかし、その全貌を取り上げるには多くの準備が必要となる。ここでは、人権擁護法案への反対運動や、自虐史観批判に深く関わっている勢力に、「南」との関わりが強く問われている勢力が存在するとだけ言っておこう。この論考を書くことにした動機の一つはここにある。すなわち、人権擁護法案への賛成論だけでなく、反対論の中にも何かしらの他意が潜在しているのではないか、それを検討することが本論考の目的の一つなのである。
§4. 総括
以上で部落解放運動が現在、歪んだ形に変質していること、また在日コリアンの人権擁護を目指していた朝鮮総聯が実際には帰国者を人質にとっての恐喝や、本国に批判的な報道・活動への集団的圧力を度々行ったことなどを述べた。
このように部落解放同盟や朝鮮総聯といった団体の事件を挙げたからといって、これをもってそれらの団体の一般の構成員、ましてそれらの団体に所属してすらいない一般の被差別部落出身者や在日コリアン、その他のマイノリティを攻撃するというのではない。これらの団体の横暴によって利益を享受しうるのは、多くの場合一部の団体幹部、業者、共和国本国の高級幹部などに限られる。朝鮮総聯に至っては、在日コリアンの人権を擁護するといいながら、彼らから帰国した親戚を人質にとって恐喝を行ってさえいる。そのような横暴に関しては、当該団体の構成員においてさえ批判する声は相当に強い。
ただ、人権団体の関与する事件を差別するための理由付けに利用する人々がいることも確かである以上、そのような事件を指摘することはこうした人々が自らの差別的主張に取り込むことのできる議論を用意することになるだろう。しかし、これは差別するための理由付けに用いること自体の誤りを意味するものである。この点は、何を差別と見るかということを議論するために後にしばしば取り上げるだろう。
さて、第1章 および本章において、人権擁護法案を考察する背景を準備してきたのだが、次章では人権擁護法案の法的な解釈、第4章では人権擁護法案の現実上の運用に関して考えられる問題について記していきたい。
参考
[北] 北孔介, 放置された1000部落―事業未実施地域をみて , 人権ブックレット 15, 解放出版社, 1989.
[中原] 中原京三, 追跡・えせ同和行為, 部落問題研究所, 1988.
[成澤] 成澤榮壽, 表現の自由と部落問題, 部落問題研究所, 1993.
[野村] 野村旗守, 北朝鮮送金疑惑, 文春文庫, 2002.
[李] 李英和, 朝鮮総連と収容所共和国, 小学館文庫, 1999, または 李英和, 北朝鮮収容所半島, 小学館, 1995.