9月2日 へたうま「税官吏」ルソーの命日
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アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー(Henri Julien Félix Rousseau)
1844年5月21日生まれ - 1910年9月2日没
19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの素朴派の画家。伝統的な美術教育を受けず独学で絵を描いたため、下手な画家と揶揄されることがあるが、色彩感覚や繊細な表現に優れ、独特の幻想的な雰囲気やユニークな視点、および伝統的技法とは異なる独自の芸術表現などが評価されている。
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まず有名な「税関吏ルソー」という呼び名。税関で働いていたアマチュア芸術家というのが一般的です。でも実際のルソーは、厳密には税関職員(douanier)ではありません。
彼が勤めていたのはパリ市のoctroi(オクトロワ)という、パリ市内に商品を持ち込む際の通行税を徴収する部署でした。国の税関職員というより、「入市税を徴収する係」に近い仕事です。
ところが本人は「Douanier Rousseau」という呼び名を気に入り、芸術家としてもその名前が定着してしまいました。
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当初、一般市民や批評家には、ルソーの作品は理解されませんでした。理解したのは一部の芸術家でした。その中の一人がピカソ。
1900年代初め、ピカソがモンマルトルのRue des Martyrsにあった「ペール・スリエ(Père Soulié)」という古物商の店でルソーの《女性の肖像》を見つけました。
価格はなんと、5フランだったとされています。
店主は、「このキャンバス、まだ上から絵を描くのに使えるよ」くらいの扱いだったとも伝えられています。
ところがピカソはこの絵を購入。後にこの作品に強い魅力を感じるようになります。
当初、理解されなかったルソーですが、実はピカソのような前衛芸術家が、ルソーの中に自分たちが探していた新しい絵画の可能性を見つけていたのです。(このエピソードはオルセー美術館のサイトで確認できます。)

「女の肖像」
1932年、写真家ブラッサイが撮影した「《女性の肖像》前に立つピカソ」の有名な写真が残っています。(現在もピカソ美術館のアーカイブで確認できます。)
「5フランで買った、誰にも評価されなかった絵を、ピカソが一生大切にした」という話は、ルソーとピカソの関係を象徴するエピソードです。
ピカソと彼のアトリエ、後ろに「女の肖像」
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ただ、ここで当時の5フランとは現在の何ユーロ?という疑問が生じ、個人的に確認してみました。
当時の一般労働者の日給が約2フラン、熟練の鍛冶職人が5フランだったそうです。
一般労働者の2日半の価格です。
現在の日本なら2万円くらいの絵画と言うところでしょうか?
ピカソは1908年当時、27歳。まだ現在のような大富豪でも、世界的な巨匠でもありません。
モンマルトルのバトー・ラヴォワール(洗濯船)で、共同でかなり質素な生活をしていた時代です。
そんなピカソが、「この絵、なんだか凄い」と思って5フランを出した。
これは現在の感覚で言えば、単に「500円の掘り出し物を買った」という感じではないでしょう。
古物商の主人にとっては、価値のない二束三文の商品でした、が商品なので少し色を付けて値付けした。でも本音は「その上からまだ絵を描けるよ」というところに現れている。
でもピカソにとっては「若い画家が、生活費の中から数日分の労働賃金に相当する金額を出して、よく分からない無名画家の絵だけど、何か凄い事を感じて買った」という感じに近いのではないでしょうか?
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ルソーの逸話の中で最も有名なエピソードはピカソの宴会です。
1908年11月、モンマルトルのピカソのアトリエ、バトー・ラヴォワール(Bateau-Lavoir洗濯船)で、若い芸術家たちがルソーのために宴会を開きました。
参加者は、
ピカソ
アポリネール
ジョルジュ・ブラック
マリー・ローランサン
マックス・ジャコブ
ガートルード・スタイン
アリス・B・トクラス
フェルナンド・オリヴィエ
など、後の20世紀美術史に名前を残す人々ばかり。
(N.Y.近代美術館MoMAも、この宴会をルソーの芸術人生の頂点の一つとして紹介しています。)
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ピカソたちはルソーを宴会場の主賓席に座らせ、まるで王様のように扱いました。
主役のルソーの頭上という特等席に5フランで買った絵を飾りました。
また「Honneur à Rousseau(ルソーに栄光あれ)」という趣旨の装飾を施し、詩を朗読したり、乾杯したり、歌ったり。ルソーは完全に、「俺はパリの前衛芸術家たちから認められた大画家だ!」という気分になっていたようです。
ところが、後世の美術史研究家の間で、微妙な問題が提起されました。
若い芸術家たちが、本当にルソーを尊敬していたのか?それとも、ちょっと面白がった憂さ晴らしの宴会だったのでは?という問題です。しかし、現在の研究では、単純な「ルソーを馬鹿にした宴会」と考えるのは正確ではないとされています。彼らは本当にルソーの絵に魅力を感じていました。とMOMAのカタログに記されています。
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その宴会でルソーは、なんと自分でヴァイオリンを弾きました。
彼は音楽も好きで、自作のワルツ 《Clémence》 を演奏したと伝えられています。
64歳のルソーが、ピカソやアポリネールら若者の前で、
「では私の曲を……」と演奏する。かなり微笑ましい光景です。
そして宴会の終盤、酒が入ったルソーがピカソに向かって言ったとされる有名な言葉がこれ。
「君と私は、この時代で最も偉大な二人の画家だ。君はエジプト風、私は現代風だ。」
MoMAもこの言葉を紹介しています。
ピカソに向かってですよ!
この時点でピカソはまだ27歳ですが、すでに美術界を変え始めていたピカソと、自分を「二大巨匠」と考えていたルソー。
普通なら、「え……?」となりますよね(笑)。
この発言は、ルソーが酔っぱらって冗談を言ったというより、かなり本気だった可能性があります。
ルソーは自分の芸術に非常に強い自信を持っていました。しかも彼は自分のことを、
「リアリストの画家」
だと考えていました。自分は「素人画家」ではなく、努力によって一流の画家になったと考えていたのです。MoMAにも、ルソー自身が自分の絵についてかなり自信満々に語っていた記録が紹介されています。
「ピカソはエジプト風、俺は現代風。二人とも偉大だ」という発言も、彼にとっては冗談ではなかったのでしょう。
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彼の代表作といえば、
《夢》
《蛇使いの女》
《眠るジプシー女》
など、巨大な熱帯ジャングルを舞台にした作品。
ところがルソーは、実際に熱帯のジャングルに行ったわけではありません。
では、どうやって描いたのか?
パリの植物園や温室を見たり、絵葉書や新聞・雑誌の写真などを参考にしていました。
オランジュリー美術館も、彼が写真や絵葉書などを素材として利用し、さらにルーヴル美術館にも熱心に通っていたことを紹介しています。
つまり、
「パリにいながら想像力でジャングルを作った画家」なのです。
「戦争」
「ヘビ使いの女」
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ルソーは美術学校で本格的な訓練を受けていません。
しかし、本人は絵に対してものすごく真面目。
人物を描く際には、モデルの身体を測って、その寸法をキャンバスに移すような方法を取ったと伝えられています。
つまり、「俺は素人だから適当に描く!」ではなく、
「正確な絵を描くために、まず測る!」
というタイプ。
ところが、その結果できあがる人物は……
足の大きさがおかしかったり、遠近法がおかしかったりする(笑)。
本人は大真面目なのに、結果として独特の「ルソー世界」が生まれたわけです。
ルソーについては、後世に「純真で何も知らない、ちょっと間抜けな老人」というイメージがかなり作られました。
しかし実際には、彼はそんなに単純ではありません。
自分を「Douanier Rousseau」というブランドに仕立て、自分の作品を売り込み、自分の芸術をかなり強く信じていた。
つまり、
「天然の素人画家」ではなく、「天然に見えることまで含めて、自分自身を演出していた、かなりしたたかな男」だった可能性があります。
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1910年に肺炎のため死去。享年66歳。
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ルソーの代表作「戦争」「ヘビ使いの女」はオルセー美術館で鑑賞することが出来ます。
しかし、ルノワールなどが展示されている5階でも、ミレーが展示されている0階でもありません。
入口入って、一番奥、左手の階段を登った3階、4階のアールヌーボー作品の机、いす、タンスやランプなどと一緒に展示されています。とても分かり難い展示場にあります。しかし、逆に静かに独占的に鑑賞できます。(移動する事も有ります)
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<追記>
1792年9月2日―「九月虐殺」が始まる。フランスの革命史における非常に暗い日です。
1937年9月2日没―ピエール・ド・クベルタン(Pierre de Coubertin)1863年1月1日生、近代五輪の創設者
2005年9月2日没―朝吹 登水子1917年2月27日生、仏文学翻訳者、サガン、ボーヴォワールの翻訳など。

























