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mkparisのフランス歳時記、日々のフランス、フランス人

フランス・パリからフランスやパリに関するトピックをお届けします。
日記形式で、可能な限り日々綴っていきたいと思います。お休みしたらごめんなさい。

8月22日は、フランスの3大作曲家の一人、ドビッシーの誕生日です。(3大作曲家=ラヴェル、サン・サーンス)

 

1862年8月22日、クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy )パリ郊外のサンジェルマン・アン・レーで生まれる。この生家は現在、ドビッシー博物館となっている。

 

ドビュッシーは「繊細で夢幻的な音楽」のイメージがありますが、本人はかなり気難しく、皮肉屋で、型破りな人物でした。

写真の説明はありません。

早くから音楽の才能を発揮し、10歳でパリ音楽院に入学する。

入学すると、早くから教授たちを困らせました。特に和音の授業では、普通なら「この和音の後にはこの和音」といった規則を守るのですが、ドビュッシーは、「なぜそうしなければならないのですか?」という態度。教授から「どんなルールに従ってそんな音を弾いているんだ?」と怒られると、ドビュッシーは「僕の快楽(心地よさ)というルールです」と言い放ち、教授たちからすると「優秀なのに言うことを聞かない学生」でした。しかし、その反抗心こそが後の印象派的な和音につながっていきます。

 

 

18歳でチャイコフスキーのパトロン・フォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴し、この時期にチャイコフスキーをはじめロシア5人組の影響を大いに受けました。また夫人の貴族生活を垣間見る事で、貴族趣味を覚えてしまい、終生浪費を繰り返す事になりました。

お金がなくても贅沢品を諦められないタイプで、借金を抱えながらも高級食材のキャビアや高級な文房具、特注の洋服を買い漁っていました。友人の作曲家エリック・サティなどを自宅に招く際も、全財産をはたいてごちそうを用意してしまい、翌日からまた極貧生活に戻るというサイクルを繰り返していました。

 

 

1884年、22歳のドビュッシーはフランス音楽界最高峰の登竜門、ローマ賞(Prix de Rome)を受賞します。普通なら大喜びですが、彼は奨学金でローマのヴィラ・メディチに滞在して作曲する生活を嫌いました。

「こんな場所で作曲していられるか」という感じで、ローマの古典的な芸術環境にも馴染めず、留学をさっさと切り上げて、パリに帰国しました。彼が本当に刺激を受けたのは、むしろパリの街や、外国の音楽、絵画、詩でした。でも本当の理由は、当時恋焦がれていた14歳年上の人妻ヴァニエ夫人と離れたくなかったからとも言われています。

 

誰もが知っている「アラベスク・1番」

[https://www.youtube.com/watch?v=GStfo_f4L0g]

「亜麻色の髪の乙女」

[https://www.youtube.com/watch?v=aeGOadJy5MM]

 

上記のような繊細で美しいピアノ曲からは想像もつかないほど、女性関係はルーズでした。なんと2人の女性が自殺を試みています。

ヴァニエ夫人と別れた後、ギャビーという女性と同棲が始まります。この時期に作曲した「牧神の午後への前奏曲」がかれの出世作となります。しかし、ギャビーと同棲しているにもかかわらず、ソプラノ歌手のテレーズにも恋焦がれ、その同棲の事実を隠して、テレーズと婚約してしまいます。もちろん同棲の事実はすぐにテレーズに発覚し、婚約は破棄されました。そんな中でもギャビーは耐えて、ドビッシーに尽くしました。しかし、彼の浮気癖は止まりませんでした。ある日、浮気の証拠を見つけたギャビーは、未遂に終わりますがピストル自殺を試みてしまいます。結局、ギャビーとの関係は破綻します。その際、ドビッシーは自筆の「牧神の午後への前奏曲」をギャビーに献呈しました。

 

「牧神の午後へのプレリュード」

[https://www.youtube.com/watch?v=k5oaRGAu0VE]

 

 

その1年後、37歳の時にリリーという女性と結婚しました。精神的な安定を得て、作曲活動に集中し、オペラ「ペレアスとメリザンド」で、この作品は後に成功しますが、家計は彼の浪費癖の為に窮していました。リリーはもともと身体が弱く、家計が苦しい事も有り、身籠った子供を中絶してしまいます。そんなリリーの献身にもかからわず、ドビッシーは4年後にまた浮気を始めます。

 

1人以上、あごひげ、スーツの画像のようです

リリー・テクシエ(Lilly Texier) — ドビュッシーの最初の妻

 

オペラ「ペレアスとメリザンド」

[https://www.youtube.com/watch?v=hpl_kIpKLzU]

 

今度は裕福な銀行家夫人のエンマでした。彼は脆弱なリリーを実家に帰し、自分はエンマとジャージー島に旅行に出かけます。この旅行中に作曲したのが「喜びの島」でした。この件を知ったリリーは、ギャビーと同様、ピストル自殺を図ります。幸い一命は取り止めましたが、一大スキャンダルとなりました。さらにリリーとの離婚成立前に、エンマが彼の子を妊娠している事が判明、当然大バッシングを受けます。しかし、彼は生まれたシュシュを溺愛します。代表作の一つ「子供の領分」はシュシュに献呈されました。

 

テキストのイラストのようです

エンマ・バルダック(Emma Bardac)— ドビュッシーの愛人となり、後に2人目の妻

 

「喜びの島」

[https://www.youtube.com/watch?v=9xNfmsN_8hQ]

「子供の領分/ゴリウォーグのケークウォーク」

[https://www.youtube.com/watch?v=nU0BqTiXugs]

 

愛娘シュシュを溺愛し、精神的満足を得たドビッシーでしたが、家計は常に火の車でした。作曲だけでなく、指揮の仕事も始めましたが、娘も病気がち、また自分の大腸がん、更に離婚したリリーの慰謝料未払いなど重くのしかかりました。

 

1918年3月25日死去、享年55歳。

墓地は16区パッシー墓地。

 

記念碑の画像のようです

******************* 

1889年のパリ万博で、ドビュッシーはジャワ島のガムラン音楽を聴きました。

これが大きな衝撃になります。

西洋音楽では「ド・ミ・ソ」のように和音を組み立てまが、ガムランは全く違う音の世界。

ドビュッシーはそこから、

全音音階

5音音階

平行和音

音色そのものを重視する発想などのヒントを得ました。つまり、パリ万博で聴いたインドネシア音楽が、後のドビュッシーの音楽を変えた。

 

 

誰でも一度は聞いたことがある「月の光(Clair de lune)」。または「月光」

実はこの曲、最初から「月の光」というタイトルだったわけではありません。

1890年代に作曲されたピアノ曲で、後に『ベルガマスク組曲』の一部として整理されました。

タイトルの「月の光」は、フランスの詩人ポール・ヴェルレーヌの詩から来ています。しかもドビュッシーは、ヴェルレーヌの詩にかなり惹かれています。

詩の中に登場する「ベルガマスク(イタリア・ベルガモ地方の喜劇役者たちの舞踊)」という言葉が、曲集全体のタイトル(『ベルガマスク組曲』)の由来となりました。ドビュッシーはただ単に夜空に浮かぶ月を描写したのではなく、「華やかな仮面劇の裏に漂う哀愁や、静けさに包まれた幻想的な月の光」という詩のニュアンスを繊細に音へ昇華させたのです。1890年の着想当時は『感傷的な散歩道』というタイトルが付けられていましたが、1905年の出版時に改訂され、より詩の世界観を直接表す『月の光』へと変更されました。

 

「ベルガマスク組曲/月の光」

[https://www.youtube.com/watch?v=240mNwuyYHA]

 

 

代表作『海(La Mer)』。

これも面白いところで、ドビュッシーはこの作品を書いたとき、ずっと海辺にいたわけではありません。

むしろ海から離れた場所で、記憶や想像によって海を音楽にしたのです。

本人も「海が好きだった」というだけでなく、日本の浮世絵、特に葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』にも刺激を受けました。初版楽譜の表紙には、実際に北斎の「大波」が使われています。 

 

水、テキストの画像のようです

「交響詩/海」の初版本表紙

 

「交響詩/海」

[https://www.youtube.com/watch?v=fe1pB9KqHRg]

 

 

彼は、「ベートーヴェン → ワーグナー」というドイツ音楽中心の価値観から、フランス音楽を解放した人物ともいえます。その影響力は幅広く、クラシックはもちろん、Jazzやポップスにまで渡る。バルトーク、ストラヴィンスキー、ジョージ・ガーシュウィン、デューク・エリントン、武満徹、坂本龍一、電子音楽では冨田勲などがその影響を公言している。

 

 

フランスの旧20フラン紙幣にもなった。

背景は「交響詩/海」にちなんで。

 

お金、テキストの画像のようです

旧20フラン紙幣

 

 

 

******<私見>*****

稀代の浮気男、これほど女性にだらしない人物が、これほどまでに美しい旋律を完成させることが出来るとは、、、

幾多のスキャンダルの最中でこそその才能が発揮されている感さえある。天才というものはこのようなものなのだろうか?

また、これほどのスキャンダル人物を国家の顔である紙幣に登場させるフランスと言う国も懐が深いというのだろうか?

(日本で渋沢栄一にその様な事が少し騒がれたが、、)

政治家が不倫しても国策の実績、作曲家でも作品で評価するという事なのだろう。フランスはその点が凄い。

 

 

1911年8月21日、ルーブル美術館から「モナリザ(Joconde)」が盗まれました。

 

 

当時、《モナ・リザ》は現在の「Salle des États(国家の間)」ではなく、Salon Carréに展示されていました。

犯人はイタリア人のヴィンチェンツォ・ペルージ(Vincenzo Peruggia)。彼はルーヴルで働いたことのあるガラス職人で、絵画を保護するガラスケースの取り付け作業にも関わっていました。

 

テキストの画像のようです

ヴィンチェンツォ・ペルージャの警察写真。ガラス職人には見えない?

 

 

8月21日は月曜日で、当時のルーヴルは一般公開されない日。朝、ペルージャは作業員が着る白い作業着を身につけて館内に入りました。そしてSalon Carréに誰もいないタイミングを見計らって、

「モナ・リザ」を壁から外す

ガラスと額を取り外す

絵だけを作業着などで包む

そのままルーヴルの玄関から出る

という大胆な行動に出ました。

 

当時は美術品が写真撮影や修復のために一時的に取り外されることも珍しくありませんでした。そのため、「絵が壁からなくなっている=盗まれた」とは、すぐには誰も考えなかったのです。現在のように監視カメラは無く、「翌日」まで盗難に気づきませんでした。(監視カメラがあっても2025年10月、盗難がありましたけどね!)

 

白黒画像のようです

盗難後の壁、昔は他の作品と一緒に並べられていたことが分かる。

 

 

翌22日、画家のルイ・ベロー(Louis Béroud)がルーヴルに

「モナ・リザ」をスケッチするつもりでやって来ました。(ルーブルでは申請すれば、イーゼルや絵の具を持ち込み模写が許可される。)

ところが……

絵がない。壁には4本のフックだけ。最初は、「写真撮影のために外されたのだろう」と思われました。

ところが、問い合わせても誰も絵を移動したことを知らない。そこでようやく、「盗まれた!」となりました。

実際、盗難の発覚には24時間以上かかりました。

 

もちろんフランス中が大騒ぎになります。新聞は全て1面トップ記事です。

『Le Petit Parisien(ル・プティ・パリジャン)』1911年8月23日の一面見出しは« Le célèbre tableau de Léonard de Vinci : La “Joconde” a disparu du musée du Louvre »つまり、「レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵画《モナ・リザ》がルーヴル美術館から消えた」です。

また、« Il nous reste le cadre… »「私たちに残されたのは……額縁だけ」とも書かれています。

(もちろんフランス国立図書館(BFN)に行けばこの新聞の現本が読めます。)

 

、「IepursamaColeeka MA.....++! .6 231it:0011 911 护MmlB一12716 12.716 Le Petit Parisien BONNEMENTS Le plss fort tirage des wrnлwx du monde entler continus EDITION DE PARTS LES ME3OBATO 1104$ FRAMEO- Le célèbre tableau de Léonard de Vinci Le briseur de Conférences Paris La "Joconde" a disparu du musée du Louvre Comment? Depuis quand? On es sait pas. nous reste cadre... SALON দল JOCONDE」というテキストの画像のようです

 

当初、警察は犯人がまったく分かりませんでした。

そこで新聞は、

ルーヴル職員

作業員

写真家

美術商

外国人窃盗団

美術品収集家

芸術家

など、さまざまな可能性を報道しました。

なんとピカソと詩人ギヨーム・アポリネールまで疑われます。数年前からルーヴルの古代美術品を盗んでいたベルギー人のジェリー・ピエレ(Géry Pieret)とアポリネールが関係していたからです。ピカソもピエレから盗品の古代彫刻を盗品と知らず購入していました。そのため、

「ピカソとアポリネールが《モナ・リザ》盗難にも関係しているのでは?」と警察が疑ったのです。ピカソは取り調べを受け、アポリネールは実際に逮捕されました。

もちろん二人は《モナ・リザ》を盗んでいません。

 

しかし、犯人のペルージャはパリにそのまま住み続けました。しかも、盗んだ「モナ・リザ」を自分の部屋に隠していたのです。約2年3か月もの間です。

フランスの警察は必死になって探している。

 

ペルージャは盗難後、まずサン=ジェルマン=デ=プレの現在のHôtel Da Vinciがある建物に逃げ、6階の603号室で3日間隠れてたそうです。現在、Hotel Da Vinciはその歴史を売りにしており、「Adorateur(崇拝者)」という部屋がペルージャに関連する部屋として紹介されています。

 

ベッド、屋内、寝室の画像のようです

Hôtel Da Vinci(25 rue des Saints-Pères、パリ6区)
ホテルでは、この歴史を積極的に売りにしていて、「Adorateur(崇拝者)」という部屋がペルージャに関連する部屋として紹介されています。ホテルの公式サイトにも、1911年8月21日にペルージャが《モナ・リザ》を盗み、その後このホテルの部屋に身を隠した、と明記されています。

 

 

 

その後すぐに、彼の部屋に戻ります。5 rue de l’Hôpital-Saint-Louis(パリ10区)の労働者の集合住宅の小さな部屋でした。

驚くことに、盗難から10日ほど後、警察のブルネ警部(inspecteur Brunet)がペルージャの部屋を訪れて事情聴取しています。警部はその部屋で実際にテーブルに座って事情を聴いたのですが、そのテーブルの下にある《モナ・リザ》には気づきませんでした。(この件は後日Le Pariseinが報道しています。)

その後、湿気などから絵を守るため、ペルージャは二重底の木箱を作り、《モナ・リザ》をその中に入れて、衣類などの下に隠したとされています。

この部屋で「モナリザ」は2年数か月隠されていました。

 

テキストの画像のようです

モナリザを2年以上隠していた労働者集合住宅(当時)5 rue de l’Hôpital-Saint-Louisの入口は今も残っています。

 

 

ペルージャが本格的に動き出すのは1913年です。

彼は「モナ・リザ」をイタリアへ戻そうと考えます。

彼は「愛国心」から「《モナ・リザ》はフランスに奪われたイタリアの文化財だ」と考え、イタリアに戻そうと画策します。(ただし、これは歴史的見解では、レオナルド・ダ・ヴィンチは晩年をフランスで過ごし、「モナ・リザ」はフランス王フランソワ1世のコレクションに入ったものだからフランスの国有物と見做されています。)

 

1913年7月、ペルージャは一度ロンドンへ行っています。

イギリスなら中立的な立場から助言してくれるのではないか、と考えたようです。

そしてロンドンの有名な画商、デュヴィーン兄弟(Duveen Brothers)の店を訪れ、「モナ・リザ」のことを話しました。ところが画商からは、「正当な所有者であるルーヴルに返すべきだ」という趣旨の助言を受けました。

 

1913年11月、ペルージャはイタリアの新聞『Corriere della Sera』に掲載された画商の広告を見ます。

フィレンツェの画商、アルフレード・ジェリ(Alfredo Geri)です。ペルージャは自分を「Leonard V.(レオナルド5世)」

と名乗り、「レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を持っている」という手紙を送りました。「イタリアへ返すために持ってきた」という趣旨の話をしています。フィレンツェ国立公文書館には、この時のペルージャの手紙そのものが保存されています。

ジェリは「本物かどうか確認したい」と考えます。

ペルージャは《モナ・リザ》を持って、1913年12月10日、フィレンツェへ。宿泊したのは、Hotel Tripoli、現在のHotel La Giocondaです。(仏も伊のホテルも商魂たくましく便乗している所が面白い)

 

テキストの画像のようです

フィレンツェ国立公文書館に保存されているペルージャの手紙。イタリア語でなく、仏語で描かれている。下から1/3ほどの右に「Leonardo V」と見える。

 

 

そしてジェリはウフィツィ美術館の館長ジョヴァンニ・ポッジに相談。ポッジが絵を調べると……本物だった。そこで警察に連絡。そして12月12日、ペルージャ逮捕。

約2年4か月に及ぶ「モナ・リザ逃亡劇」が終わりました。

 

テキストの画像のようです

発見された二重の木箱とモナリザ

 

 

しかしペルージャはフランスでは、「世界的な美術品泥棒」

ですが、当時のイタリアでは、「イタリアの宝を取り戻した愛国者」として扱われました。裁判でも彼の「愛国心」が大きく取り上げられ、1914年6月4日に有罪判決。

最初は比較的重い刑でしたが、最終的には7か月8日程度まで減刑され、釈放されています。

 

白黒画像のようです

フィレンツェで発見されたモナリザを見る関係者

 

 

1913年12月にフィレンツェで発見された《モナ・リザ》は、

フィレンツェ → ローマ → フランスと移動します。

そして、1914年1月4日、ルーヴルへ帰還。

フランスでは大変な歓迎を受けました。

 

、「JADMINISTRATION」というテキストの画像のようです

1914年1月4日にルーヴル美術館に返還された『モナ・リザ』

 

テキストの画像のようです

モナリザ返還の記事

 

 

 

実は1911年の時点では、「モナ・リザ」はダ・ヴィンチが描いた絵としてそれなりに歴史的価値がありましたが、現在ほど「世界一有名な絵」ではありませんでした。

ところが、

盗まれる

新聞が連日報道

世界中の人が《モナ・リザ》を知る

写真・絵葉書・複製が大量に出回る

2年間「行方不明の美女」になる

1913年に劇的に発見

ルーヴルへ帰還

という物語によって、

「モナ・リザ」=「世界一の美女」になったのでした。

またルーブル美術館も世界一の名声を高めました。

 

この盗難は当初は、ピカソ、アポリネールなどの芸術家たち説、大きな窃盗集団説、国家的反逆集団説などが紙面を賑わせましたが、蓋を開けると「1作業員」の杜撰な犯行でした。しかも、もしペルージャが自分の部屋に掲げる目的だけなら、彼が死ぬまでは発見されなかった可能性さえあります。

8月20日、本日はご紹介する大物の人物が見当たらなく、思案しました。例えば、、

レイモン・ポアンカレ(第10代大統領)の誕生日。政治家の話は基本的に面白くない。

チャイコフスキーの「序曲・1812年」(ロシア遠征したナポレオン軍に勝利した曲)の初演日。

色々考えましたが、、、、

 

ちょっと聴きなれない人物、ジャン=ルー・クレティエン、この名前を聞いてすぐに分かった人は超フランスオタクでしょう。

フランス人初の宇宙飛行士です。

(Jean-Loup Jacques Marie Chrétien)空軍のパイロットであったが、後に宇宙飛行士候補に選ばれた。

1982年6月24日フランスとソ連の共同実験のためソユーズT-6号で宇宙へ旅立った。宇宙で7日間を過ごし、西欧発の宇宙飛行士となった。

 

、「FRANCE ANCE ines」というテキストの画像のようです

 

 

宇宙開発は冷戦時代から米ソの熾烈な競争であった。

その為、国別の宇宙飛行順は圧倒的に共産圏が上位を占めた。

1、1961年4月12日 ソ連(ガガーリン)*

2、1961年5月5日  米国(アラン・シャパード)

3、1978年3月2日  チェコスロバキア*  

4、1978年6月27日 ポーランド*

5、1978年8月26日 東ドイツ*

6、1979年4月10日 ブルガリア*

7、1980年5月26日 ハンガリー*

8、1980年7月23日 ベトナム*

9、1980年9月18日 キューバ*

10、1981年3月22日 モンゴル*

11、1981年5月14日 ルーマニア*

12、1982年6月24日 フランス*

13、1983年11月28日 西ドイツ

14、1984年4月3日  インド*

15、1984年10月5日 カナダ

16、1985年6月17日 サウジアラビア

17、1985年10月30日 オランダ

18、1985年11月26日 メキシコ

19、1987年7月22日 シリア*

20、1988年8月29日 アフガニスタン*

21、1990年12月2日 日本*

22、1991年5月18日 英国*

       (*印はソ連との共同実験)

 

写真の説明はありません。

ユーリー・ガガーリン

 

フランスは西欧では最初の宇宙飛行国。

フランスは、ベトナムやモンゴルよりも遅く、日本・英国は更にシリア、アフガニスタンよりも後であることはちょっとした驚きです。

日本人最初の宇宙飛行士は誰だか覚えていますか?

TBSの記者だった秋山豊寛が最初です。彼は他の商業的搭乗員(観光客)と一緒に搭乗した。

 

テキストの画像のようです

 

NASDA(宇宙機構)の最初の搭乗員は毛利衛であった。

 

‎、「‎NASDA MAI ل‎」というテキスト‎の画像のようです

 

日本人の宇宙飛行は現在まで15人に上る。(日系米国人は除く)

宇宙飛行士をアストロノート(英: astronaut)と呼ぶが厳密には、これは米国NASAで訓練を受け、米国機で飛行した者を指す。ソ連(ロシア)で訓練を受け・ソ連機に搭乗した者はコスモノート(露: космонавт )と呼ぶ。秋山は日本初のコスモノートで、毛利は日本初のアストロノームと言える。

 

 

女性の宇宙飛行士はソ連のワレンチナ・ヴラディミロヴナ・テレシコワで1963年6月16日にボストーク6号に搭乗、「私はカモメ」の言葉を残している。

 

写真の説明はありません。

 

日本人女性1号は外科医だった向井千秋。

 

テキストの画像のようです

 

 

既にフランスとは関係ない話題ばかりですが、、、

 

 

続けて宇宙飛行士のエピソードを、、、。

 

 

1)アポロは何回月面着陸したでしょう。

ルイ・アームストロング船長の「この一歩は小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩である」と名言を残したが、その後、5回、計6回アポロは月面着陸に成功した。

 

 

2)大阪万博1970年でアポロ11号が持ち帰った「月の石」が展示され話題になった。アポロ11号は22㎏の石などを採取したが、アポロ15号では77㎏、16号では95㎏、17号では111㎏の石や砂を持ち帰っている。

 

 

3)ロケット発射場の条件は何?

赤道に近い方が有利。赤道付近のほうが地球の自転で、発射したロケットの推進力が付きやすい。赤道付近の地表は約1,670 km/h(約465 m/s)の速度で動いている。ロケットを地球の自転方向(東向き)に打ち上げると、発射した瞬間からこの速度を「無料で」もらえることになる。

人工衛星を地球周回軌道に乗せるには、おおよそ秒速7.8 kmの速度が必要なので、秒速0.465 kmのアシストはかなり大きいのです。

代表的なのが、南米フランス領ギアナにあるギアナ宇宙センターで北緯5度で赤道に近い。

また東側が大きな海に面している事も条件となります。

 

石油精製所の画像のようです

 

4)無重力の宇宙では地上とは違う事が沢山あります。

普通のボールペンが使えない。涙は頬を伝わらない。シャワーを浴びれない、など、、、。小学生の疑問から、「蜘蛛はどのような巣を張るのか」「シャボン玉は出来るのか」などの実験もされました。

 

 

5)アラン・シャパードは月面でゴルフをしました。ドライバーを取り出し、2球打ったそうです。重力が1/6の月では思ったより飛んだそうです。