mkparisのフランス歳時記、日々のフランス、フランス人、時々日本人

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フランス・パリからフランスやパリに関するトピックをお届けします。
日記形式で、可能な限り日々綴っていきたいと思います。お休みしたらごめんなさい。

11月4日 ガブリエル・フォーレの命日

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ガブリエル・ユルバン・フォーレ(Gabriel Urbain Fauré)1845年5月12日生まれ- 1924年11月4日没、享年79歳、フランスの作曲家、オルガニスト、ピアニスト、教育者。

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フランスを代表する作曲家。代表作は『レクイエム』『シシリエンヌ』『夢のあとに』など。

パリ音楽院の院長も務め、ラヴェルら後世の音楽家にも影響を与えました。

 

ガブリエル・フォーレ

 

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フォーレの代表曲『レクイエム』は、一般的なレクイエムが死や審判の恐ろしさを強調するのに対し、フォーレの作品は穏やかで、慰めと安らぎに満ちています。

彼自身もこの作品について、死を苦しみではなく、幸福な解放として捉えた趣旨を語っています。

彼のエピソードを幾つか紹介しましょう。

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フォーレとサン=サーンスの出会いは、フォーレが10代の時、パリのニーデルメイエール学校でした。9歳年上のサン=サーンスは若き天才教授として着任し、二人は生涯にわたる深い友情を結びました。

若い頃のフォーレが自分で作曲した曲をピアノでサン=サーンスに弾いて見せたときのこと。途中で気に入らない和音や展開があると、サン=サーンスは無言で鍵盤の蓋をバタン!と叩きつけて閉め、「最初からやり直し!」と厳しく指導したそうです。

しかし、レッスンの後にはフォーレを自宅に呼び、当時は先進的すぎるとされていたシューマンやリスナー、ワーグナーの最新スコアを連弾しながら夜遅くまで一緒に楽しむという、最高の兄貴分であり師匠でした。

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フォーレがなかなか音楽界で定職に就けず苦労していた時期、サン=サーンスは自分の脈のありそうなコネをフル活用し、あちこちの教会や音楽学校へ「うちのガブリエルをよろしく」と熱心に売り込み(就活支援)をしていました。サン=サーンスはフォーレの才能をだれよりも信じていたのです。

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1897年、パリ音楽院の作曲科教授となったフォーレのもとに、20代前半のモーリス・ラヴェルが入門してきました。フォーレは弟子の個性を決して潰さず、自由に才能を伸ばす寛容な指導を行いました。ラヴェルが若き日の傑作『弦楽四重奏曲』を書き上げ、師であるフォーレに見せたときのことです。

フォーレはその斬新すぎる展開と最終楽章の構造に難色を示し、「これはダメだ。最後の楽章は完全に失敗作だから一から書き直しなさい」とバッサリ切り捨てました。

落ち込んだラヴェルが、今度はサン=サーンス(フォーレの師)にも聴かせたところ、サン=サーンスからも「ひどい駄作だ」と酷評されてしまいます。

ところが、これを聞いた当代最高の作曲家ドビュッシーだけは違いました。ラヴェルに「神に誓ってお願いする、1音たりとも変えてはならない!」と熱弁。ラヴェルはドビュッシーの助言に従って一切修正せずに発表し、結果として歴史に残る大傑作となりました。のちにフォーレも自分の間違いを認め、ラヴェルの才能を改めて称賛しました。

 

モーリス・ラヴェル

 

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当時、若手作曲家の登竜門だった「ローマ賞」で、すでに気鋭の作曲家として有名だったラヴェルが予備選で不当に落選させられる事件(1905年)が起きました。保守的な審査員たちがラヴェルを排除したのです。(ラヴェルは6回も落選したとか!)

これに激怒したのが、ほかでもない師のフォーレでした。当時は、音楽教師は、自分の教え子を贔屓にするのが普通でした。その弟子や両親からの授業料などが大きな収入だったからです。フォーレは音楽院の不正と保守性を強く批判し、世論を巻き込んだ大騒動(ローマ賞事件)に発展。これがきっかけで旧院長が辞任に追い込まれ、フォーレが新院長に就任することになりました。フォーレは就任後直ちに改革を行い、ラヴェルの無念を晴らしたのです。

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1905年、60歳でパリ音楽院(コンセルヴァトワール)の院長に就任すると、審査制度や教育内容を改革しました。

例えば、

- ドビュッシーなど外部の音楽家を審査に参加させる。

- 音楽史の授業を必修化する。

- ワーグナーなどのロマン派など、それまで敬遠されていた作品も教育に取り入れる。

当時の音楽院は保守的で古い慣習に縛られていましたが、フォーレは旧態依然とした教授陣を刷新し、カリキュラムを改革していきました。そのあまりに凄まじく容赦のない改革ぶりから、かつてのフランス革命の独裁者にちなんで「ロベスピエール」と恐れられたと言われています。普段の穏やかな見た目とのギャップが際立つエピソードです。

 

当時の音楽院 パリ9区

 

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サン=サーンスからフォーレへ、そしてフォーレからラヴェルへ。厳しさと自由、そして深い愛で結ばれた師弟関係があったからこそ、近代フランス音楽の黄金期が築かれました。

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フォーレのピアノ曲は繊細で過度な技巧に頼らない美しい響きが特徴ですが、派手な超絶技巧ばかりをひけらかすピアニストたちの演奏はあまり好みではありませんでした。

あるとき、派手に自分の曲を弾き散らかす有名ピアニストの演奏を聞いたフォーレは、呆れ顔でこう呟いたと言われています。

「名声のあるピアニストであればあるほど、私の曲を上手に弾いてくれないんだよね」

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通常、レクイエムは死者のためのミサ曲で、最後の審判や地獄の恐怖を表現する壮大で劇的な作品が多くあります。

しかしフォーレは違いました。

彼のレクイエムには、恐怖よりも安らぎ、悲しみよりも慰めがあります。

彼は自分のレクイエムについて、次のような趣旨の言葉を残しています。

「私自身のように穏やかなものにしたかった」

フランスの資料では、初期の作品を「doux comme moi-même(私自身のように優しく)」と表現したことが紹介されています。

1888年にパリのマドレーヌ寺院で初演されました。

 

レクイエムの手書き原稿

 

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1903年頃から、彼は聴覚障害に悩まされるようになります。

しかも、単に音が小さく聴こえるという難聴ではありませんでした。

- 高音と低音の聞こえ方が変わる。

- 実際の音程とは違う音程に聴こえる。

- 音楽を正確に判断することが難しくなる。

やがて聴力はほとんど失われてしまいます。

ところが驚くことに、フォーレはその状態でも作曲を続けました。

晩年の作品には、むしろ若い頃よりも深く、独特の和声と静けさが感じられます。

1924年に亡くなる年まで作曲を続け、最後の大作の一つである弦楽四重奏曲も完成させています。

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1924年11月4日、パリ16区のアパートで死去。マドレーヌ寺院で国葬が営まれた。

 

フォーレが住んでいたアパート、死去した場所として銘鈑が出てます。
パリ16区

 

フォーレの墓、16区パッシー墓地

 

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「レクイエム」は40分ほどの曲なので、より短い、馴染みの曲「シシリエンヌ」のリンクを貼っておきます。フルートとハープの甘く切ない美しいメロディーをどうぞ。

 

 

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<追記>

1970年11月4日 超音速旅客機コンコルド(試作1号機「001」)が初めてマッハ2を記録。

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1946年11月4日 ミシェル・ブラスの誕生日、3つ星レストランシェフ、

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1982年11月4日 ジャック・タチの命日、映画監督

 

11月3日 女性平等を訴えてギロチン、オランプ・ド・グージュの処刑日

 

オランプ・ド・グージュは、フランス革命期に活躍した女性作家・劇作家・政治活動家です。

本名はマリー・グーズ(仏 : Marie Gouze)で、オランプ・ド・グージュ(Olympe de Gouges)はペンネーム。1748年5月7日生まれ - 1793年11月3日コンコルド広場でギロチン刑、享年45歳。

 

フランス革命で「自由、平等、博愛」という国是が定まりました。でも本当に人々は「平等」だったのでしょうか?その疑問を革命期に持った女性がオランプ・ド・グージュでした。

 

 

 

 

フランス革命期に女性の権利を訴え、「女性および女市民の権利宣言」を発表したことで知られるオランプ・ド・グージュ(Olympe de Gouges)には、その情熱的で型破りな生きざまを物語る、エピソードがいくつかあります。

 

16歳の時に望まない結婚をさせられ、数年後に夫が洪水で亡くなった後、彼女は二度と結婚しませんでした。結婚制度を激しく嫌い、「結婚とは、信頼と愛の墓場である」という名言(?)を残しています。その後、貴族風の優雅なペンネーム(オランプ・ド・グージュ)を自ら名乗り、パリのサロン文化の中心で自立した自由な生き方を貫きました。

ドラマや映画でよく聞く「結婚は人生の墓場」はここから来たのかもしれません。

 

劇作家としても活動していた彼女ですが、当時は女性が演劇界で活躍することに対する風当たりが非常に強く、男性の批評家から「まともな劇を書くにはヒゲ(=男)が必要だ」と冷笑されたことがあります。これに対し、彼女は一切ひるむことなく、「私の才能に嫉妬しているだけよ」と言わばかりに、数々の劇や政治論考を世に送り出し続けました。

 

彼女が1791年に発表した歴史的な『女性および女市民の権利宣言』の最後には、なぜか「街で乗った馬車の御者(運転手)に法外な料金をふっかけられて大喧嘩した」という個人的なエピソードと愚痴が長々と書き綴られています。社会の不平等や女性の権利を真面目に訴えていたはずが、あまりの日常の理不尽さに我慢できず、公文書のなかにちゃっかり私的なクレームを混ぜ込んでしまうという、人間味あふれるユーモア(?)を発揮しています。
タクシーのぼったくりはこの頃既にあったのですね、ははは。

 

彼女の有名な言葉として紹介されるのが、次の趣旨の発言です。

「女性が処刑台に上る権利を持つのなら、演壇に上る権利も持つべきだ」

フランス語では、

« La femme a le droit de monter sur l'échafaud ; elle doit avoir également celui de monter à la Tribune. »という一節です。

これは彼女の女性解放思想を象徴する言葉です。

当時、女性は政治参加をほとんど認められず、革命政府は、女性であっても反革命と判断すれば処刑しました。彼女はこの矛盾を鋭く突いたのです。

 

1784年、彼女は『ザモールとミルザ、あるいは幸福な難破』(Zamore et Mirza ou l'Heureux Naufrage)という戯曲を書きました。

 

テーマは、フランス植民地における黒人奴隷制度への批判です。

当時、フランスの植民地では奴隷貿易やプランテーション経済が大きな利益を生んでいました。

彼女はその不正義を舞台で告発しようとしたのです。

ところが、上演までに約5年もかかりました。

1789年12月28日、ようやくコメディ・フランセーズで上演されます。しかし、政治的な圧力によって、わずか5日後に上演が取りやめられました。

つまり、彼女は女性の権利だけでなく、黒人奴隷の解放も訴えていたのです。

 

『ザモールとミルザ、あるいは幸福な難破』

 

オランプは1791年に発表した『女性および女性市民の権利宣言』をマリーアントワネット王妃に捧げました。

彼女は王妃に対して、女性の権利を守るために立ち上がるよう呼びかけました。

つまり、王政を支持するだけでも、革命を支持するだけでもなく、王妃にも政治的責任を求めたのです。

この宣言は、1789年の『人間と市民の権利宣言』を女性にも適用するよう書き換えたものでした。

例えば第1条には、

「女性は自由なものとして生まれ、男性と同じ権利を持ち続ける」

と記されています。

 

彼女の考えは、政治だけにとどまりませんでした。

当時の結婚制度では、女性は経済的にも社会的にも夫に従属する立場に置かれていました。

そこで彼女は、男女が対等な立場で財産を共有するための「男女間の社会契約」(Forme du contrat social de l'homme et de la femme)を提案しました。

さらに、

- 結婚だけでなく自由な男女関係も認めること

- 婚外子にも平等な権利を与えること

- 離婚を認めること

- 女性が家庭内暴力から逃れられるようにすること

などを主張しました。

18世紀にこうした提案をしていたのですから、相当に先進的な考え方でした。

 

1793年、フランス革命は恐怖政治(La Terreur)の時代に入ります。

彼女はロベスピエールら急進派の政治と暴力的な革命を批判していました。

そして同年7月、政治体制について国民に選択させる「三つの壺」(Les Trois Urnes)という提案を発表します。

その内容は、国民に次の3つから選ばせるというものでした。

1. 共和制(République)

2. 連邦制(Fédéralisme)

3. 君主制(Monarchie)

革命政府が共和制以外の選択肢を認めない時代に、国民に選択させようとしたのです。

 

 

ではなぜ「女性の権利、女性平等」を訴えていた彼女が危険視され、ギロチンで処刑されたのでしょうか?

オランプ・ド・グージュは、革命の理念である「自由・平等」を女性にも適用するよう求めました。

ところが、革命が掲げた平等は、当初、女性には十分に及びませんでした。

フランス女性が国政選挙で投票する権利を得たのは1944年、国会に女性議員が登場するのは1945年です。革命や彼女の処刑から150年以上経っていました。

 

1791年、オランプ・ド・グージュが女性の権利宣言を発表します。
しかし、時が100年以上流れて1900年代に入っても「女性参政権」はなかなか進みません。

1936年、女性参政権を下院が495対0で可決。しかし成立しませんでした。

当時のフランスは第三共和政(1870~1940年)でした。

国会は二つの議院で構成されていました。

- 下院(Chambre des députés):国民の選挙で選ばれた議員で構成。

- 上院(Sénat):地方自治体などを基盤とする選挙人によって選ばれ、比較的保守的な議員が多かった。

下院が法案を可決しても、上院の審議・同意が必要でした。

ところが上院は、女性参政権法案を議題に載せようとしませんでした。

実は1936年が初めてではありません。下院は1919年から1936年まで、何度も女性参政権を支持していましたが、上院が阻止し続けていたのです。

 

革命から長い間、反教権主義(Anticléricalisme)の伝統を持つ共和派が大きな影響力を持っていました。

彼らは、女性はカトリック教会や聖職者の影響を受けやすく、選挙で保守的・カトリック寄りの候補者に投票するのではないかと警戒していました。

つまり、女性参政権を認めると、保守派が強くなり、リベラル思想の共和派の政治的基盤が弱くなると考えたのです。女性の権利を認めない理由の一つが、宗教的保守主義を警戒する共和主義者側にあったのです。

 

当時、最も進んだ思想を持つオランプ・ド・グージュの「女性および女市民の権利宣言」が、先進思想(?)の共和派を弱体化する、と言う矛盾した理由で「反社会的」のレッテルを貼られてしまったのです。

 

1793年7月20日、革命体制から危険視されて逮捕される。

11月3日、裁判にかけられた際、なんと裁判官から「自分で弁護できるだろ」と弁護士をつけることを拒否されてしまいました。完全な見世物・言いがかりの裁判でしたが、彼女はそれに屈せず、法廷で起訴状が読み上げられる最中に大きなため息をついたり、白目をむいたり、あきれたような表情を浮かべたりして、最後まで裁判の不条理さに態度で抵抗し続けたと言われています。裁判ではその反抗的態度が災いし、有罪判決、その日のうちにコンコルド広場(当時の革命広場)でギロチンにかけられ、45歳で亡くなりました。

 

ギロチン台に向かうオランプ・ド・グージュ

 

 

パリ3区、リュパブリック広場の近くに彼女の名を冠した広場があります。

Place Olympe-de-Gougesです。(広場と言うより、交差点ですが)

 

 

 

なお、命日について補足すると、パリ市の公式資料は1793年11月3日としています。フランス国民議会の資料には11月6日とする記載もありますが、ここではパリ市の記録に従っています。

 

 

 

<追記>

1958年11月3日  パリのユネスコ本部が開館

 

1901年11月3日  アンドレ・マルローの誕生日、作家、ド・ゴール政権で初代文化大臣

 

1855年11月3日     フランソワ・リュードの命日、彫刻家

1954年11月3日  アンリ・マティスの命日、フォーヴィスム(野獣派)を代表する画家

 

 

 

11月2日はフランスの「死者の日(Jour des morts)」です。

 

フランスでは11月1日の Toussaint(諸聖人の日)と11月2日の Jour des morts(死者の日)が続きます。

11月2日は正式に Commémoration des fidèles défunts(信仰深き死者の記念日)と呼ばれます。

この時期、フランス人は墓地を訪れ、家族や友人の墓に菊(Chrysanthèmes)を供えます

菊はフランスでは特に墓参りの花として定着しています。日本では菊はお祝いにも使われますが、フランスでは菊を贈ると葬儀や墓参りを連想させることが多いので注意が必要です。





11月1日と11月2日は何が違うのでしょうか?

この2日間は、よく混同されますが、意味が異なります。

11月1日:Toussaint(諸聖人の日)

  キリスト教のすべての聖人を祝う日です。聖人として認定された人だけでなく、

  名前の知られていない聖人たちも含めて祝います。

  フランスでは祝日(Jour férié)です。

 

11月2日:Jour des morts(死者の日)

  亡くなったすべての人々を追悼する日です。特に、天国に入るための浄化の過程にある

  死者のために祈るという、カトリックの伝統があります。

  こちらはフランスの祝日ではありません。

 

この習慣を広めたのは、クリュニー修道院の第5代院長、聖オディロン(Saint Odilon de Cluny)です。

当時、クリュニー修道院はヨーロッパでも非常に大きな影響力を持つ修道院でした。

998年、オディロンは自分の管轄下にある修道院に対し、11月2日を亡くなった修道士や信徒のために祈る日と定めました。

その後、この習慣はベネディクト会の修道院などに広まり、やがてカトリック教会全体の典礼に取り入れられていきました。

1998年には、この伝統の1000周年がクリュニーで記念され、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世もメッセージを寄せています。

 

聖オディロン(Saint Odilon de Cluny)

 

フランスでは菊(Chrysanthème)は「死者の花」として知られています。

実は、この習慣はそれほど古いものではありません。

- 19世紀半ば:11月初めにも花を咲かせる菊が、墓地で使われるようになります。それ以前は墓にロウソクを置く習慣が主流でした。

- 1918年以降:第一次世界大戦で亡くなった兵士たちの墓に菊を供える習慣が広まりました。

- 現在:毎年11月1日の Toussaint に合わせて、多くのフランス人が墓地を訪れ、菊を供えます。菊が選ばれた理由の一つは、冬を目の前にした、秋の終わりでも美しく咲いている花だからです。本来は2日にお参りするのですが、1日が祝日のため、家族一同でお参りできるのが1日であることから、2日ではなく1日にお参りする人が多いのが実情です。

 

お墓参りの方法は日本とフランスでそれほど大きな違いはありません。

墓地を訪れ、墓石をきれいに掃除し、雑草などを取り除き、花を飾り、家族で静かに祈りを捧げます。
違いはお線香の代わりに、キャンドルを灯す事でしょう。食べ物や飲み物を供える習慣は無いようですが、一部の家庭では供える方のいるようです。死んだ祖先や近親者に静かに寄り添い、祈るのは日仏に違いないようです。






メキシコの「死者の日」とは違う?
よく混同されますが、フランスとメキシコでは文化が異なります。
メキシコの「死者の日」はカトリックと先住民文化が融合した行事となっているようです。

 

フランス                            メキシコ

Jour des morts                    Día de los Muertos

11月2日                           11月1日・2日を中心とする

菊を供える                         マリーゴールドを飾る

墓参り、祈り、追悼                  祭壇、食べ物、音楽、家族の集い

カトリックの伝統                  カトリックと先住民文化の融合

 

メキシコでは、亡くなった家族の魂が戻ってくると考え、故人の好きだった食べ物や飲み物を祭壇に飾ります。骸骨の飾りも有名ですね。


メキシコの死者の日の飾り


パリにはいくつかの大きな墓地があります。
ペール・ラシェーズ墓地

パリ最大級の墓地。ショパン、オスカー・ワイルド、エディット・ピアフ、イヴ・モンタンなど、多くの著名人が眠っています。

 

モンパルナス墓地

サルトル、ボーヴォワール、ボードレール、ジャック・シラク、ゲンズブール、ジェーン・バーキン、ソニア・リキエル、サン・サーンスなど、文学・芸術に関係する人物の墓があります。
 

モンマルトル墓地

ドガ、スタンダール、デュマ・フィス、ダリダ、フランス・ギャルなどが眠る墓地です。

 

パッシー墓地

マネ、ベルト・モリゾー、ドビッシー、ジバンシーなどが眠る。

ちなみにこの4か所の墓地を円で結ぶと、昔のパリの大きさが分かります。これらの墓地は、昔はパリの外だったのです。日本の田舎で、お墓は村の中心に無く、村はずれにあるのと同じです。

 

 

 

<追記>

1699年11月2日 ジャン=シメオン・シャルダンの誕生日、ロココ調画家

1755年11月2日 マリーアントワネットの誕生日、ウィーンで生まれる