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mkparisのフランス歳時記、日々のフランス、フランス人

フランス・パリからフランスやパリに関するトピックをお届けします。
日記形式で、可能な限り日々綴っていきたいと思います。お休みしたらごめんなさい。

9月5日、ニコラ・フーケ逮捕事件をご紹介。

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まず、偶然ですが、この事件の重要人物ルイ14世の誕生日でもあります。
(1638年9月5日 )

ですが、本日のご紹介は映画のような事件、フーケ逮捕事件です。

 

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ニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet)はルイ14世の財務総監(surintendant des finances)、日本の財務大臣のような立場でした。

 

 

 

フーケは大富豪で、ヴォー=ル=ヴィコント城を建設しました。

 

ヴォー=ル=ヴィコント城

 

ニコラ・フーケの寝室、
ヴェルサイユの王の寝室と見まがうほど。

 

 

 

1661年8月17日、フーケは完成したヴォー=ル=ヴィコント城で、ルイ14世を招いて超豪華な祝宴を開催します。

ところがルイ14世は、「自分より金持ちで、こんなに豪華な城を持つ家臣」に激怒したと伝えられます。

そしてわずか3週間後の9月5日。

ヴェルサイユ宮殿の公式資料も、8月17日のヴォー=ル=ヴィコントの大祝宴の後、9月5日にフーケが逮捕されたことを記しています。

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つまり、国王陛下を財力に任せて盛大に接待したところ、その豪華さが裏目に出てしまい、国王を怒らせた、と言うところです。

フーケが、純粋に国王を十分に接待するためだったのか、はたまた、国王の接待にかこつけて、自分の財力を周りにひけらかしたのか?その辺は不明です。

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本日は、国王でさえ自分より裕福ではないかと、驚き羨んだその豪勢な接待について見てみましょう。

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現在のメニューのような詳細な記録は残っていませんが、

80の食卓

30のビュッフェ

5回に分けた料理のサービスだったとされています。

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ラ・フォンテーヌと言う人物がこの宴会を友人に手紙で報告しており、記録が残っています。

実際に見た料理については、「料理の繊細さと珍しさは非常なものだった」と驚嘆しています。

つまり、現代のような「メニュー表」は残っていないものの、「最高級の珍しい食材を大量に使った宴会」だったことは確実です。

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1)料理には、

キジ(faisans)

ウズラ(cailles)

山鳩・野鳩類(palombes)

ヨーロッパコウライウズラ/ウズラ類(ortolans)

ヤマウズラ(perdrix)

など、当時の最高級の鳥料理が大量に用意されたとされています。

さらに、王と王室関係者には金製の食器、その他の客には銀製の食器が用意されたという記録があります。フランス美術アカデミーも、この80卓・30ビュッフェ・5サービスという数字を紹介しています。

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2)24人のヴァイオリン

食事を盛り上げたのが音楽。

王室の「24 Violons du Roi(王の24のヴァイオリン)」が演奏しました。

これは当時のフランス宮廷音楽の最高峰です。

フェリビアンも、24人のヴァイオリンが非常に美しく正確に演奏していたため、ルイ14世自身が足を止めて聴き入ったと記録しています。

そして音楽を担当したのが、ジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste Lully)です。

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3)フーケはモリエールに、この宴会のための新しい作品を作らせました。

それが、『Les Fâcheux』『厄介者たち/迷惑な人々』です。

しかも、モリエールはわずかな期間でこの作品を仕上げたと伝えられています。

これは単なる芝居ではなく、喜劇+バレエ+音楽を組み合わせたcomédie-ballet(コメディ=バレエ)。後のフランス演劇・音楽劇の発展に非常に大きな意味を持つ作品です。

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4)さらに凄いのが演出です。劇場に入って芝居を見る、という現代的な形式ではありません。

庭園の中に舞台装置を作り、庭園・噴水・彫像・音楽・ダンス・演劇を一体化させました。

フェリビアンの記録によると、劇の合間には、

球戯をする人々、投石器・投石をする人々、靴職人、スイス人、羊飼いなどに扮したバレエが登場しました。

つまり、「料理を食べながら芝居を見る」というより、「庭園そのものが巨大な総合エンターテインメントになる」という演出です。

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5)ル・ノートルが設計した庭園では、噴水や滝が重要な演出装置でした。

ラ・フォンテーヌは、「水の壁の間を歩く」ような感覚だったと表現しています。

噴水、滝、運河、彫像が照明によって演出され、自然そのものが舞台装置になっていました。

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6)そしてクライマックス。

午前1時ごろ。

花火が始まります。

フェリビアンの記録によると、花火が空中で百合の紋章(fleurs de lis)を描いたり、名前や星のような形を作ったりしたそうです。

さらに驚くことに、「クジラ」まで登場します。

庭園の運河にクジラの仕掛けを浮かべ、その体から大きな爆竹音を響かせ、火花を空へ噴き上げる。水上のクジラ+噴水+花火です。

フェリビアンは、火と水が一つになったようだったという趣旨の描写を残しています。

 

近年の花火

 

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7)王が「もう花火は終わった」と思って城へ戻ろうとしたところ……

突然、城のドームから大量の花火が一斉に上がる。

空いっぱいに広がった花火が、庭園を覆うように降り注ぎ、「火の天井(voûte de feu)」のようになった、とフェリビアンは書いています。

現在のヴォー=ル=ヴィコントが、毎年「キャンドル・ナイト」で1661年の花火を再現しているのは、この記録が根拠になっています。

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8)花火が終わってからも終わりません。

王が城へ戻ると、「非常に美しく珍しい果物」が供されました。

フェリビアンは、これをcollation(軽い夜食・茶菓のようなもの)として記録しています。

そして王は再び24人のヴァイオリンの演奏を聴き、満足した様子(満足か怒りかは???)でフォンテーヌブローへ戻っていきました。

 

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フーケは王が大いに満足したと思っております。がその19日後、彼は突然、逮捕されます。

本人は意外だったことでしょう。

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さて、ここで、フーケを逮捕した人物が、有名なダルタニアンです。

 

9月5日 早朝7時ごろ

フーケはルイ14世との「国王評議会(Conseil)」に出席するため、ナント城へ向かいます。

城の周囲には、すでにダルタニアン率いる銃士たちが配置されていました。

表向きは「国王が狩猟に出かけるための準備」と見せかけていました。実際にはフーケ逮捕のためです。

城内では、ルイ14世がフーケを普段通りに扱います。

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ルイ14世はフーケをしばらく自分の部屋に引き留め、いろいろな話をしながら、何でもないように書類を探すふりをしていました。

そして国王は窓から外を見て、城の中庭にダルタニアンが配置されていることを確認します。

ルイ14世は「もう行ってよい」とフーケを退出させます。

ところが、ここでダルタニアンが一瞬フーケを見失います。

フーケは城を出て、現在のナント大聖堂(Cathédrale Saint-Pierre-et-Saint-Paul de Nantes)のある方向へ進みます

ダルタニアンは急いで追跡。

そして大聖堂前の広場(place de la grande église)でフーケに追いつきます。

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そこで有名な一言、「Monsieur, je vous arrête au nom du roi !」(ムッシュ、国王の名において、あなたを逮捕します!)と告げます。

逮捕されたフーケは、取り乱すどころか、「Mais, monsieur d'Artagnan, est-ce bien à moi que vous en voulez ?」「しかし、ダルタニアン殿、あなたが狙っているのは本当に私なのですか?」

と、かなり冷静に返したと伝えられています。

そしてダルタニアンはフーケを国王の馬車に乗せ、銃士たちが取り囲んで護送します。

 

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1661年にニコラ・フーケを逮捕した時のダルタニアンは、単なる「銃士」ではありません。国王ルイ14世から特別に信任された、王室銃士隊の隊長(capitaine-lieutenant)という重要な立場でした。

本名は シャルル・ド・バツ=カステルモール、ダルタニアン伯爵(Charles de Batz de Castelmore, comte d'Artagnan)。

 

17区のマルゼルブ広場にアレクサンドル・デュマ(ペール)の像があります。
デュマが上に鎮座していて、その下にダルタニアンの像があります。

 

 

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1661年当時は、王室銃士隊(Mousquetaires du roi)の「副隊長・中隊長格」= capitaine-lieutenantでした。

ここが少し分かりにくいのですが、王室銃士隊には「隊長(capitaine)」という名目上の最高職がありました。しかしその地位は国王自身が持つ名誉職のようなもので、実際に部隊を指揮したのが capitaine-lieutenant です。

したがって実質的には、「国王直属のエリート部隊の現場指揮官」と考えると分かりやすいです。

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ではなぜダルタニアンはフーケ逮捕を任されたのか?

フーケは当時、単なる大臣ではありません。

元・財務総監で、莫大な財力と人脈を持つ、フランス屈指の大物政治家でした。

そんな人物を逮捕するには、

国王への忠誠心が絶対的

秘密を守れる

武力行使ができる

相手が大物でもひるまない

国王直属の部隊を動かせる

人物が必要でした。

そこでルイ14世が選んだのがダルタニンです。

実際、逮捕の際には数十人規模の銃士を率いてフーケを監視・護送しています。

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またダルタニアン自身も「危険な任務」だと分かっていました。フーケには多数の家臣、友人、警護役がおり、ナント周辺にも支持者がいました。しかもフーケは、「自分が逮捕される」と全く知らない状態で国王に呼び出されていたわけです。

つまりダルタニアンの任務は、「国王の側近だった超大物政治家を、本人に気づかれないように監視し、最も適切な瞬間に逮捕する」という、かなり特殊な秘密作戦でした。

実は「銃士隊」そのものが凄かったとの事です。王室銃士隊は普通の軍隊ではなく、国王の身辺警護・騎兵・戦闘を担当する、国王直属の精鋭部隊でした。

しかもダルタニアンは後に、ルイ14世からさらに信頼されるようになります。

1661年のフーケ逮捕後、ダルタニアンはフーケを約4年間にわたって護送・監視する役割まで担いました。

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そして意外なことに、この二人はその間にかなり親しくなります。

フーケは裁判の間、ダルタニアンに対して非常に紳士的に接し、ダルタニアンもフーケに一定の敬意を持つようになります。

「逮捕した男と、逮捕した側の男が、監禁生活を通じて友情に近い関係になる」

という、まるで小説のような話です。

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ちなみに、実在のダルタニアンと、デュマの『三銃士』のダルタニアンの人物像はかなり違うというのが歴史家の味方です。


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フーケの最終的な刑は、死刑ではありませんでした。

結論から言うと、終身流刑(banishment à perpétuité)

が言い渡されました。しかしルイ14世はこの判決をさらに重く変更し、ピネローロ要塞(現在のイタリア・ピエモンテ州)への終身禁固としました。

 

フーケが流されて、最期を迎えたピネローロ

 

 

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裁判の経緯

1661年9月5日に逮捕されたフーケは、その後、実に3年以上にわたって裁判を受けます。

1661年9月5日 ナントで逮捕

1663年 裁判開始

1664~1665年 裁判が本格化

1664年12月 フーケ側が有罪判決に強く抵抗

1664年12月20日 裁判所が最終判決

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判決は、フーケにとってはかなり意外なものでした。

財産没収+終身流刑。

ところがルイ14世は、「流刑では軽すぎる」と考え、流刑先をさらに厳しい牢獄に変更します。

フーケはピネローロ要塞(Forteresse de Pignerol)へ送られました。

現在のイタリア、トリノの南西にあるピネローロ)です。

ここは当時、フランスが支配していた非常に重要な軍事要塞でした。

フーケはここで、1665年1月~1680年3月約15年間を獄中で過ごします。

そして1680年3月23日、ピネローロで死亡しました。

享年65歳。
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そしてこのピネローロが「鉄仮面」伝説の謎につながります。
ご興味のある方、深堀してくださいね。
できれば報告を頂けると嬉しいです、ははは。

9月4日はヨーロッパ統合の父・ロベール・シューマンの命日です。

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ロベール・シューマンRobert Schuman(1886年6月29日生まれ – 1963年9月4日没)

ドイツの作曲家ロベルト・シューマンRobert Schumannと混同されがちですが、別人です。
(「n」の数が違う)

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本日紹介するのは、フランスの外相を務め、ヨーロッパ統合の父の一人とされる人物です。

 

 

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世界史の授業で、
  ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)

  → EEC

  → EU の流れは勉強したことと思います。

ただ、そのECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)の「設立」については、専門家以外はあまり触れていないでしょう。

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シューマンは現在のルクセンブルク生まれのドイツ人ですが、1919年にフランス国籍を取得したフランスの政治家です。
この経緯がちょっと複雑です。
父ジャン=ピエール・シューマン(1837年 - 1900年)は、フランス・ロレーヌ地方で生まれたフランス市民であったが、ロレーヌ地方が1871年に普仏戦争の結果ドイツ帝国領になるとドイツの国民になった。母ウジェニー(1864年 - 1911年)はルクセンブルク人で、1884年に結婚してドイツ国民になった。ロベール1886年にルクセンブルク市で生まれたが、血統主義により民族的にはドイツ人となった。更にアルザス=ロレーヌが第一次世界大戦でフランスに奪還されると1919年、33歳の時に、フランス国籍を取得した。
(ロレーヌ地方が、仏領からドイツ領になる話は、国語の教科書で勉強した人も多いでしょう。フランスとドイツの間を行ったり来たり、土地も人も翻弄された。)
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ドイツの大学で学んだが、ロレーヌ地方が仏領になった為、フランス人になり、その後フランスの政界入り。外相に時の1950年5月9日の有名な「シューマン宣言」によって、フランスと西ドイツなどの石炭・鉄鋼を共同管理する構想を提唱し、現在のEU統合に先鞭をつけた。

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両親の国籍、ゆれる自分の国籍、文化背景が国を超えた欧州の未来に結び付いたと言われている。

 

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ロベール・シューマンのエピソードを幾つか、、、。

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「ドイツ人として生まれ、ルクセンブルクで育ち、後にフランス人になり、フランスとドイツを和解させた」彼自身の人生が、フランスとドイツは「敵」である必要はないという思想の説得力になっていたわけです。

 

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第二次世界大戦が終わってわずか5年。

フランス人にとってドイツは、まだ昨日まで戦っていた敵国でした。

そこでシューマンが考えたのが、「石炭と鉄鋼をフランスと西ドイツで共同管理してしまおう」という、とんでもなく現実的なアイデアでした。

石炭と鉄鋼は当時、兵器・軍需産業にとって極めて重要な資源。

つまり、戦争に必要な材料を、敵同士が共同管理する。

そうすれば、どちらか一方が勝手に軍備を増強することが難しくなる。

EU公式資料も、この構想について「戦争を単に考えられないものにするのではなく、物理的に不可能にする」という発想だったと説明しています。

「仲良くしましょう」ではなく、「仲良くしないと困る仕組みを作ってしまおう」なのです。

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1950年5月9日――有名なシューマン宣言はパリの外務省、現在のケ・ドルセー(Quai d'Orsay)で発表されました。

場所は、Salon de l'Horloge・時計の間です。

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この歴史的な発表には意外な裏話があります。

あまりに急だったため、当初は写真家が来ていなかった。

しかもラジオやテレビの取材もありませんでした。

欧州議会の歴史資料によると、シューマンは後世に残すため、後からもう一度、声明を録音することになったのです。

現在「1950年5月9日のシューマン宣言」として使われている有名な写真も、実はその日の発表時に撮影されたものではありません。EUの視聴覚資料によれば、よく使われる写真は1950年6月20日のものです。

「EU誕生の瞬間の写真」だと思っている写真が、実はその瞬間の写真ではない。

 

 

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ですが、シューマンが「ヨーロッパの父」と呼ばれますが、実はもう一人、陰の立役者がいました。このアイデアの頭脳的な部分を作ったのはジャン・モネでした。

1950年春、モネは自宅で構想を練り、4月16日から5月6日にかけて協力者たちと宣言文を作成。

そしてシューマンがそれを政治的に実行する役割を担いました。

ですから、よく言われるのが、

Jean Monnet = 構想者・設計者

Robert Schuman = 政治的実行者・宣言者

という関係です。

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モネがいなければシューマン・プランは生まれにくかったでしょうし、シューマンがいなければ政治的に実現しなかった。

二人のコンビが非常に重要だったわけです。

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彼は、「フランスもドイツも全部一つの国にしてしまおう」

とは考えていませんでした。むしろ、違いを残したまま、分裂しているものを結びつけるという考え方でした。

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フランス人はフランス人のまま。

ドイツ人はドイツ人のまま。

という発想です。
もっと簡単に言うと、

何かあったら「戦争する?」と言う考え方から、「国は違うけど、一緒に経済しない?」という発想です。昔は敵対した相手だったけど、一緒に経済したら、意外と両者がウィンウィンだね、という感じです。

 

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シューマンは、ド・ゴールのような華々しいカリスマ政治家ではありませんでした。

むしろ、非常に地味で、信仰心の厚いカトリックの政治家でした。

派手な演説で大衆を熱狂させるタイプではなく、法律家として物事を積み上げるタイプ。

だからこそ、

「ヨーロッパ統合」という巨大な理想を、石炭・鉄鋼という極めて現実的な政策に落とし込んだ

ところが彼のすごさです。

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シューマンは、フランスで2回首相を務めています。

第1次シューマン政権(1947年11月24日 - 1948年7月26日)

第2次シューマン政権(1948年9月5日 - 1948年9月11日)

ちなみに第一次政権で復員兵・戦争被害大臣を務めたのはミッテランでした。
さらに後に欧州委員会の議長も務めました。

 

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シューマンは1963年9月4日に亡くなっています。享年77歳。

場所はモゼル県のスキ=シャゼル(Scy-Chazelles)。

実はここに彼の家があります。

そして現在、そこにはシューマン博物館(Maison de Robert Schuman)があり、彼の墓もあります。
 

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パリでは外務省のすぐ近くパリ6区にAvenue Robert Schuman

パリ16区にsquare Robert-Schumanがあります。
 

 

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現在のEU統合の理念となったシューマン宣言・全文を紹介。

 

 


**********シューマン宣言の要約**********

1.前文と背景(Préambule et Contexte)

世界平和は、脅威に見合う創造的な努力なしには守れません。欧州の統合は一朝一夕や一括の計画で成るものではなく、まずは事実上の連帯を生み出す具体的な成果の積み重ねによって実現されます。

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2. 独仏関係と石炭・鋼鉄の共同管理(Rapprochement franco-allemand et CECA)

フランス政府は、独仏の石炭・鋼鉄の全生産を共通の最高権限機関(高等権限機関)の管理下に置くことを提案します。長年の独仏の対立を解消し、両国間の戦争を構想不可能かつ物理的に不可能なものとします。

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3. 経済統合と世界平和への貢献(Objectifs économiques et solidaires)

基礎生産の共有と新機関の設立は、欧州の経済発展と生活水準の向上を確実にします。さらに、これらの資源を活用してアフリカ大陸などの開発支援にも貢献します。

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4. 創設機構の基本原則(Principes de la Haute Autorité)

最高権限機関は各政府が平等に任命する独立した有識者で構成され、その決定は法的拘束力を持ちます。これが将来的な欧州連邦への第一歩となります。

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<追記>

1870年9月4日 ― 第三共和政の成立

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アルベール・シュヴァイツァーAlbert Schweitzerの命日

(1875年1月14日 – 1965年9月4日)

9月3日はフランスの歴史上2つの出来事が記憶されます。 

 

1)1783年9月3日――ヴェルサイユ条約&パリ条約、米国独立戦争終結

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1783年9月3日、ヴェルサイユ条約とパリ条約が調印されました。

フランス・英国・スペイン・オランダと米国合衆国の間で結ばれ、米国独立戦争を正式に終結させた2つ条約です。
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まずヴェルサイユ条約は、英国と複数国の間で交わされた条約です。

 

ヴェルサイユ条約

「王と英国王の間の平和条約、1783年9月3日」

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フランスは英国と旧英国の13州(ここでは便宜的に「米国」と表記します)との戦争で資金面だけでなく、兵力も送りました。

特に重要なのが、グラース伯爵率いるフランス海軍です。

1781年9月、フランス艦隊がチェサピーク湾を封鎖。英国軍の援軍・補給を妨げました。


グラース伯爵

 

「チェサピーク湾の海戦(Battle of the Chesapeake)」
右が英国海軍、左がフランス海軍

 

 

その結果、ジョージ・ワシントン率いる米国軍+フランス軍によって、英国軍のコーンウォリス将軍が降伏。これが事実上、米国独立戦争を終結された決定的な戦闘となりました。

(18世紀19世紀の200年を通じて英国の艦隊が負けたのはこの海戦のみである。)

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莫大な資金と兵器を提供、仏海軍が大活躍したにもかかわらず、莫大な借金が残り、得たのはセネガルだけ、と大きな不満が国中に広がりました。

米国独立を助ける → フランスの財政悪化 → 1789年フランス革命

という皮肉な流れがあります。

しかし、フランス人のDNAには、「フランスがいなければ、米国の建国はなかった」という考えが受け継がれており、政治の場面で、現在でも人口が1/6程度のフランスが米国に臆する事がないゆえんでしょう。

 

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2)パリ条約

ヴェルサイユ条約と同日、英国代表と、米国側の代表がパリで講和条約(全10条)を締結しました。

米国側の代表には、

ベンジャミン・フランクリン

ジョン・アダムズ

ジョン・ジェイ

ヘンリー・ローレンス

などがいました。

一方、英国側はリチャード・オズワルドが交渉にあたりました。

ここで

「米国合衆国は自由で独立した国家である」と正式に認められました。

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米国は非常に大きな領土を獲得しました。

英国は米国に対して、大西洋岸の13植民地だけではなく、ミシシッピ川までの広大な地域に対する領有を認めました。現在の米国のほぼ東半分まで領土を広げました。

しかし、カナダを得ることは出来ませんでした。
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米国と英国の署名は、パリ・サンジェルマンデプレで行われました。

当時、英国大使館は44 rue Jacobにありました。しかし米国側は、

英国大使館で署名することを拒否しました。

理由は、外交上、大使館は派遣国の領土とみなされるという考え方があるためです。

独立したばかりの米国代表が、「英国領内で、英国との独立条約に署名する」

ことを嫌ったわけです。

そこで、すぐ近くのHôtel d'Yorkが選ばれました。
     56, rue Jacob, 75006 Paris
現在、その建物の壁に碑文が掛けられています。

碑文には

「この建物はかつてヨーク・ホテルであった。1783年9月3日、英国国王を代表するデイヴィッド・ハートリーと、米国合衆国を代表するベンジャミン・フランクリン、ジョン・ジェイ、ジョン・アダムズが、米国合衆国の独立を承認する最終和平条約に署名した」

とあります。

フランス人は、「米国合衆国は、ここサンジェルマン・デ・プレで生まれた」と言います。

ヴェルサイユ宮殿の公式解説も、パリの56 rue Jacobにあるホテルで9月3日に最終和平条約が署名されたと明記しています。

 

現在のパリの56 rue Jacob

 

 


壁に掛かる碑文

 

 

.パリ条約の最後のページ
下部右から2つ目の印にB.Franklinのサイン
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パリ条約を締結した米国代表団、英国代表団は自国の敗北を

恥じて、ポーズを取ることを拒否、絵は未完成のまま。


パリ条約(英文)

https://web.archive.org/web/20060804204846/http://www.yale.edu/lawweb/avalon/diplomacy/britain/paris.htm#art1

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パリ条約(日本語訳)

https://web.archive.org/web/20031010230305/http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/docs/paris2.htm

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<注釈>
歴史上、現在2026年まで「パリ条約」と呼ばれるものは50以上、ヴェルサイユ条約と呼ばれるものも7つあります。検索する場合は何年の何に関する条約かに注意。

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2)1939年9月3日――フランス、ドイツに宣戦布告

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1939年9月3日、フランスと英国がドイツに宣戦布告。

2日前の9月1日にドイツがポーランドへ侵攻したためです。

こうしてフランスは正式に第二次世界大戦へ突入します。

当時のフランス大統領はアルベール・ルブラン、首相は エドゥアール・ダラディエ でした。

この日から約8か月後、1940年5月にドイツ軍が西方へ侵攻し、フランスは敗北。6月にはパリが占領されます。

したがって、

1939年9月3日 → フランスの第二次世界大戦参戦

は、フランス史を語る上で非常に大きな日です。




<追記>

ジャン=ピエール・ジュネ(Jean-Pierre Jeunet)1953年9月3日生まれ

映画「エイリアン4」「アメリ」の監督です。