9月8日 ジャンヌ・ダルク、パリ奪還に失敗する
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百年戦争(1339~1453年までのイギリス王とフランス王の戦争)の最中、ジャンヌ・ダルクはシャルル7世をランスで戴冠(1429年)させた後、さらにイングランド・ブルゴーニュ派の支配下にあったパリ奪還を目指しました。
シャルル7世の戴冠式におけるジャンヌ(アングル画)
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フランスやパリが好きでも、世界史はあまり興味がない方(私も今日まで知りませんでした)は、ジャンヌ・ダルクがパリを攻撃?と思うでしょう。
当時のパリはイングランドと組んだブルゴーニュ派(及び彼らを支持するパリ市民)の支配下にありました。
ちょっと乱暴な言い方をすると、「パリは英国だった!」とは言い過ぎですが、フランス軍から見るとパリが敵地だったことは確かです。
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百年戦争において、フランス国内はフランス国王(シャルル7世)を支持する「アルマニャック派」と、イングランド側と同盟を結んでいた「ブルゴーニュ派」に分裂して、内戦状態にあり、このパリ攻撃はフランス勢がイングランド・ブルゴーニュ連合から首都パリを奪還するために仕掛けた戦闘でした。
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1429年9月8日、ジャンヌはサン・ドニ方面からパリへ進撃し、現在のルーブル/オペラ座付近にあったサン・トノレ門を攻撃。
しかし、パリ側の防御は非常に強固でした。
ジャンヌは堀を渡ろうとしたところ、太腿に石弓(arbalète)の矢を受けて負傷します。
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1429年9月8日のジャンヌ・ダルクの行軍ルートを「現在の道路」に完全に一致させることは出来ません。当時は現在のパリとは全く違う地形・道路網だったからです。しかし、それを研究した人がいました。1916年のジャーナリストのエミール・ユードという人です。
彼の研究は、現在の道路と対応させて、具体的に示しています。
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具体的にジャンヌの行軍を追います。
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1429年9月8日早朝―ラ・シャペルを出発
出発地点は、現在のパリ18区にあるEglise Saint-Denis de la Chapelleサン=ドニ・ド・ラ・シャペル教会周辺です。
1429年当時、この場所はまだパリ市内ではなく「La Chapelle」という村でした。
ジャンヌはここを拠点として数日間、パリ北部の城壁を偵察していました。9月8日の朝、彼女はここからパリへ向かいます。パリ教区の説明でも、ジャンヌがこの教会で祈り、聖体を拝領をしてから攻撃に向かったとされています。
出撃前に祈りを捧げた
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歴史研究では、ジャンヌが午前8時頃La Chapelleを出発したとされています。
現在のRue de la Chapelleを南に進むイメージです。
当時のLa Chapelleは、現在のパリ18区にあった小さな村。
現在のパリから見ると、「パリ北部から市内中心へ向かう」という感覚ですが、1429年には、「田園地帯の村から、巨大な城壁都市へ向かう」という状況でした。
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Faubourg Saint-Denis方面へジャンヌの一行は軟化し、現在のRue du Faubourg St-Denisに繋がる方向に進みます。
当時のこの地域には、現在のような連続した都市街路はありません。
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一行は当時存在したSaint-Lazareの救療施設(maladrerie)付近を通ります。
現在のHopital Saint-Lazareはその跡地に出来た病院と考えられます。
(でもここはまだ、現在のサンラザール駅周辺ではなく、北駅に近い場所だという注意が必要です。)
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ここからジャンヌは西南方向へ進みます。
当時の道には、Chemin de Paradisと呼ばれた道がありました。研究によれば、現在のRue de Paradisがその名残と考えられています。
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1916年の研究では、ジャンヌのルートを
Rue de Paradis → Rue Bleue → Rue Saint-Lazareと復元しています。
ここまで来ると、現在のパリ中心がかなり近づいてきます。
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午前当時―――当時存在した ruisseeau de Menilmontant という小川を越えます。
現在では完全に暗渠化・消滅しています。
ジャンヌが渡ったと考えられている地点は、
現在なら、Boulevard Haussmann ―― Rue de l’Arcadeあたりです。
当時、この地域はまだ現在のような建物で埋め尽くされていません。
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更にジャンヌは「野原」を斜めに横切るような形で進み、最終的に
Rue d’Argenteuilに繋がる道に入ったとされています。
現在も残る「Rue d’Argenteuil」
現在のRue d’Argenteuilは、昔の道の形を比較的よく残しているとされます。
パリ市内の碁盤目状の道路と違って、妙に曲がっています。
Paris Museesにも、Rue d’Argenteuilについて、
「古いPorte Saint-Honoreから出てArgenteuilへ向かう古道」という説明が残っているそうです。
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そしてついに、ジャンヌたちはパリ(ここで言うパリは、シテ島やルーブル美術館付近)西側の防御網に到達します。
ここが1429年9月8日の最大の舞台。Porte Saint-Honoreです。
Porte Saint-Honoreは現在存在しません。
資料によれば、パリには歴史上複数の「Porte Saint-Honore」が存在し、城壁が拡張されるたびに位置が変わったそうです。
パリの住所には「城壁の外」と言う意味の「Faubourg/フォーブル」が付く住所が幾つかります。
有名なところは「Rue du Faubourg St-Honore」でしょう。そこは城壁の外であった名残です。
厳重な二重の堀と防壁で固められていた旧サン=トノレ門. 出典: Sepia Times / Sepia Times/Universal Images Group via Getty Images
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ジャンヌが攻撃した1429年のPorte Saint-Honoreは、
現在のPlace Andre Malraux周辺、
より具体的にはRue Saint-Honore x Avenue de l’Opera 付近です。
現在は完全に都市化されていますが、600年前にはここに城壁・門・二重の堀が存在していました。
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ジャンヌは大砲を配置します。
場所は、Butte Saint-Roch、現在のEglise Saint-Rochサンロック教会周辺です。
ここには当時、現在とは全く違う地形がありました。「Butte」=丘です。
19世紀のパリ都市開発(特にオスマン男爵の改造計画など)によって削られ、現在は平坦になっています。
ジャンヌはこの高台にcouleuvrine(クルヴィリーヌ)などの砲を配置して、Porte Saint-Honore方面を砲撃させます。
砲撃の陣を張ったサン=ロックの丘跡(現サン=ロック教会)
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午後―――攻撃開始
ここから戦闘になります。
フランス軍はPorte Saint-Honore周辺への攻撃を開始。城壁の外には、二重の堀がありました。
そして最大の問題が、「内側の堀には水が入っていた」こと。
ジャンヌたちは城壁に近づき、堀を埋めようとします。
当時の記録には、木材などを使って堀を埋めようとしたことが記されています。
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ジャンヌは旗を持って前線に出ます。
そして城壁内のパリ市民・守備兵に向かって「降伏せよ」と呼びかけます。
しかし、イングランド・パリ側は降伏しません。むしろ激しい抵抗。
矢、医師、火器などがフランス軍を襲います。
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そしてこの日の決定的瞬間。
ジャンヌが堀を越えようとしたとき、石弓(arbalète)の矢が彼女の太腿に命中します。
パリ教区の資料も、Porte Saint-Honore前の堀を越えようとした際に太腿を石弓で撃たれたとしています。
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彼女は倒れます。
しかし―「撤退しない!」
ジャンヌは負傷しても、「ここを取れる」と考えていました。
後の記録では、彼女はなお攻撃を続ける意思を示しています。
サン=トノレ門前の堀で太腿に矢を受け激闘するジャンヌ.
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ところが夕方、状況が変わる。
戦闘は長時間続きました。
ジャンヌ側は城壁を突破できません。
問題はシャルル7世自身がパリ攻略を継続する事に消極的だったことです。
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ジャンヌは攻撃続行を主張しましたが、最終的に撤退命令が出ます。
ある資料では、攻撃は約4時間続き、午後4時頃撤退となったとされています。ただし、当時の記録には時刻に幅がある為、「午後4時頃」と言う程度に考えるのが良いそうです。
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ジャンヌは負傷した状態で戦場に残ります。
彼女は、「まだ攻撃できる」と考えていました。
しかし味方は撤退。
最終的には彼女を救出するために戻り、馬に乗せて後退させます。資料によって細部に違いがありますが、彼女自身は攻撃を続ける事を望んでいました。
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夜―La Chapelleに戻る。
最終的にジャンヌは、La Chapelleへ戻されます。
つまり朝に出発した場所へ戻ったわけです。
翌9月9日にはSaint-Denisへ戻り、9月10日にはパリ攻略を断念する命令が出されます。
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防衛側であるイングランド王国・ブルゴーニュ派の勝利(フランス王国の敗北)です。
ジャンヌ・ダルクにとって、これが事実上初めての明確な敗北となりました。
サン=トノレ門跡近く(ピラミッド広場)に立つ黄金像.
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ピラミッド広場にジャンヌの像がある理由が分かりましたね。


















