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mkparisのフランス歳時記、日々のフランス、フランス人

フランス・パリからフランスやパリに関するトピックをお届けします。
日記形式で、可能な限り日々綴っていきたいと思います。お休みしたらごめんなさい。

8月30日、スキーの王者・キリーの誕生日です。

 

ジャン=クロード・キリー(Jean-Claude Killy, 1943年8月30日 - )は、フランス出身で1960年代後半に活躍した元アルペンスキー選手。

1968年自国グルノーブルオリンピックにおいて出場した3種目すべてで優勝し、アルペンスキー世界選手権では6個の金メダルを獲得、さらにアルペンスキー・ワールドカップでは1967年・1968年の2シーズン連続で総合優勝を果たすなど圧倒的な強さを誇り、“王者キリー”(King Killy) の異名を取った。(Wikipediaより)

 

Jean-Claude Killy

超イケメンのジャンクロード・キリー

 

いくつか彼のエピソードをご紹介


キリー家はもともとアイルランド系で、姓は Kelly だったとされています。

祖先には、なんとナポレオンの軍隊に参加したアイルランド人傭兵がいたとTIME誌は紹介しています。

3歳のときに一家でパリからアルプスのヴァル=ディゼールへ移住しました。

そして子供の頃は、「スキー板を学校まで持って行き、昼休みになると外へ出てスキーをした」と本人が語っています。つまり「放課後にスキー」ではなく、昼休みもスキーの時間。王者になるべくしてなったようです。

 

 

1968年の五輪三冠という英雄ぶりだけを見ると、最初から超人だったように思えます。

ところが、その4年前の1964年インスブルック大会では散々でした。

滑降ではスタート直後に転倒

回転ではビンディングが外れる

大回転では優勝候補だったのに5位

しかも体調も悪く、以前からの病気の影響を抱えていました。

つまり、

1964年 → オリンピックで惨敗

1966~67年 → 世界トップへ

1968年 → 3冠

という猛烈な復活劇なのです。

 

 

 

 

また1968年グルノーブル五輪の滑降では、キリーは本番用のスキー板を準備していたのですが、練習のときに間違ったスキー板を持って行ってしまった。

そして本番直前、「この板、ワックスがかかってない!」と判明。

普通なら大騒ぎです。ところがキリーは、「まあ、なんとかなる」という感じで、そのままスタート。しかも当日のコースは荒れていて、決して滑りやすい状態ではありませんでした。

それでも猛烈なスピードで滑り、フランスの同僚ギー・ペリヤをわずか0.08秒差で破って金メダル。これはキリーの性格をよく表していて、「条件が悪い? じゃあ速く滑ればいい」というような精神力だったようです。

 

五輪三冠の1968年のキリーは24歳。

当時の新聞や雑誌は彼を、「スキー界のジェームズ・ディーン」と盛んに呼びました。

整った顔立ち、細身の体、無口でクールな雰囲気。しかもスキーでは圧倒的に速い。

現在なら完全にスポーツ選手+映画スター+ファッションアイコンです。

当時のフランスはもちろん、女性だけでなく男性にも人気があったと報じられています。

でも「ジェームズ・ディーン」と呼ばれた格好いい男なのですが、仲間たちから呼ばれていたニックネームは、「Toutoune(トゥトゥヌ/可愛いワンちゃん)」でした。

 

Jean-Claude Killy Skiing in Giant Slalom Print

 

1968年2月17日のグルノーブル五輪の回転。

濃霧の中で競技が行われました。

オーストリアのカール・シュランツが非常に速いタイムを出し、一度は金メダルを獲得。

ところがシュランツは途中で、コースを横切った人に邪魔されたと主張。審判はそれを認め、もう一度滑ることを許可しました。そしてシュランツは再滑走でもトップタイム。

「これでシュランツの金メダルだ」となったのですが……

その後、審判が最初の滑走を再検討。

なんと、「最初の滑走ですでに2つの旗門を通過していなかった」ことが判明。

シュランツは失格。結果として、キリーが金メダル!となりました。

つまりキリーの3個目の金は、競技終了後の審判室で大どんでん返しが起きて銀から金に繰り上げとなったという、ものすごくドラマチックな金メダルなのです。

 

普通なら、「オリンピック3冠! → これからさらに世界記録!」

となるところ。キリーはなんと、グルノーブル五輪からわずか1か月後、24歳でアルペンスキーを引退。その後はレーシングカーに転向し、ル・マン24時間レースにも挑戦します。

「史上最高のスキーヤーになったのだから、もうスキーはいい」という感じだったのでしょうか。

実は「スキーより競争が好き」だった。本人の言葉で面白いのがこれです。

キリーは、1968年の五輪前に、「競争がなければ、私はスキーに興味を持たない」という趣旨の発言をしています。

つまり、スキーが好きなのではなく、「競争すること」が好きだった。

だからスキーを引退した後も、モータースポーツ、経営、オリンピック組織など、次々と「勝負の場」を求めていった、と考えると非常にキリーらしいです。

 

 

Palmares de Jean-Claude Killy aux 24H du Mans

ル・マンのキリー

 

 

選手を引退した後、彼は、役員として

アルベールヴィル1992冬季五輪組織委員会

国際オリンピック委員会(IOC)

トリノ2006冬季五輪

ソチ2014冬季五輪

などに関わりました。

つまり、「スキーを滑る人」→「オリンピックを作る人」になったわけです。

特に1992年のアルベールヴィル五輪は、彼の故郷サヴォワ地方で開催されたので、キリーにとって非常に重要な仕事でした。

 

 

 

 

グルノーブルで滑降・大回転・回転の3種目を制覇すると、24歳のキリーは一夜にして世界的スターになりました。特に女性からの人気はすさまじく、本人も後年「自分の人生がこんなことになるとは思わなかった」という趣旨の回想をしています。

フィギュアスケートのスターだったペギー・フレミングは後年、

「ジャン=クロードはとてもロマンチックな男だった。それにフランス人だった。女の子はみんな彼を夢見ていた」という趣旨の発言をしています。

金髪、彫りの深い顔、細身、フランス人、若い、オリンピック3冠。

そのためアメリカでは、キリーは「スキー界のジェームズ・ディーン」のような存在になったのです。

 

ここからが映画みたいです。

キリーが出会った女性が、ダニエル・ゴーベール(Danièle Gaubert)というフランスの女優。

ゴーベールは1943年生まれ。15歳頃からモデル・女優として活動し、1960年代には国際映画にも出演していた、当時のフランスの美人スターです。

 

Danièle GAUBERT : Biography and movies

ダニエル・ゴーベール(Danièle Gaubert)

 

 

しかも彼女の前夫が普通の人ではありません。ラファエル・トルヒーヨ(Rhadamés Trujillo)。

ドミニカ共和国の独裁者ラファエル・トルヒーヨの息子です。

フランスのスキー王 × 女優 ( 独裁者の息子の元妻)という、かなり濃い人間関係です。

二人が出会ったとされるのは、1968年12月24日です。

ゴーベールが休暇で来ていたところ、キリーの両親が経営していたスキー宿「La Bergerie」のロビーで出会ったとする記録があります。そして二人は急速に親密になります。面白いのは、ダニエルはスキーができなかったこと。「スキー王」と「女優」という、一見まったく違う世界の二人でした。

 

 

そしてキリーが主演した映画が、『Snow Job(白銀の冒険)』(1972年)です。

キリーが演じるのはスキーインストラクター。ところが、なんとヒロイン役がダニエル。

つまり、現実の恋人を映画のヒロインにしてしまった。しかも映画の内容は、スキー場を舞台にした犯罪・強盗もの。

キリー本人は後年、この映画について、「演技よりも、イタリアの氷河で撮ったスキーシーンのほうが評価された」という趣旨のことを笑いながら話しています。

白銀の冒険 映画パンフレット ジョージ・イングランド シャン・クロードキリー ダニエル・ゴベール
 

 

映画『Snow Job(白銀の冒険)』の撮影を通じて二人の関係はさらに深まり、1972~73年頃に結婚。

資料によって結婚年の表記に若干の違いがありますが、1973年にフランスの小さな村で秘密裏に結婚したという記録があります。キリーはダニエルの前夫との子供2人も引き取り、二人の間には娘エミリーが生まれました。そしてダニエルは女優業をほぼ完全に辞めます。

つまり、

「世界的スターになったキリー」+「美人女優だったダニエル」→アルプスで家庭生活

という、まさに1960~70年代の映画のようなカップルでした。

 

しかし、ダニエルは、1987年11月、44歳で癌のため亡くなります。

キリーにとって非常に大きなショックでした。

特に興味深いのは、キリーがその後、アルベールヴィル冬季五輪の仕事に戻っていったことです。

1987年に妻を亡くした直後、彼は人生の大きな転機を迎えます。

そして1992年、アルベールヴィル冬季五輪を成功させることになります。

『ル・モンド』は、妻を亡くした後のキリーについて、その悲しみを非常に尊厳をもって乗り越えたことを紹介しています。

 

 

キリーは単にハリウッドスターとも交際していました。「パーティーで会った」というレベルではありません。

本人が後年、「クリント・イーストウッドとは何度も一緒にスキーをした」と語っています。

場所はアメリカの有名なスキーリゾート、サンバレー(Sun Valley)。

イーストウッドはキリーを、「Champ」と呼んでいたそうです。

しかもイーストウッドが『荒野の用心棒』などで世界的スターになっていた時期です。

 

キリーが特に好きだった俳優が、ジャン=ポール・ベルモンド。

ベルモンドもヴァル=ディゼールに休暇に来ていました。

二人は親しくなり、キリーはなんと、ベルモンドの息子ポールのレーシング活動をスポンサーしたと本人が話しています。

キリー自身もスキーだけでなく、レーシングカーに熱中していたので、話が合ったのでしょう。

 

1968年の五輪3冠後、キリーにはアメリカ企業から猛烈なスポンサー攻勢がかかりました。

例えば、

Rolex

American Express

Chevrolet(自動車)

United Airlines

Schwinn(自転車)

 

などがその一部です。

ロレックスからはキリーモデルが発売されました。
現在では非常に希少で、オークション価格は1300-2200万円だそうです。

 

'Jean-Claude Killy' 6236 Rolex Datocompax
 – Hairspring

 

 

またKillyの名を冠したスキーのブランドもあり、1980年代、日本のスキーブームでは、ゲレンデで「SALOMON(サロモン)」「ROSSIGNOL(ロシニョール)」などと共に「Killy」のスキー板は目立っていました。

 

【ASICS】Killy スキーウェア ジャケット 160㎝ 日本製 男女兼用 ヴィンテージ

フランス国旗の3色で、ゲレンデで目立つKillyブランドのスキージャケット

 

 

<追記>

8月30日は、昨日アングルの記事で紹介した、ジャック・ルイ・ダヴィッドの誕生日でもあります。また米国女優ジーン・セバーグの命日(1938-1979年)(映画「勝手にしやがれ」でベルモンドと共演)

 

 

8月29日は新古典派画家、アングルの誕生日です。

 

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres) 1780年8月29日
フランス南西部モントーバン近郊で生まれる。父・ジャン=マリー=ジョセフは職人で、化粧漆喰、建築、家具の装飾彫刻、看板描きから音楽まで手広く手掛けていた。その職人肌をドミニクも受け継いでいた。

 

写真の説明はありません。

 

 

少年期にトゥールーズで美術を学び、17歳の時にパリに出て、ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門する。次第にアングルは頭角を現す。ダヴィッドはナポレオン帝政の崩壊で当時のオランダ王国・ブリュッセルに亡命する。ダヴィッドの去った後の新古典派の牙城を頑なに死守した。

 

写真の説明はありません。

ジャック=ルイ・ダヴィッド作「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」

 

 

アングルは、古典派のラファエロを敬愛し、色彩よりも線と輪郭を非常に重視しました。(これは新古典派の特徴)

彼の有名な言葉として、「線こそすべて」という考え方が知られています。

弟子に対しても、絵を描くことよりまず「デッサンをしろ」という姿勢でした。モルガン・ライブラリーによれば、アングルは自分のアトリエの看板を出すなら、École de dessin(デッサン学校)

と書く、と語ったほどです。だからアングルの作品を見ると、「油絵なのに、まるで鉛筆一本で描いたような輪郭」が非常に強く感じられます。

 

そのデッサン至上主義が「人体の正確さ」より「美しい線」を優先してしまう。

そのため有名な《グランド・オダリスク》を見ると、

「あれ? 腰が長すぎない?」となります。

実際、背中から腰にかけて、現実の人体として考えるとかなり不自然です。しかしアングルにとっては、「人体が多少現実と違っても、線が美しければいい」というところがあった。

ここが非常に重要で、アングルは単なる「写実派」ではありません。

むしろ、「美しい線のためなら、現実の人体をも改造する」画家なのでした。

 

アート作品のようです

《グランド・オダリスク》

 

 

彼は本来、「歴史画こそ画家の最高の仕事」と考えていました。実際、ダヴィッドはじめ新古典主義の作品は歴史画が多くを占めています。

一方、肖像画は「注文を受けて人の顔を描く仕事」と考えて、あまり高く評価していませんでした。

ところが現実には……肖像画がめちゃくちゃ上手かった。現在では《ベール夫人》《モワテシエ夫人》《ベルタン氏》など、むしろ肖像画家として世界的に有名です。プラド美術館も、アングルが肖像画の依頼を受けることを「渋々」受け入れていたことを紹介しています。

つまり、「私は肖像画家ではない!」と言いながら、肖像画で大成功していました。

 

写真の説明はありません。

肖像画の代表作「モワテシエ夫人」

 

 

アングルには、肖像画を頼まれると、「また肖像画か……」と不満を言う癖があったそうです。

ところが、いざ描き始めると、細部に異常なほどこだわりました。

服の質感、レース、宝石、髪の毛、指、背景……。

特に女性の肖像では、衣服や装飾品を描くことに執念を燃やしています。
どんな注文でも手を抜かず、細部にこだわりました。

そのため、彼の肖像画を見ると、「人物の顔」だけでなく、19世紀パリの超高級ファッション・カタログのようにも見えると言われています。

 

 

本人は歴史画家と自負していたようです。

《ホメロス礼賛》

《ルイ13世の誓願》

などの大作・歴史画を自慢しています。

ところが現代の私たちが特に知っているのは、

《グランド・オダリスク》

《トルコ風呂》

《泉》

《ヴァルパンソンの浴女》

《モワテシエ夫人》

《ベルタン氏》

など。

つまり、本人が「これこそ私の本職」と思ったものと、後世私達が「これがアングルだ」と思う物に少し差があるようです。

 

パンテオンの画像のようです

《ホメロス礼賛》

 

写真の説明はありません。

アングル作「王座のナポレオン1世」

 

イラストのようです

《泉》

 

 

アングルといえば、ドラクロワとの対立です。

アングル=古典主義・線

ドラクロワ=ロマン主義・色彩

という、19世紀フランス美術を代表する対立でした。

アングルはドラクロワの絵をかなり嫌っていて、彼を「l'apôtre du laid」「醜さの使徒」と呼んだことがあります。ルーヴルの資料にもこの表現が残っています。

でも後世から見ると、アングルもドラクロワも、どちらもフランス絵画の巨匠。

そして印象派、セザンヌ、ドガ、マティス、ピカソなどは、両者からそれぞれ何かを受け継いでいます。メトロポリタン美術館も、アングルの影響がセザンヌ、ドガ、マティス、ピカソなどに及んだと評しています。

 

 

アングルは当時としては長生きして、86歳まで生きました(1780–1867)。

19世紀前半から後半まで、フランス美術の激変を全部目撃しています。

革命後の新古典主義

ナポレオン

王政復古

七月王政

第二共和政

第二帝政

印象派前夜

 

という時代です。

それなのに最後まで、「古典こそ正しい!」という姿勢を崩しませんでした。

その一方で、彼の「線を極限まで洗練する」という考え方は、後の近代美術にまで強烈な影響を与えます。

 アングルを一言でいうと「超保守的なのに、結果的には超・モダンな画家」と考えると面白い。

肖像画が嫌いなのに、肖像画の天才になる。

古典主義者で「線こそ絶対」と叫び、人体を大胆に「変形」してしまう。

ドラクロワを嫌っていたのに、後世では両者とも近代美術の祖先になる。

ここまで知ると、ルーヴルで《グランド・オダリスク》を見るときも、単なる「変な体の裸婦」ではなく、「この人、線を美しくするためなら人体まで変えちゃうんだな」と見えてきます。

 

フランスに「アングルのヴァイオリン」という諺があります。日本で言う「玄人はだし(玄人も裸足で逃げ出すほど才能のある人)」という意味です。その語源はこのドミニク・アングルです。

アングルは幼い頃から絵だけでなく、ヴァイオリンの才能もかなりありました。

13歳から16歳頃にはトゥールーズのオーケストラで第二ヴァイオリン奏者を務めていました。

画家として成功した後も、音楽を完全に捨てることはありませんでした。

つまり、

「絵の才能がなかったら音楽家になっていたかもしれない」

というタイプです。

そして、この音楽好きが後世にものすごく有名なフランス語を残します。

「Violon d'Ingres(ヴァイヨン・ダングル)」

現在のフランス語で「本職とは別に持っている、非常に得意な趣味」という意味です。

「ドミニクのヴァイオリン好き」が「趣味・道楽」を意味するようになったわけです。ルーヴルも、この表現がアングルの音楽活動から生まれたと説明しています。

 

その才能を示す逸話があります。

1819年、ローマにいたアングルは、あの超絶技巧ヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニ

と知り合います。そしてアングルは、なんとパガニーニの演奏会などで第二ヴァイオリンを担当したと伝えられています。

その年にアングルが描いたのが、現在ルーヴルにある有名なパガニーニの肖像素描です。

想像すると面白いですね。

「私は画家です」→「でも今夜はパガニーニの隣でヴァイオリンを弾きます」

という生活です。

 

イラストのようです

アングル作「パガニーニの肖像」

 

 

ちなみに、この「violon d'Ingres」という言葉が、後世には写真家マン・レイの有名な1924年の作品《アングルのヴァイオリン(Le Violon d'Ingres)》の題名にもなりました。先日ご紹介したキキ・ド・モンパルナスの背中にヴァイオリンの「f字孔」を描いた写真です。

 

Die-co - マン・レイ アングルのヴァイオリン Violon d'Ingres 1927年

 

そしてそのアングルが使っていたヴァイオリンは、現在もフランスに残っています。生まれ故郷

モントーバンのアングル美術館(Musée Ingres Bourdelle)に所蔵されています。

しかも普通の大人用ヴァイオリンではなく、3/4サイズの小型ヴァイオリンで、アーチェ(弓)にはアングルの名前が刻まれています。

 



1867年1月14日没、享年86歳。パリ・ペール=ラシェーズ墓地に眠る。

 

記念碑の画像のようです

 

 

8月29日は

マイケル・ジャクソン
イングリッド・バーグマンの誕生日でもある。尚、バーグマンは命日も8月29日。
 

8月28日はフランスの男優、シャルル・ボワイエの誕生日です。

シャルル・ボワイエをご存知の方は、かなりのクラシック映画通でしょう。

フランスの2枚目俳優アラン・ドロンを皆さんはご存知でしょうが、その一世代前のフランスを代表する花形俳優でした。「フランス人の色男」の典型としてハリウッドで大成功した俳優です

 

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シャルル・ボワイエ(Charles Boyer、1899年8月28日 - 1978年8月26日)
ソルボンヌ大学で哲学を専攻した真面目な学生でしたが、その後、演劇の道へ進みました。
記憶力が非常に良く、若い頃には一晩で舞台の役を覚えてしまうこともあったそうです。共演者の台詞まで覚えていて、必要なら舞台袖から教えることもできたとか。


代表作は「ガス燈」(1944年)でイングリンド・バーグマンと共演。(尚、「ガス燈」は1940年に英国で制作され、ボワイエとバーグマンのハリウッド版は、この英国版のリメーク。興行的には1944年のハリウッド版が成功し、有名だが、評論家は英国版を推す者も多い。)

 

映画【ガス燈(1944)】あらすじ感想。I・バーグマンの様子がおかしい - 天衣無縫に映画をつづる

「ガス燈」(1944年)イングリンド・バーグマンと共演。

 


また、「凱旋門」(1948年)「ガス燈」に次ぎ、再びバーグマンと共演。
往年にもオードリー・ヘップバーンの「おしゃれ泥棒」(1966年)(主演はピーター・オトゥール)、「パリは燃えているか」(1966年)、「007/カジノロワイヤル」(1967年)にも出演している。

 

イングリッド・バーグマンの映画「凱旋門」第二次大戦直前のフランスをぶたいにしたメロドラマ! | 人生・嵐も晴れもあり!

「凱旋門」1948年

 


私は、レストランでサービスの仕事をしているので、「歴史は夜作られる」(1937年)を見て、メートル・ドテル役のボワイエを見て、しびれました。

 

映画「歴史は夜作られる」(原題:History Is Made at Night、1937)美男美女による典型的なメロドラマ。 -  fpdの映画スクラップ貼

「歴史は夜作られる」(1937年)

 

ボワイエ最大の武器は、顔以上に低く、少し鼻にかかった魅惑的な声でした。

映画がトーキーになると、この声とフランス語訛りの英語がアメリカ女性を虜にします。

グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリヒ、イングリッド・バーグマンなど、当時の大女優たちと次々に共演。そして彼の得意技は、なんといっても、「耳元で囁くように愛を語る」ことでした。制作会社が作った彼の宣伝文句は「whispered declarations of love(囁くような愛の言葉)」でした。
現在、世界中で「フランス人男性は、愛を甘く囁き、女性を誘惑するプレイボーイ」というイメージはボワイエが作り出しました。
もし、皆さんが上記の映画を観る場合は、日本語吹き替え版でなく、オリジナル版(英語)の日本語字幕で観る事をお勧めします。ボワイエの甘い声を楽しんで下さい。

 


「色男俳優」にも悩みや苦労がありました。彼によれば、アメリカ人はフランス語訛りを聞くと、「手にキスをして、女性に優しくする紳士」というイメージを勝手に抱いてしまう。

そして本人は、それが俳優としての役柄を限定してしまった、と考えていたようです。

つまり、「俺はもっといろんな役ができるのに、また色男か!」という色男にしかない悩みを抱えていたわけです。

 

ボワイエがハリウッドで「洗練された夢のフランス紳士」として売れていた一方、ジャン・ギャバンはもっと庶民的で、男臭く、いかつい現実的なフランス男のイメージでした。

そしてギャバンは、ボワイエのハリウッドでの成功をあまり評価していなかったと伝えられています。フランスは映画を生んだ国としてのプライドのような物が仏映画界に少なからず有り、ボワイエのハリウッド人気を「過小評価」する向きもあったそうです。

 

ジャン・ギャバン 1958年

 

 

スクリーンでは、「女性を次々に誘惑するプレイボーイ」なのに、実生活では友人から

“stick-in-the-mud”つまり「面白みのない堅物」「真面目すぎる人」と呼ばれるほどだったそうです。哲学を学んだ学生らしく、読書が好きで、派手なハリウッド生活よりも静かな生活を好みました。

女性関係も、私生活では映画とは裏腹に、堅実で生涯1人の女性を愛しました。

イギリス人女優パット(パトリシア)・パターソンと結婚。しかも出会ってからわずか2週間ほどでプロポーズし、3か月で結婚したとされています。(この辺は情熱的なフランス人?)ハリウッドでは「世界一のフランス人プレイボーイ」に見えたのに、実際には44年間一人の女性と添い遂げました。


妻 パトリシア

晩年のボワイエは、妻パットとアリゾナで静かに暮らし、読書やトランプを楽しんでいました。妻に本を読み聞かせるとき、一人で何人もの登場人物を声色を変えて演じ分け、妻を楽しませていたそうです。
1978年、そんな最愛の妻パットが癌でなくなると、ボワイエはなんと2日後に薬品を服用し、後追い自殺をしました。享年78歳。カリフォルニア州カルヴァー・シティの Holy Cross Cemetery で妻パトリシアと共に眠る。

CULVER-CITY : Holy Cross cemetery - Landrucimetières
ボワイエとパトリシアの墓、立体的でなく地表と同じ高さのシンプルな墓石