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mkparisのフランス歳時記、日々のフランス、フランス人

フランス・パリからフランスやパリに関するトピックをお届けします。
日記形式で、可能な限り日々綴っていきたいと思います。お休みしたらごめんなさい。

9月2日 へたうま「税官吏」ルソーの命日

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アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー(Henri Julien Félix Rousseau)

1844年5月21日生まれ - 1910年9月2日没

19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの素朴派の画家。伝統的な美術教育を受けず独学で絵を描いたため、下手な画家と揶揄されることがあるが、色彩感覚や繊細な表現に優れ、独特の幻想的な雰囲気やユニークな視点、および伝統的技法とは異なる独自の芸術表現などが評価されている。
 

 

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まず有名な「税関吏ルソー」という呼び名。税関で働いていたアマチュア芸術家というのが一般的です。でも実際のルソーは、厳密には税関職員(douanier)ではありません。

彼が勤めていたのはパリ市のoctroi(オクトロワ)という、パリ市内に商品を持ち込む際の通行税を徴収する部署でした。国の税関職員というより、「入市税を徴収する係」に近い仕事です。

ところが本人は「Douanier Rousseau」という呼び名を気に入り、芸術家としてもその名前が定着してしまいました。

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当初、一般市民や批評家には、ルソーの作品は理解されませんでした。理解したのは一部の芸術家でした。その中の一人がピカソ。

1900年代初め、ピカソがモンマルトルのRue des Martyrsにあった「ペール・スリエ(Père Soulié)」という古物商の店でルソーの《女性の肖像》を見つけました。

価格はなんと、5フランだったとされています。

店主は、「このキャンバス、まだ上から絵を描くのに使えるよ」くらいの扱いだったとも伝えられています。

ところがピカソはこの絵を購入。後にこの作品に強い魅力を感じるようになります。

当初、理解されなかったルソーですが、実はピカソのような前衛芸術家が、ルソーの中に自分たちが探していた新しい絵画の可能性を見つけていたのです。(このエピソードはオルセー美術館のサイトで確認できます。)


「女の肖像」

 

 

1932年、写真家ブラッサイが撮影した「《女性の肖像》前に立つピカソ」の有名な写真が残っています。(現在もピカソ美術館のアーカイブで確認できます。)

「5フランで買った、誰にも評価されなかった絵を、ピカソが一生大切にした」という話は、ルソーとピカソの関係を象徴するエピソードです。

 

ピカソと彼のアトリエ、後ろに「女の肖像」

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ただ、ここで当時の5フランとは現在の何ユーロ?という疑問が生じ、個人的に確認してみました。
当時の一般労働者の日給が約2フラン、熟練の鍛冶職人が5フランだったそうです。
一般労働者の2日半の価格です。

現在の日本なら2万円くらいの絵画と言うところでしょうか?

ピカソは1908年当時、27歳。まだ現在のような大富豪でも、世界的な巨匠でもありません。

 

モンマルトルのバトー・ラヴォワール(洗濯船)で、共同でかなり質素な生活をしていた時代です。

そんなピカソが、「この絵、なんだか凄い」と思って5フランを出した。

これは現在の感覚で言えば、単に「500円の掘り出し物を買った」という感じではないでしょう。

古物商の主人にとっては、価値のない二束三文の商品でした、が商品なので少し色を付けて値付けした。でも本音は「その上からまだ絵を描けるよ」というところに現れている。
でもピカソにとっては「若い画家が、生活費の中から数日分の労働賃金に相当する金額を出して、よく分からない無名画家の絵だけど、何か凄い事を感じて買った」という感じに近いのではないでしょうか?

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ルソーの逸話の中で最も有名なエピソードはピカソの宴会です。

1908年11月、モンマルトルのピカソのアトリエ、バトー・ラヴォワール(Bateau-Lavoir洗濯船)で、若い芸術家たちがルソーのために宴会を開きました。

参加者は、

ピカソ

アポリネール

ジョルジュ・ブラック

マリー・ローランサン

マックス・ジャコブ

ガートルード・スタイン

アリス・B・トクラス

フェルナンド・オリヴィエ

など、後の20世紀美術史に名前を残す人々ばかり。

(N.Y.近代美術館MoMAも、この宴会をルソーの芸術人生の頂点の一つとして紹介しています。)

 

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ピカソたちはルソーを宴会場の主賓席に座らせ、まるで王様のように扱いました。
主役のルソーの頭上という特等席に5フランで買った絵を飾りました。

また「Honneur à Rousseau(ルソーに栄光あれ)」という趣旨の装飾を施し、詩を朗読したり、乾杯したり、歌ったり。ルソーは完全に、「俺はパリの前衛芸術家たちから認められた大画家だ!」という気分になっていたようです。

ところが、後世の美術史研究家の間で、微妙な問題が提起されました。

若い芸術家たちが、本当にルソーを尊敬していたのか?それとも、ちょっと面白がった憂さ晴らしの宴会だったのでは?という問題です。しかし、現在の研究では、単純な「ルソーを馬鹿にした宴会」と考えるのは正確ではないとされています。彼らは本当にルソーの絵に魅力を感じていました。とMOMAのカタログに記されています。

 

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その宴会でルソーは、なんと自分でヴァイオリンを弾きました。

彼は音楽も好きで、自作のワルツ 《Clémence》 を演奏したと伝えられています。

64歳のルソーが、ピカソやアポリネールら若者の前で、

「では私の曲を……」と演奏する。かなり微笑ましい光景です。

そして宴会の終盤、酒が入ったルソーがピカソに向かって言ったとされる有名な言葉がこれ。

「君と私は、この時代で最も偉大な二人の画家だ。君はエジプト風、私は現代風だ。」

 

MoMAもこの言葉を紹介しています。

ピカソに向かってですよ!

この時点でピカソはまだ27歳ですが、すでに美術界を変え始めていたピカソと、自分を「二大巨匠」と考えていたルソー。

普通なら、「え……?」となりますよね(笑)。

この発言は、ルソーが酔っぱらって冗談を言ったというより、かなり本気だった可能性があります。

ルソーは自分の芸術に非常に強い自信を持っていました。しかも彼は自分のことを、

「リアリストの画家」

だと考えていました。自分は「素人画家」ではなく、努力によって一流の画家になったと考えていたのです。MoMAにも、ルソー自身が自分の絵についてかなり自信満々に語っていた記録が紹介されています。

「ピカソはエジプト風、俺は現代風。二人とも偉大だ」という発言も、彼にとっては冗談ではなかったのでしょう。




「自画像」

 

 

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彼の代表作といえば、

《夢》

《蛇使いの女》

《眠るジプシー女》

など、巨大な熱帯ジャングルを舞台にした作品。

ところがルソーは、実際に熱帯のジャングルに行ったわけではありません。

では、どうやって描いたのか?

パリの植物園や温室を見たり、絵葉書や新聞・雑誌の写真などを参考にしていました。

オランジュリー美術館も、彼が写真や絵葉書などを素材として利用し、さらにルーヴル美術館にも熱心に通っていたことを紹介しています。

つまり、

「パリにいながら想像力でジャングルを作った画家」なのです。

 

「戦争」

 

「ヘビ使いの女」

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ルソーは美術学校で本格的な訓練を受けていません。

しかし、本人は絵に対してものすごく真面目。

人物を描く際には、モデルの身体を測って、その寸法をキャンバスに移すような方法を取ったと伝えられています。

つまり、「俺は素人だから適当に描く!」ではなく、

「正確な絵を描くために、まず測る!」

というタイプ。

ところが、その結果できあがる人物は……

足の大きさがおかしかったり、遠近法がおかしかったりする(笑)。

本人は大真面目なのに、結果として独特の「ルソー世界」が生まれたわけです。

 

 

 

ルソーについては、後世に「純真で何も知らない、ちょっと間抜けな老人」というイメージがかなり作られました。

しかし実際には、彼はそんなに単純ではありません。

自分を「Douanier Rousseau」というブランドに仕立て、自分の作品を売り込み、自分の芸術をかなり強く信じていた。

つまり、

「天然の素人画家」ではなく、「天然に見えることまで含めて、自分自身を演出していた、かなりしたたかな男」だった可能性があります。

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1910年に肺炎のため死去。享年66歳。

 

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ルソーの代表作「戦争」「ヘビ使いの女」はオルセー美術館で鑑賞することが出来ます。
しかし、ルノワールなどが展示されている5階でも、ミレーが展示されている0階でもありません。
入口入って、一番奥、左手の階段を登った3階、4階のアールヌーボー作品の机、いす、タンスやランプなどと一緒に展示されています。とても分かり難い展示場にあります。しかし、逆に静かに独占的に鑑賞できます。(移動する事も有ります)
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<追記>

1792年9月2日―「九月虐殺」が始まる。フランスの革命史における非常に暗い日です。

 

1937年9月2日没―ピエール・ド・クベルタン(Pierre de Coubertin)1863年1月1日生、近代五輪の創設者

 

2005年9月2日没―朝吹 登水子1917年2月27日生、仏文学翻訳者、サガン、ボーヴォワールの翻訳など。



 

9月1日、印象派の巨匠・ドガの誕生日


エドガー・ドガ、フランスの印象派の画家、彫刻家。

イレール・ジェルマン・エドガー・ド・ガ(Hilaire Germain Edgar de Gas)

1834年7月19日 - 1917年9月27日




通常、ドガと表記されるが、正確にはド・ガ(de Gas)。私がモンマルトル墓地で彼の墓を探していたところ、なかなか見つかりませんでした。見つけた時の墓標には「Famille de Gas」と書かれていて、仏語では最後のsは発音しないので「ガ」家だと分かった時は、小さな衝撃でした。

フランスのパリに銀行家の息子として生まれた。家は比較的裕福であった。
 

「アブサン」

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ドガは通常印象派の画家の一員とみなされている。確かにドガは1874年第1回印象派展以来、全8回の印象派展のうち、第7回展以外のすべてに参加している。

現在は当然のように「印象派の巨匠ドガ」と呼ばれます。

ところが本人は、印象派という括りをかなり嫌っていました。

ドガは屋外で光を追いかけるモネやルノワールとは違い、都市生活、室内、人工照明、人物の動きを研究していました。

彼自身はむしろ自分を「レアリスト(現実主義者)」と考えていたのです。実際、印象派展には7回参加したものの、晩年には印象派と距離を置いている事を強調していました。

彼はかなり毒舌だったことも知られています。

自然の中にイーゼルを立てて風景を描く画家を好みませんでした。

「もし私が政府だったら、自然を見ながら風景を描く連中を監視する特別警察隊(une brigade de gendarmerie)を置く」という趣旨の発言をしたと伝えられています。この発言は、オルセー美術館のサイトで確認できます。

つまり、

「印象派=戸外で光を見ながら描く」という当時の流行に対して、「そんなものより、ちゃんと構図を考えて描け!」というタイプだったわけです。

 

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そして、こんな毒舌も。

モネの《睡蓮》を見て、「池を見て気を失う必要は感じない」と言ったと伝えられています。

さらにモネ本人に、「あなたの絵を見ていたら目が回った」という趣旨のことまで言ったとか。

かなり嫌味な人間だった(笑)。

 

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ドガといえばバレリーナですが、若い頃からもう一つの大好物がありました。

競馬・馬です。

1860年代には、ダンサーを本格的に描く以前から馬を描いていました。後にはダンサーと馬が、彼の「動き」の研究を代表する二大テーマになります。

ドガにとって、 馬の走る動き + バレリーナの身体の動きは、実は同じ問題だったのです。

「人間や動物が、瞬間的にどういう姿勢を取るのか?」これを徹底的に研究しました。

だからドガのバレリーナは、単に「美しい女性」を描いているのではなく、「身体の動きの研究」

なのです。

 

 

「ロンシャンの競馬」

 

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普通バレリーナを描くなら、舞台の上で華麗に踊っている瞬間を描きます。ところがドガは、

足を揉んでいる

髪を直している

あくびをしている

待っている

疲れて座っている

ストレッチしている

背中をかいている

という瞬間を大量に描きました。

彼が興味を持っていたのは「美しいバレリーナ」ではなく、

「踊るために準備し、身体を酷使し、身体を休めている人間」だったのです。

ドガはオペラ座の舞台・客席だけでなく、稽古場、廊下、楽屋、舞台裏まで入り込んで観察し、

40年近くにわたってダンサーを描き続け、ダンサーを題材にした作品は約1,500点に及びます。

米国・ナショナルギャラリーのサイトでも、ドガが舞台上だけでなく、舞台裏、稽古場、休憩中などのダンサーを観察していたことを指摘しています。

 

「待つ」

 

 

 

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1881年、彼は《14歳の小さな踊り子》像を発表します。

これは彼が生前発表した唯一の像です。

現代人が見ると、「かわいいバレリーナの彫刻」です。

当時は大スキャンダルでした。

「なんだ、この不気味な少女は!」という反応がかなりありました。

理由は、

本物の髪

本物のチュチュ

本物の靴

蝋で作った身体

だったから。

しかも少女を理想化せず、かなり写実的に、

細い脚

少し前に出た顎

丸い顔

子供っぽい身体

をそのまま表現しました。

当時の批評家には「醜い」とまで評されたのです。

つまりドガは、「美しいバレリーナを作ろう」ではなく、「14歳の貧しい少女が、本当にこういう身体をしている」と表現した。

現代美術的には非常に革新的ですが、1881年の観客にはショッキングでした。

オリジナルは米国・ナショナルギャラリー所蔵ですが、レプリカのブロンズ像はオルセー5階に展示されています。

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《14歳の小さな踊り子》像の作り方も普通の彫刻家とは違いました。

上記でも指摘しましたが、蝋の中に、

ロープ

古い絵筆

などを使って骨格を作り、その上から蝋を盛っていきました。さらに本物の人間の髪まで付けた。

現在なら「ミクストメディア」と言えますが、当時としてはかなり異常な発想でした。

(*ミクストメディアとは、性質や種類の異なる複数の素材を用いる技法)

 

 

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ドガは写真を非常に研究しました。

写真には、「一瞬を切り取る」という、それまでの絵画にはなかった可能性があります。

だからドガの絵には、

「人物の頭や足が途中で切れている」

「人物が画面の端に寄っている」

「まるで偶然撮影した写真のような構図」

が頻繁に出てきます。

 

ドガの絵をよく見ると、

「なんでこんな変なところで人物を切るんだ?」という構図があります。

これは日本の浮世絵と共通する特徴。

例えば、

人物を画面の端で大胆に切る

中心をわざと外す

上から・斜めから見る

一瞬を切り取る

という発想。これは後の近代絵画にものすごく大きな影響を与えます。

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実際、ナショナルギャラリーもドガが写真や日本の浮世絵から、予想外の視点や大胆なトリミングを取り入れたことを指摘しています。

 

 

「マネ夫妻」 構図切れの例

 

 

ドガは非常に頭がよく、観察力も鋭かった一方、人間関係ではかなり難しい人物でした。

特に年齢を重ねるにつれ、皮肉屋・人嫌いになっていきます。

友人だった画家たちとも衝突。

そして有名なのが、「ドガと付き合うと、いつか必ず喧嘩する」というような評判。

印象派の仲間たちが「みんなで仲良く新しい芸術を作ろう」という雰囲気なのに対し、「いや、それは違う」と横から文句を言うタイプだったそうです。

 

 

そこに1890年代のフランスを二分したドレフュス事件が起きます。
(*フランス陸軍大尉でユダヤ人のドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件)

ドガは反ドレフュス派の立場を取り、ユダヤ人に対する偏見も持っていました。

そのため、ドレフュスを支持する友人たちとは関係が悪化。

特に、カミーユ・ピサロなどとの関係にも亀裂が入ります。

芸術家同士の友情よりも自分の政治的・社会的信念を優先したわけです。

これは現在の評価では、ドガの人物像のかなり暗い部分として扱われています。

 

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ドガは晩年、視力が大幅に悪化しました。

特に色を見る能力が落ち、油彩を続けることが難しくなっていきます。

しかし、そこで終わらない。彼はパステルや彫刻、素描などに活動を移していきます。

そして晩年の作品は、むしろ大胆で抽象的になっていきます。

つまり、

目が悪くなった

普通の油絵が難しい

パステル・素描へ

線と動きがさらに重要になる

という変化です。

 

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晩年は貧困にあえぎ、数年間ほとんど失明状態にあったドガは、1917年9月27日、18区クリシー大通り6番地の自宅で、脳動脈瘤のため83歳で亡くなった。
墓はモンマルトル墓地の家族墓。

 

 

 

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<追記>
1715年9月1日  太陽王ルイ14世が死去。息子や孫より長生きし、72年間王位に就く。

 

1870年9月1日  セダンの戦い。普仏戦争で、ナポレオン3世率いるフランス軍がドイツ軍に大敗。ナポレオン3世自身がドイツ軍に降伏し、捕虜となりました。9月4日、パリで帝政が崩壊し、第三共和政が成立。

1997年8月31日,世界を驚愕させる出来事が起きました。

英国のダイアナ元妃がパリで事故死しました。

 

本日のエピソード紹介は、少し週刊誌的な記述になりますこと、予めお許しください。

記述は事故前後を時間を追って、日本ではあまり報道されなかった写真なども紹介しましょう。

 

 

 

事故時に車に乗っていたのは、ダイアナ元妃の他、エジプトの大富豪の息子であるドディ・アルファイド、運転手アンリ・ポール、ボディーガードのトレヴァー・リース・ジョーンズ。

 

「ドディが気まぐれを起こさなければ、ダイアナ妃は死ななかった」ダイアナ妃の死の真相とは?|Culture|madameFIGARO.jp(フィガロジャポン)

ダイアナ妃の頭越しに見えるドディ・アルファイド

 

 

 

 

8月30日

15時20分        ダイアナとアルファイドはサルデーニャ島からプライベート・ジェットで パリ・ブルジェ空港に到着。

         二人は婚約指輪を購入するために来パリ。

         ヴァンドーム広場にある有名宝石店を訪れる予定だった。

         その後、ホテル・リッツに到着。ホテル・リッツは当時アルファイド家の所有でした。


ホテル・リッツのエレベーター映像。97年8月30日、16時35分10秒

 

 

17時             二人はヌイイ=シュル=セーヌのアルファイド家が所有する邸宅に滞在する。

 

18時             ドディはついにヴァンドーム広場へ行き、120万ユーロ相当の指輪を受け取ることにする。

 

19時             ダイアナ妃はシャンゼリゼ通りで買い物をしようとするが、ここでもまたパパラッチが至る所にいたので、

     諦め、二人はリッツホテルに戻る。

 

21時50分    ホテル内、インペリアル・スイート内のラウンジで最後の夕食。

                   ダイアナは、前菜はアスパラガス、主菜は舌平目。アルファイドはキノコと玉子の前菜、続いてヒラメ。

     シャンパンはボランジェ。

 

23:30頃        食事後、滞在はホテルでなく、アルファイドの邸宅に戻ることにする。

                    表玄関には多くのパパラッチがいたので、表の車を囮として先に出す計画を立てる

     その後、裏口からリッツの副警備責任者のアンリ・ポールを運転手が務めて、脱出する計画。

     車は黒いMercedes-Benz S280。

 

 

日付が変わり8月31日

 

00時15分頃      リッツの裏口、Rue Cambon(カンボン通り)。ダイアナとドディがホテルから出てきます。

         ホテルの監視カメラには、この直前の二人の姿も残っています。

 

00時20分頃      前席にはドディのボディーガード、トレバー・リース=ジョーンズ、

後部座席に、ドディ・アルファイドとダイアナが座ります。

Mercedes S280が発進。

カンボン通りを出て、

コンコルド広場 → セーヌ川右岸 → アルマ橋方面へ向かいます。

しかし、おとり作戦は完全には成功しませんでした。

パパラッチの一部が本物のMercedesを見つけます。
      (裏口から出るところを既に写真に撮られています)

 

Photo : Diana Spencer au Ritz à Paris en 1997. - Purepeople

裏口から出るダイアナ

 

 

 

オートバイで追跡開始。

 

00時23分        Mercedesはアルマ橋の地下道に入ります。そして、13番目のコンクリート柱に激突。

      衝突時の速度は約100km/h前後と推定されました。制限速度は50km/hでした。

 

 


13番目のコンクリート柱




Il y a 25 ans, la mort de la princesse | Lady Di, le grand mythe

 

Тайна гибели принцессы Дианы: самые странные версии - Газета.Ru

 

 

 

 

00時26分頃      最初の緊急通報が記録されています。

         警察、消防、SAMUが次々と現場に到着。

 

 

00時30分~01時  パリの消防隊が車体を切断し始めます。

        車はあまりにも激しく潰れていて、ダイアナをすぐに引き出すことはできませんでした。

        ようやくダイアナが車外へ出されますが、心停止してしまいます。救急隊が

        心肺蘇生を開始します。心拍が戻ります。

 

01時18分        ダイアナはSAMUの救急車に移されます。

      普通なら「一刻も早く病院へ!」と思うが、救急車はすぐには出発しません。

 

01時18分~01時41分

      なぜ23分も現場にいたのか?

      ダイアナを救急車に乗せた後も、約23分間、現場で治療が続けられます。担当したのは、

      ジャン=マルク・マルティノ医師です。

      しかし、フランスの救急医療は当時、「病院へ急いで運ぶ」より、現場で患者を

      安定化させてから搬送するという方式を重視していました。(SAMU方式です。)

 

01時41分        救急車がアルマ橋を出発します。

      目的地は、Hôpital de la Pitié-Salpêtrière(ピティエ=サルペトリエール病院。)距離は約6km。

 

01時41分~02時06分

      救急車は、高速で病院へ向かいません。

      マルティノ医師は、ダイアナの血圧や胸部損傷を考慮して、急加速・急減速を

      避けるよう指示しました。救急車は非常に慎重に走ります。

      さらに途中、オステルリッツ駅付近で一度、救急車を停止。

      ダイアナの血圧が低下したためです。そして処置を行った後、再び病院へ向かいます。

 

02時06分        1時間43分後。ダイアナを乗せた救急車が病院に到着します。

 

 

 

**** ここから医師たちの壮絶な救命作業が始まります ***

 

02時10分頃      医師が胸を開く。検査によって、ダイアナには極めて深刻な胸部内傷があることが判明。

                             心臓そのものが大きく右側へ移動するほどの強い衝撃を受け、 左肺静脈が裂けていたことが確認されます。

        外から見える傷以上に、内部が壊滅的だったのです。

        医師たちは胸部を開き、開胸心臓マッサージまで行います。

        それでも心臓を正常に戻すことはできませんでした。

 

04時25分        ダイアナ・スペンサー、プリンセス・オブ・ウェールズの死亡が確認されます。

 

05時台             病院側が死亡を公式に発表するための準備をします。

 

6時                病院でブルーノ・リウー医師らによる記者会見が行われ、世界中にニュースが伝わります。

 

      英国では夜明け前。ロンドンのケンジントン宮殿の前には、ニュースを聞いた人々が集まり始めます。

      そして数時間後、世界中の新聞の一面がダイアナの顔になる。

 

14時過ぎ         チャールズ皇太子(当時)とダイアナの2姉妹が病院に到着、死亡確認。


病院に入るチャールズ皇太子

 

病院から出るダイアナの柩
 

 

調査報告は、途中でシテ島のHôtel-Dieu病院を通過したことを明記しています。Hôtel-Dieuの方が近かったものの、

多発外傷に必要な心臓外科・脳外科などの体制が十分でなかったため、より設備の整ったピティエ=サルペトリエールへ

向かいました。

事故車に乗っていた4名のうち、運転手のアンリ・ポール、アルファイド、ダイアナの3名はシートベルトをしていませんでした。助手席のボディーガード・ジョーンズだけはシートベルトをしていて助かりました。彼はイングランド中西部で家族と衣料品店を経営し、静かな生活を送っている。

 

ダイアナ元妃の交際相手だったドディ・アルファイド氏の父親モハメド・アルファイド(Mohammed Al Fayed)氏。

パリの交通事故は単なる事故ではなく、英国の諜報機関がもみ消しを行っていると信じ続けていた。エジプト人であり、

高級百貨店ハロッズ(Harrods)のオーナーでもあるモハメド氏は、元妃とイスラム教徒との結婚を王室が容認できなかった

ため、2人は殺されたと主張していたが、王室やMI6の関与は否定されている。


事故の原因は、運転手ポールの飲酒と薬物摂取と言う報道もあった。

実際にポールの血中アルコールは3回の検査で、1.74,1.75m、1.87g/Lでいずれも当時のフランスの運転基準(0.5 g/L)の3倍を超えていました。

リッツのバーの記録から、ポールはホテルに戻った22時過ぎにRicard(リカール)を2杯飲んだことが確認されています。

ただし、専門家の計算では、22時過ぎの2杯だけでは、死亡時に検出された約1.74 g/Lという濃度にはならないそうです。

Operation Pagetの報告では、19時~22時の間にも酒を飲んでいた可能性が高く、仮にリカールを飲んでいたとすると、追加で

4~6杯程度だった可能性を専門家が推定しています。ただし、これはあくまで計算上の推定で、正確な杯数は分かりません。
また検出された薬物も、検出されたのは主に、フルオキセチン(Fluoxetine・抗うつ薬)、チアプリド(Tiapride・アルコール

依存などの治療にも使用される薬)で、少なくとも確認された薬物は、処方されていた医薬品です。違法ドラッグは検出

されませんでした。
最終的にOperation Pagetの報告書では、アンリ・ポールの重大な過失運転と、追跡していたパパラッチの重大な過失と

結論付けています。

(Operation Pagetとは英国警察が行った事故原因の再捜査の作戦名)
 

 

ダイアナの最後の言葉は、最も広く報じられているのは、事故現場に最初に駆けつけたパリ消防隊員 グザヴィエ・グルムロン(Xavier Gourmelon) の証言です。

彼によれば、ダイアナは車内でまだ意識があり、彼が手を握って助けようとした際、英語で、“Oh my God, what’s happened?”と言ったとされています。グルムロンは、ダイアナがこの言葉を発した後、彼女を安心させようとして手を握った、と2017年のインタビューで証言しました。ただし、「これが絶対に最後の言葉」とは断定できません。実は1997年当時の報道には別の証言があります。

事故直後に現場にいた人物の証言として、ダイアナが、“Leave me alone. Leave me alone.”「放っておいて。放っておいて。」と繰り返したという報道もありました。

 

 

 

事故現場の地下道の上、アルマ広場の上にある金色の炎「Flamme de la Liberté」があります。

1989年、フランスの英字新聞社インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙が、ニューヨークの自由の女神像修復作業の「フランスへの返礼」として設置したものです。

ところが1997年以降、「ダイアナの事故現場の上にある炎」として知られるようになりました。

人々が花や写真、メッセージを置くようになり、いつしか事実上のダイアナ記念碑になりました。

 

 

現在はその周辺を「ダイアナ広場」と改名されています。


ケンジントン・パレス前の花束

 


9月6日のロンドンでの葬式

 

同、ロンドンでの葬式





ダイアナ元妃のお墓は、イギリス・ノーサンプトンシャー州折るソープ(Althorp)にあるスペンサー家邸宅の敷地内、

その敷地内のThe Oval(オーヴァル)という湖の小島に埋葬されています。
一般人は近づけません。

その代わり、湖畔には誰でも訪れることができるDiana Memorialが設けられています。

現在、オルソープを訪れる人は湖を眺めながら、ダイアナの墓がある島を見ることができます。
享年36歳。
 

 


 

 

 

 

Operation Pagetの最終報告書は全871ページあり、公開されています。
興味のある方は以下のリンクからどうぞ。

https://downloads.bbc.co.uk/news/nol/shared/bsp/hi/pdfs/14_12_06_diana_report.pdf?utm_source=chatgpt.com 

 


 

<追記>

8月31日 ルイ・アントワーヌ・ド・ブーゲンヴィル(仏の探検家)の誕生日(1729-1811)花のブーゲンヴィリアは彼由来。

       シャルル・ボドレールの命日(1821-1867)代表著作「悪の華」

       ジョルジュ・ブラックの命日(1882-1963) ピカソと共にキュビスムの創始者