皆様、こんばんは!😊✨
藤沢市の川添ピアノ教室の
川添雅恵です。
いつもお読みいただき
ありがとうございます😊
✨✨✨✨✨
今日は、弥勒寺スタジオで
ソルフェージュレッスンの
サマークラスを開催しました❣️
今日の内容は、
リトミックレッスン
リズムレッスン
初見視唱
書き取り聴音
合唱(アヴェ・ベルム・コルプス)
など。
みんな、とっても楽しそうでした❣️
ソルフェージュレッスンは
今後も開催したいと思いました🥰
普段のピアノレッスンは個人なので
こうしてグループレッスンするのも
みんなが仲良くなれて良いですね❣️
この夏休みに6日間の日程で開催し
生徒さんたちには、ご都合の良い日に
ご参加いただきました🥰✨
今日は5日目でしたので
残すところ、あと1日‼️
最終日は、明後日の木曜日に
10:30〜11:20 初級クラス
11:30〜12:20 中級クラスを
開催したいと思っております🥰✨
ご参加の生徒さんたちは
最終日のソルフェージュレッスンを
楽しみにしていてくださいね❣️❣️
✨✨✨✨✨✨
唐突に話は変わりますが、明日は
チェルニーコンクールがあります❣️
以下はWikipediaからの抜粋です。
カール・チェルニー(Carl Czerny ドイツ語: [karl ˈtʃɛrni], 1791年2月21日 ウィーン - 1857年7月15日 ウィーン)は、オーストリアの作曲家、ピアニスト、ピアノ教師。
父はボヘミア出身で、苗字はチェコ語: Černý([ˈtʃɛrniː] チェルニー、「黒い」の意味)に由来している。
ドイツ語では発音は「チェルニ」[ˈtʃɛrni][1]だが、日本では「ツェルニー」と発音・表記されることも少なくない。
祖父はボヘミアのニンブルクのアマチュア・ヴァイオリニストであり、父のヴェンツェル(ヴァーツラフ)・チェルニー (独: Wenzel Czerny, 捷: Václav Černý) は、プラハの修道院で合唱やオルガン演奏に従事したあと、軍隊に15年間務めた。
チェルニーの父は結婚ののち、プラハからウィーンに出て、ピアノ教師として生計を立てるようになった。
家庭内の会話はチェコ語で行われたため、チェルニーは6、7歳になっても片言程度のドイツ語しか話すことができなかった。
神童であったチェルニーは3歳でピアノを弾き、7歳で作曲を行った。
最初にピアノを教えたのは父で、息子に主にバッハ、モーツァルト、クレメンティなどを教えた。
やがてチェルニーは、父の友人を介してベートーヴェンの作品を知るに至り、弟子入りを志願。
10歳の時に、ベートーヴェンの家を訪れて「悲愴ソナタ」を弾く機会に恵まれ、弟子入りを果たした。
チェルニーは続く3年間ベートーヴェンの指導を受け、ピアノ演奏の基礎から学びなおさせられた。
また彼は、フンメルからもレッスンを受けた。
さらにクレメンティがパリ、ウィーン、サンクトペテルブルク、ベルリン、プラハ、ローマ、ミラノで開いていた講座にも出席した。
チェルニーに学んだ作曲家としてもっとも有名なのはフランツ・リストである。
リストがチェルニーに師事したのは1822年から1823年の14か月間に過ぎないが、その後も長く交友関係が続いた。
チェルニーはリストが生涯でピアノを師事した唯一の人物であり、リストの『24の大練習曲』およびその改訂版である『超絶技巧練習曲』はチェルニーに献呈されている。
彼は痛風を患い、66歳でウィーンに没した。
生涯独身を貫き、近しい親族もなかった。
体調を大きく崩した1857年には、チェルニーが評価したショパンやシューマン、メンデルスゾーン、シューベルトなどの年下の多くの作曲家はすでに鬼籍に入ってしまい、ピアノ・ヴィルトゥオーゾの時代も終わってしまっていた。
死の直前、友人で弁護士であったゾンライトナーの助けを借り、膨大な資産を整理して遺言書を作成した。
1842年に自伝『わが生涯の思いで』(Erinnerungen aus meinem Leben)を書き、ベートーヴェンに関する重要な証言を含んでいたが、長らく未出版だった(ウィーン楽友協会蔵)。1968年に出版された。
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そんな、ツェルニーの魅力的な曲が聴ける
ツェルニーコンクール❣️
私はレッスンがあって行かれませんが
是非、沢山の方に見に行っていただきたいです🥰✨
明日、銀座のYAMAHAの6階サロンで
開催されます😊✨
来年は、生徒さんたちにも
受けてもらえたら嬉しいです💖✨
それでは、今日はこの辺で!
明日も皆様にとって
素晴らしい一日になりますように💖✨
いつも皆様の幸せを
心よりお祈りしております💖✨
川添雅恵