mkparisのフランス歳時記、日々のフランス、フランス人

mkparisのフランス歳時記、日々のフランス、フランス人

フランス・パリからフランスやパリに関するトピックをお届けします。
日記形式で、可能な限り日々綴っていきたいと思います。お休みしたらごめんなさい。

9月8日 ジャンヌ・ダルク、パリ奪還に失敗する

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百年戦争(1339~1453年までのイギリス王とフランス王の戦争)の最中、ジャンヌ・ダルクはシャルル7世をランスで戴冠(1429年)させた後、さらにイングランド・ブルゴーニュ派の支配下にあったパリ奪還を目指しました。

 

シャルル7世の戴冠式におけるジャンヌ(アングル画)

 

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フランスやパリが好きでも、世界史はあまり興味がない方(私も今日まで知りませんでした)は、ジャンヌ・ダルクがパリを攻撃?と思うでしょう。

当時のパリはイングランドと組んだブルゴーニュ派(及び彼らを支持するパリ市民)の支配下にありました。

ちょっと乱暴な言い方をすると、「パリは英国だった!」とは言い過ぎですが、フランス軍から見るとパリが敵地だったことは確かです。

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百年戦争において、フランス国内はフランス国王(シャルル7世)を支持する「アルマニャック派」と、イングランド側と同盟を結んでいた「ブルゴーニュ派」に分裂して、内戦状態にあり、このパリ攻撃はフランス勢がイングランド・ブルゴーニュ連合から首都パリを奪還するために仕掛けた戦闘でした。

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1429年9月8日、ジャンヌはサン・ドニ方面からパリへ進撃し、現在のルーブル/オペラ座付近にあったサン・トノレ門を攻撃。

しかし、パリ側の防御は非常に強固でした。

ジャンヌは堀を渡ろうとしたところ、太腿に石弓(arbalète)の矢を受けて負傷します。

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1429年9月8日のジャンヌ・ダルクの行軍ルートを「現在の道路」に完全に一致させることは出来ません。当時は現在のパリとは全く違う地形・道路網だったからです。しかし、それを研究した人がいました。1916年のジャーナリストのエミール・ユードという人です。

彼の研究は、現在の道路と対応させて、具体的に示しています。

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具体的にジャンヌの行軍を追います。

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1429年9月8日早朝―ラ・シャペルを出発

出発地点は、現在のパリ18区にあるEglise Saint-Denis de la Chapelleサン=ドニ・ド・ラ・シャペル教会周辺です。

1429年当時、この場所はまだパリ市内ではなく「La Chapelle」という村でした。

ジャンヌはここを拠点として数日間、パリ北部の城壁を偵察していました。9月8日の朝、彼女はここからパリへ向かいます。パリ教区の説明でも、ジャンヌがこの教会で祈り、聖体を拝領をしてから攻撃に向かったとされています。

 

出撃前に祈りを捧げた

 

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歴史研究では、ジャンヌが午前8時頃La Chapelleを出発したとされています。

現在のRue de la Chapelleを南に進むイメージです。

当時のLa Chapelleは、現在のパリ18区にあった小さな村。

現在のパリから見ると、「パリ北部から市内中心へ向かう」という感覚ですが、1429年には、「田園地帯の村から、巨大な城壁都市へ向かう」という状況でした。

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Faubourg Saint-Denis方面へジャンヌの一行は軟化し、現在のRue du Faubourg St-Denisに繋がる方向に進みます。

当時のこの地域には、現在のような連続した都市街路はありません。

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一行は当時存在したSaint-Lazareの救療施設(maladrerie)付近を通ります。

現在のHopital Saint-Lazareはその跡地に出来た病院と考えられます。

(でもここはまだ、現在のサンラザール駅周辺ではなく、北駅に近い場所だという注意が必要です。)

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ここからジャンヌは西南方向へ進みます。

当時の道には、Chemin de Paradisと呼ばれた道がありました。研究によれば、現在のRue de Paradisがその名残と考えられています。

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1916年の研究では、ジャンヌのルートを

Rue de Paradis → Rue Bleue → Rue  Saint-Lazareと復元しています。

ここまで来ると、現在のパリ中心がかなり近づいてきます。

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午前当時―――当時存在した ruisseeau de Menilmontant という小川を越えます。

現在では完全に暗渠化・消滅しています。

ジャンヌが渡ったと考えられている地点は、

現在なら、Boulevard Haussmann ―― Rue de l’Arcadeあたりです。

当時、この地域はまだ現在のような建物で埋め尽くされていません。

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更にジャンヌは「野原」を斜めに横切るような形で進み、最終的に

Rue d’Argenteuilに繋がる道に入ったとされています。

現在も残る「Rue d’Argenteuil」

現在のRue d’Argenteuilは、昔の道の形を比較的よく残しているとされます。

パリ市内の碁盤目状の道路と違って、妙に曲がっています。

Paris Museesにも、Rue d’Argenteuilについて、

「古いPorte Saint-Honoreから出てArgenteuilへ向かう古道」という説明が残っているそうです。

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そしてついに、ジャンヌたちはパリ(ここで言うパリは、シテ島やルーブル美術館付近)西側の防御網に到達します。

ここが1429年9月8日の最大の舞台。Porte Saint-Honoreです。

Porte Saint-Honoreは現在存在しません。

資料によれば、パリには歴史上複数の「Porte Saint-Honore」が存在し、城壁が拡張されるたびに位置が変わったそうです。

パリの住所には「城壁の外」と言う意味の「Faubourg/フォーブル」が付く住所が幾つかります。

有名なところは「Rue du Faubourg St-Honore」でしょう。そこは城壁の外であった名残です。

 

厳重な二重の堀と防壁で固められていた旧サン=トノレ門. 出典: Sepia Times / Sepia Times/Universal Images Group via Getty Images

 

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ジャンヌが攻撃した1429年のPorte Saint-Honoreは、

現在のPlace Andre Malraux周辺、

より具体的にはRue Saint-Honore x Avenue de l’Opera 付近です。

現在は完全に都市化されていますが、600年前にはここに城壁・門・二重の堀が存在していました。

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ジャンヌは大砲を配置します。

場所は、Butte Saint-Roch、現在のEglise Saint-Rochサンロック教会周辺です。

ここには当時、現在とは全く違う地形がありました。「Butte」=丘です。

19世紀のパリ都市開発(特にオスマン男爵の改造計画など)によって削られ、現在は平坦になっています。

ジャンヌはこの高台にcouleuvrine(クルヴィリーヌ)などの砲を配置して、Porte Saint-Honore方面を砲撃させます。

 

砲撃の陣を張ったサン=ロックの丘跡(現サン=ロック教会)

 

 

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午後―――攻撃開始

ここから戦闘になります。

フランス軍はPorte Saint-Honore周辺への攻撃を開始。城壁の外には、二重の堀がありました。

そして最大の問題が、「内側の堀には水が入っていた」こと。

ジャンヌたちは城壁に近づき、堀を埋めようとします。

当時の記録には、木材などを使って堀を埋めようとしたことが記されています。

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ジャンヌは旗を持って前線に出ます。

そして城壁内のパリ市民・守備兵に向かって「降伏せよ」と呼びかけます。

しかし、イングランド・パリ側は降伏しません。むしろ激しい抵抗。

矢、医師、火器などがフランス軍を襲います。

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そしてこの日の決定的瞬間。

ジャンヌが堀を越えようとしたとき、石弓(arbalète)の矢が彼女の太腿に命中します。

パリ教区の資料も、Porte Saint-Honore前の堀を越えようとした際に太腿を石弓で撃たれたとしています。

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彼女は倒れます。

しかし―「撤退しない!」

ジャンヌは負傷しても、「ここを取れる」と考えていました。

後の記録では、彼女はなお攻撃を続ける意思を示しています。

 

サン=トノレ門前の堀で太腿に矢を受け激闘するジャンヌ. 

 

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ところが夕方、状況が変わる。

戦闘は長時間続きました。

ジャンヌ側は城壁を突破できません。

問題はシャルル7世自身がパリ攻略を継続する事に消極的だったことです。

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ジャンヌは攻撃続行を主張しましたが、最終的に撤退命令が出ます。

ある資料では、攻撃は約4時間続き、午後4時頃撤退となったとされています。ただし、当時の記録には時刻に幅がある為、「午後4時頃」と言う程度に考えるのが良いそうです。

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ジャンヌは負傷した状態で戦場に残ります。

彼女は、「まだ攻撃できる」と考えていました。

しかし味方は撤退。

最終的には彼女を救出するために戻り、馬に乗せて後退させます。資料によって細部に違いがありますが、彼女自身は攻撃を続ける事を望んでいました。

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夜―La Chapelleに戻る。

最終的にジャンヌは、La Chapelleへ戻されます。

つまり朝に出発した場所へ戻ったわけです。

翌9月9日にはSaint-Denisへ戻り、9月10日にはパリ攻略を断念する命令が出されます。

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防衛側であるイングランド王国・ブルゴーニュ派の勝利(フランス王国の敗北)です。

ジャンヌ・ダルクにとって、これが事実上初めての明確な敗北となりました。

 

サン=トノレ門跡近く(ピラミッド広場)に立つ黄金像.

 

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ピラミッド広場にジャンヌの像がある理由が分かりましたね。

 

 

 

 

9月7日、ナポレオンのロシア遠征・ボロジノの戦い

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ナポレオン1世のロシア遠征で、現在のモスクワ西方約120kmのボロジノで、フランス「大陸軍」とロシア軍が激突しました。

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フランス軍:約12~13万人

ロシア軍:約12~13万人

戦闘時間:約15時間

フランス側の指揮官:ナポレオン

ロシア側:クトゥーゾフ

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フランス軍が戦場を確保したため、一般にはフランス軍の戦術的勝利とされます。しかし双方に甚大な損害が出ました。フランス国防省も、この戦いを1812年ロシア遠征で最も血なまぐさい戦闘の一つとしています。

ナポレオン自身も後に、この戦いを「最も恐ろしい戦い」と回想しています。

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1812年9月7日のボロジノの戦いでは、ナポレオン軍が戦場を確保しました。

しかしロシア軍は撤退しながらも戦闘力を維持しました。

ナポレオンが期待していたのは、

「ロシア軍主力を決戦で撃破 → ロシア皇帝アレクサンドル1世が講和を求める」という展開です。

ところが、ロシア軍は逃げただけ。

「ナポレオンが欲しかった決定的勝利」ではなかったのです。

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9月14日、ナポレオンはモスクワに入ります。

普通なら、「敵国の旧都を占領した → 敵は降伏する」と考える。

ところがロシア皇帝アレクサンドル1世は、「講和しない」という姿勢を崩しませんでした。

しかもモスクワは大量の住民が去り、フランス軍が利用できる物資も十分ではありませんでした。

そして有名な「モスクワ大火」が発生します。

当時の首都はサンクトペテルスブルグで、モスクワは「古都」であり、経済や宗教・精神的な拠点という位置づけでした。ロシア(アレクサンドル1世)側がモスクワを火の海にして明け渡し、焦土作戦と降伏拒否でナポレオンを追い詰めることができたのも、帝国の政治・行政の中枢である首都サンクトペテルブルクが無傷のまま機能していたことが大きな理由の一つです。

 

燃え上がるモスクワ

 

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ナポレオン軍は非常に遠くまで進んでいました。

パリからモスクワまで、実際の軍隊の移動距離は約2500㎞以上。

しかも補給線が長すぎました。

2500㎞は東京からグアムまでの距離です。もちろん飛行機でなく、徒歩&馬で進むわけです。

ロシア軍は、「正面決戦を避ける → 退却する → フランス軍を奥へ引き込む」という戦略を取りました。

ナポレオン軍は勝つたびにロシアの奥へ進み、勝てば勝つほど補給が難しくなるという奇妙な状況に陥ったわけです。

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ナポレオンがモスクワに入ったのは9月14日。

撤退を開始したのは10月19日です。

約5週間もモスクワに滞在しましたが、ロシア側の態度に変化は無く、アレクサンドル1世から講和の申し出はありません。そこでナポレオンはようやく、「ここにいても何も起こらない」と判断して撤退します。

しかし、モスクワの短い秋、ロシアの厳しい冬が迫っていました。

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ナポレオンは最初、

モスクワ → スモレンスクへ戻ろうとします。

ところがロシア軍が進路を塞ぎました。

そこでナポレオンは、往路とは異なる南西方向へ進もうとします。

しかしマロヤロスラヴェツでの激戦を経て、南下の継続を断念させられ結局、

すでに荒廃した土地を通ることになります。つまり、自分の大軍が数か月前に食料を食い尽くした土地を、今度は撤退しながら通ることになったのです。

 

ロシアへの道のり

 

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1812年11月、状況は地獄になります。

極端な寒さ、食料不足、馬の大量死、疲労、病気、ロシア軍・コサックの攻撃、道路の悪化が重なりました。

特に重要なのが馬の死。ナポレオン軍は騎兵と馬車による輸送に大きく依存していました。

馬が死ぬ

大砲を運べない

食料を運べない

騎兵が機能しない

さらに兵士が孤立する

 

ナポレオンの帰路

 

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そして11月26~29日、ベレジナ川が立ちはだかります。

フランス軍は橋を架けて川を渡ろうとしますが、ロシア軍が迫ります。

大混乱の中で、多くの兵士・民間人・負傷者が川へ落ちて死亡しました。

ナポレオン自身と軍の核心部(幹部・親衛隊)は包囲網を破って脱出に成功しました。軍としては崩壊したものの、「完全な殲滅(将軍らの捕虜化)」は回避しました。

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ナポレオンがロシアへ侵攻した際の「大陸軍」は、同盟軍を含めて約60万人規模でした。

ところがフランスへ戻ってきた兵士は、資料によって数字が異なりますが、戦闘・病気・飢餓・寒さ・脱走などによって壊滅的に減少しました。

「正規の軍隊形態を保っていた兵士」は約5,000〜1万人程度まで落ち込んでいました。

残存兵・負傷者を含めた合計(約2万〜3万人)、後方から散り散りに逃げ延びてきた落伍兵、負傷兵、側翼部隊などの生存者をすべて合わせると約2万〜3万人程度(またはそれ以上)と言われています。

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つまり、

ボロジノでは勝った。

モスクワも占領した。

しかし「ロシアを屈服させる」という戦争目的には失敗した、と言う流れです。

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ナポレオンはそれまで、「敵軍を大規模な会戦で撃破すれば、敵国は講和する」という戦争のやり方でヨーロッパを征服してきました。

しかしロシアは違いました。

領土を捨てても戦争を続ける。

古都を失っても講和しない。

敵を自国の奥深くまで引き込む。

これによって、ナポレオンが得意だった「一度の決戦で戦争を終わらせる」という方式が通用しませんでした。

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ではなぜナポレオンは、ロシアまで遠征したのでしょうか?

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1)当時、ナポレオンは直接手を出せない宿敵イギリスを孤立させるため、ヨーロッパ大陸諸国にイギリスとの貿易を禁じる「大陸封鎖令(1806年)」を出していました。しかし、穀物などの輸出をイギリスに頼っていたロシアは経済的に打撃を受け、1810年頃から密貿易やイギリス船の受け入れを再開しました。

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2)ロシアが自国経済を守るためにフランス製品へ高い関税をかけたことで、両国の対立が決定的になりました。ナポレオンにとって、ロシアの背信行為を放置することは自らの欧州覇権の崩壊を意味していました。

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3)ナポレオンがロシアのすぐ隣に「ワルシャワ公国(事実上のポーランド再興)」を建国したため、ロシア皇帝アレクサンドル1世は自国の領土や影響力が脅かされると激しい警戒感を抱いていました。

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つまりナポレオンにとってこの遠征は、「ロシアを降伏させて封鎖令に従わせ、イギリスを排斥する大欧州帝国体制を完成させるための見せしめ」だった。

 

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話は、ナポレオンから少し離れますが、チャイコフスキーの序曲『1812年』(または荘厳序曲『1812年』とか祝典序曲『1812年』とも呼ばれる)をご存知ですか?
これはまさにナポレオンのロシア遠征とボロジノの戦いを題材に作られた楽曲です。
ロシア遠征から78年後、1880年、ロシア皇帝アレクサンドル2世の即位25周年や、モスクワの救世主キリスト大聖堂の完成記念(ナポレオン退けを感謝して建てられた聖堂)に向けて委嘱された作品です。

曲の中では、ロシア軍とナポレオン率いるフランス軍の戦闘、そして(チャイコフスキー側の視点で)ロシアの勝利までの展開が音楽で非常に分かりやすく描かれています。

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フランス軍の攻勢: フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』のメロディが何度も現れ、ナポレオン軍の侵攻やボロジノでの激戦を象徴します。ただしナポレオン遠征時は、「ラ・マルセイエーズ」は人気の歌ではありましたが、まだ国歌ではありませんでした。チャイコフスキーが作曲した当時は、すでに国歌と認められていました。

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ロシア側の耐えと反撃: ロシアの聖歌(「主よ、御身の民を救い」)や民謡風のメロディが聞こえ、焦土作戦とボロジノの死闘を経て立ち向かう様子を表します。

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勝利のクライマックス: フランス国歌の旋律が崩れ去り、本物の大砲(大砲の発砲音)が轟く中、当時のロシア帝国国歌『神よ皇帝を保ち給え』と勝利の鐘(教会の大鐘)が大音量で鳴り響いて曲を締めくくります。

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楽譜に「本物の大砲」を楽器として使用するよう指定されていることで有名な、非常にドラマチックな名曲です。
映画『のだめカンタービレ 最終楽章 前編』で大砲を鳴らして演奏するシーンが描かれているので、覚えのある方もいる事でしょう。
楽譜上に「Canon大砲」と指示している写真を添付します。
但し、Canonは英語で、チャイコフスキーの自筆楽譜ではありません。自筆楽譜は著作権の関係で発見できませんでした。
ただ、自筆楽譜にはロシア語で、
Пушки — 砲

Пушечные выстрелы — 砲撃(砲の発射)

Выстрелы — 発射

Громовые удары — 雷鳴のような打撃(大砲の比喩的表現として使われることがある)
などが書かれているそうです。

 

楽譜上の大砲の指示、左上に「Canon」の文字。自筆楽譜ではない。

 

 

 

米国陸軍の演奏写真。

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陸上自衛隊・音楽隊が演奏する際は、音楽隊でない特科(砲兵)部隊が音楽隊へ編入され、旧式のM101 105mm榴弾砲を撃つとの事です。2007年の富士総合火力演習においては、現役装備である155mm口径のFH70を使用したが、発砲音が強力過ぎて演奏者や聴衆の聴覚が麻痺したため、大失敗に終わったというエピソードもありました。
2010年10月17日、朝霞訓練場で行われた陸上自衛隊・東部方面音楽隊による「1812年 序曲」の演奏(大砲を打つクライマックスシーン、3分50秒)の動画リンクを貼っておきます。
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尚、この曲をフランス人の指揮者または楽団が演奏した記録は現在までないそうです。

 


 

9月6日、ラファイエット侯爵の誕生日

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日本の学校の世界史ではほとんど出て来ない名前ですね。

マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ/ラファイエット侯爵(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette、1757年9月6日 - 1834年5月20日)は、フランスの貴族、軍人、政治家です。
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名前は5つもあり、苗字はデュ・モティエ、でもこの「デュ・モティエ」氏と呼ばれることはほぼありません。歴史的には「ラファイエット侯爵」と呼ばれることがほとんどです。当記事内もこの歴史的慣例に従って、「ラファイエット」と記述します。

 

 

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ラファイエット侯爵。中将に昇格した当時らしい。

 

 

 

ラファイエットは歴史的軍人一家、大富豪の名家に生まれます。幼少期から軍人として育てられます。フランス革命とアメリカ独立戦争の双方に関わった、非常に珍しい人物です。
 

Metz・メスにあるラファイエット侯爵像

 

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歴史書などで「ラファイエット侯爵」「ラファイエット将軍」と聞いたことがある方もいる事でしょう。「侯爵」「将軍」という肩書は何歳くらいの人物を想像しますか?

若い「侯爵」は存在します。20代でも30代でも、、、

「将軍」は60代くらいを想像しませんか?

ラファイエットは13歳で中尉に指名され、16歳で有名貴族の娘、アドリエンヌ・ド・ノアイユ(Adrienne de Noailles)と結婚します。アドリエンヌは14歳でした。
こうして彼は、ラファイエット家の財産とノアイユ家の宮廷の人脈を手に入れます。
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ラファイエット夫妻は毎週王妃の舞踏会に出席したが、ラファイエットはダンスが下手でマリー・アントワネットにからかわれ、酒も弱く、宮廷内でうまく立ち回れなかったそうです。
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そんな彼は1777年、19歳でアメリカに渡ります。

 

ボルドー・ポイヤックにある、「アメリカへの出発を記念する碑」

 

 

19歳でアメリカ独立戦争に参加、ワシントンの側近となりました。

単なる「フランス人義勇兵」ではなく、アメリカ大陸軍(Continental Army)の正式な「少将(Major General)」の階級を与えられました。アメリカ陸軍も、彼が19歳で少将の階級を与えられたと記録しています。彼はなんと19歳で将軍となったのです!

ただし、ここには少し複雑な事情があります。「フランス軍の少将」ではありません。重要なのは、彼の「少将」という階級はアメリカ大陸軍でのものだったということです。
(最終的にはフランス軍では中将になります。)

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先日、9月3日に米国独立の顛末を紹介しました。その中で、「フランス海軍の活躍」「ヨークタウンの戦い」を紹介しました。

その米国独立を決定づけた「ヨークタウンの戦い」を率いたラファイエットは24歳の少将でした。

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特に有名なのが、1781年10月14日のレドゥート(堡塁)10号への夜襲です。

ラ・ファイエットはアメリカ軍側の攻撃部隊を指揮し、24歳の彼の指揮下で約400人が攻撃しました。実際の突撃部隊の直接指揮はアレクサンダー・ハミルトン中佐26歳(前後?)が担当していたそうです。

「24歳のフランス人少将ラ・ファイエット」と「26歳のハミルトン中佐」という、驚くほど若い指揮官たちによって実行されたことになります。

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では、なぜ24歳で「少将」になれたのか?

これはラ・ファイエットの身分と政治的意味が大きいです。

「フランスの名門貴族が、アメリカの自由のために自ら戦いに来た」という、フランスとの同盟関係を象徴する存在でもありました。

そのため、19歳という異例の若さで少将の地位を与えられました。

しかし24歳のヨークタウンでは、もはや「名誉だけの少将」ではありません。

実戦経験を積んだ、ワシントンが信頼する現場指揮官になっていました。

ちなみに、ヨークタウンでラ・ファイエットと並んで活躍したフランス側の最高位の指揮官はロシャンボー伯爵(Rochambeau)で、こちらはなんと中将(Lieutenant General)。7,000人のフランス軍を率いていました。

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ラファイエットはアメリカ独立を見届けた後、フランスに戻りました。

バスティーユ襲撃の翌日、国民衛兵(Garde nationale)の司令官に選ばれました。

彼の役割は革命を鎮圧することではなく、革命後のパリの秩序を維持することでした。

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そしてアメリカ独立戦争で得た「自由・権利」の思想をフランスに持ち帰り、「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)」の草案作成に関わりました。アメリカ独立宣言の影響が強く、ラ・ファイエット自身が初期草案を提出しています。この点は、9月3日の記事で紹介しました。

 

フランス人権宣言

 

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彼は、「革命は必要。しかし、国王を殺して共和政にする必要はない」という立場でした。

つまり目指したのは、イギリスのような立憲君主制です。

そのため、急進派からは「王党派」と疑われ、王党派からは「革命派」と疑われるという、非常に苦しい立場になります。

そして1791年7月17日のシャン・ド・マルスの虐殺で、国民衛兵が共和政を要求する群衆に発砲したことで、ラ・ファイエットの人気は大きく失墜します。

最終的には革命が急進化し、1792年に国外へ逃亡。オーストリア軍に捕らえられ、約5年間拘束されました。
 

オーストリアで逮捕されたラファイエット

 

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後にナポレオンに許され、フランスに帰国します。
1824年、彼はアメリカに招待されます。16か月を賭けて当時の24州すべてを回り、民衆は彼を熱狂的に迎えたそうです。

彼はアメリカの切手にもなっています。
またノースカロライナ州には彼の名を取ったファイエットヴィル(Fayetteville)という都市もあります。(現在人口20万人)

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1834年5月20日にパリにて死去。享年76歳。

 

パリ・ピクプス墓地のラファイエットの墓

 

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ルイ=フィリップ王は(彼が最終的に国王側から反意したので)市民が参列しないよう軍隊式の葬儀を命じたが、市民は街中に繰り出し、排除されたことに抗議し、彼を追悼した。

アメリカでは、ジャクソン大統領がラファイエットに、1799年12月に亡くなったワシントンが受けたのと同じ栄誉を与えることを命じた。上下両院は30日間黒旗で覆い、議員は喪章を付けた。議会は国民に対し同様に哀悼することを求めた。同年、クインシー・アダムズ前大統領は3時間にわたるラファイエットの追悼演説を行い、彼は「人類の純粋かつ私心の無い後援者のリストの上位に位置する」と述べた。(Wikipediaより)
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ラファイエットは、フランス・アメリカ両国での活躍から「両大陸の英雄(The Hero of the Two Worlds 、Le Héros des Deux Mondes)」と呼ばれる。

 

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1952年「ラ・ファイエットのアメリカ到着175周年」3セント切手

 


子供は4人いたが、長女は夭折、
長男はジョルジュ・ワシントン・ド・ラ・ファイエット、

3女はマリー・アントワネット・ヴィルジニー・ド・ラ・ファイエットと名付けられた。

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日本人の私たちは、「ラファイエット」と言うと「侯爵」ではなく「デパート」を想像しますよね。この2つの間に関係はあるのでしょうか?

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名前は同じですが、ラ・ファイエット侯爵と現在の「ギャラリー・ラファイエット」は、直接の血縁・創業者としての関係はありません。

現在のギャラリー・ラファイエットは、1893年にアルザス出身の従兄弟、テオフィル・バデール(Théophile Bader)とアルフォンス・カーン(Alphonse Kahn)が創業しました。

1894年1月、2人はパリの1 rue La Fayetteに約70㎡の小さな商店を開きました。

そして店名を、Aux Galeries Lafayetteとしたのです。

つまり、最初は「ラ・ファイエット通りにあるギャラリー(Galeries)」という意味合いが強かったのです。そしてこのrue La Fayette(ラ・ファイエット通り)そのものが、ラ・ファイエット侯爵にちなんで名付けられています。

血縁関係はありませんが、「侯爵」に関係がないとは言えないようですね。

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ちなみに、現在の有名なオスマン大通りのギャラリー・ラファイエット本店は、創業当初の場所とは違います。1912年に現在の壮大な店舗と有名なクーポール(大ドーム)が完成しました。

 

パリ・ピクプス墓地のラファイエットの墓