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mkparisのフランス歳時記、日々のフランス、フランス人

フランス・パリからフランスやパリに関するトピックをお届けします。
日記形式で、可能な限り日々綴っていきたいと思います。お休みしたらごめんなさい。

8月27日、前衛写真家マン・レイ、米国・フィラデルフィアで生まれる。

 

出生名エマニュエル・ラドニツキー Emmanuel Radnitzky。
ユダヤ系の両親から生まれ、22歳の時に迫害を恐れて、家族全員でレイ姓に変更する。同時に名もあだ名の「マニー」から「マン」へ変える。

 

白黒画像のようです

 

 

 

マン・レイは1921年7月14日、ル・アーヴルに到着し、そのままパリへ向かいます。

驚くことに、パリに着いたその夜、米国で既に親友であったマルセル・デュシャンに連れられて、アンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、フィリップ・スーポーら、当時の前衛芸術家たちに紹介されました。

「アメリカから来た無名の青年が、パリ到着初日に前衛芸術の中心人物たちにいきなり仲間入り」

という、かなり劇的で幸運なパリ・デビューだったわけです。

 

 

パリに来て間もなく出会ったのが、モンパルナスの伝説的女性、キキ・ド・モンパルナス(本名 Alice Prin)。二人は恋人になりますが、普通の恋愛関係とはかなり違いました。

キキはモデル、女優、歌手、画家でもあり、マン・レイの作品の重要な被写体になりました。二人は恋愛しながら、互いに芸術家として刺激し合い、1920年代のモンパルナスを象徴する存在になっていきます。

そして生まれたのが有名な、《Le Violon d'Ingres(アングルのヴァイオリン)》

です。キキの裸の背中に、ヴァイオリンの「f字孔」を描いてしまう。

これは単なるヌード写真ではなく、女性の身体=楽器という、かなり大胆なシュルレアリスムの発想です。1924年のこの写真は、現在ではマン・レイの代表作中の代表作です。皆さんも一度くらいは観たことがあるでしょう。
尚、キキは当時モンパルナスで引っ張りだこのモデルでした。レオナール藤田(嗣治)をはじめ、多くの画家のモデルになっています。藤田が1922年に発表した『寝室の裸婦キキ』のモデルも彼女です。

 

写真の説明はありません。

《Le Violon d'Ingres(アングルのヴァイオリン)》

 

 

 

オーバーコートの白黒画像のようです

キキと歩くレオナール藤田

 

 

 

アート作品のようです

1922年に発表した藤田作『寝室の裸婦キキ』

 

 

 

マン・レイの面白いところは、写真家なのに「写真を撮らない」実験を始めた事です。

カメラそのものを捨ててしまったことです。感光紙の上に物を直接置いて光を当てるフォトグラムを制作し、これを自分の名前から「Rayograph(レイヨグラフ)」と名付けました。

つまり、「写真=カメラで撮影するもの」という常識を無視したわけです。
これは通常のフィルムなら焼き増しで可能だが、「Rayograph」は複写出来ない一枚限りの芸術でした。この作品はダダの詩人トリスタン・ツァラから「純粋なダダ作品」と評価されました。

 

 

 

マン・レイは1922年頃から、芸術家や作家の肖像写真で急速に成功します。

生活が苦しく、パリの芸術家たちの肖像写真を撮り始めました。

彼が撮った人物には、

パブロ・ピカソ

アーネスト・ヘミングウェイ

ジェイムズ・ジョイス

ガートルード・スタイン

マルセル・デュシャン

ジャン・コクトーなどがいます。

前衛芸術家として実験を続けながら、実はかなり実用的な「肖像写真家」でもあったのです。

 

1929年、マン・レイの人生を大きく変える女性が現れます。

アメリカ人モデルのリー・ミラーです。

彼女は写真家になりたいと思い、パリまで来てマン・レイを訪ねます。

ところがマン・レイは最初、「私は弟子を取っていない」という態度。

それでもミラーは引き下がらず、彼の助手になります。

そして、

助手 → モデル → 恋人 → 写真の共同制作者

へと発展します。

 

 

そして有名なのが、ソラリゼーションと呼ばれる特殊技法です。

リー・ミラーの回想として有名なのが、暗室で現像中、ネズミが足元を走ったため驚いて電気をつけてしまったという話です。

その結果、現像途中の写真に光が当たり、独特の輪郭線を持つ画像が生まれました。

ただし、これは「完全にネズミが発明した」という単純な話ではありません。ソラリゼーション現象自体は19世紀から知られていました。

重要なのは、マン・レイとリー・ミラーが、この偶然の現象を芸術的な技法として積極的に利用したことです。

 

 

1人以上の白黒画像のようです

ソラリゼーションの例

 

 

 

レイとミラーの二人は非常に濃密な関係になりますが、1932年に破局。

ミラーはマン・レイのもとを去り、ニューヨークへ戻ります。

面白いのは、その後のミラーです

彼女は単なる「マン・レイの元恋人」では終わりません。

写真家として独立し、さらに第二次世界大戦では従軍記者・戦場写真家になる。

つまり、マン・レイの「ミューズ」だった女性が、最終的には自分自身が歴史的な写真家になったわけです。
ケイト・ウィンスレット主演で「リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界」2023年が作製されたが、恋人はマン・レイではなく他の人物に置き換えられた。

 

テキストの画像のようです

Lee Miller リー・ミラー

 

 

意外と知られていませんが、マン・レイは前衛芸術だけの人ではありません。

パリではポール・ポワレの仕事を撮影し、その後『Vogue』などのファッション誌でも仕事をしています。

つまり、

シュルレアリスト → ファッション写真家 → 芸術写真家 → 肖像写真家

を全部やっていた。

現代でいうなら、かなり「何でもできるクリエイター」です。

 

 

1922年からマン・レイが本格的に活動したのが、

31 bis, rue Campagne-Premièreです。

(ここはモンパルナスの重要な場所で、100人以上のアーチストが住んでいた通りです。

また映画「勝手にしやがれ」でジャンポール・ベルモンド扮するミッシェルが死んだ道路です。)

マン・レイのもとには芸術家、作家、モデル、映画人などが集まり、パリのダダ/シュルレアリスム界の一種の「社交場」になりました。

現在のパリを歩くなら、ここはかなり面白い場所です。

そして、マン・レイのパリ時代を一言で表すなら

「偶然を作品にする天才」だと思います。

恋人のキキの背中を見て「ヴァイオリンにしてしまおう」。

暗室で偶然光が入ったら「これは面白い、技法にしてしまおう」。

カメラを使わずに感光紙に物を置いたら「Rayographと呼ぼう」。

そして、パリの芸術家たちを撮っているうちに、ピカソ、ジョイス、ヘミングウェイ、コクトー、キキ、リー・ミラー……と20世紀芸術の「顔」を撮影してしまった。

だからマン・レイは単なる写真家ではなく、1920年代パリの「人間関係そのものを作品に変えた人」とも言えます。

第2次世界大戦がはじまると、米国に戻るがパリほど成功はしなかった。
1946年、ジュリエット・ブラウナーと結婚。

 

写真の説明はありません。

ジュリエット・ブラウナー

 

 

1951年、パリに戻り、活動を再開。

1976年11月18日にパリで死去。墓はモンパルナス墓地にあり、ジュリエットと共に眠る。享年86歳。2019年3月27日、酔っ払いにより墓石が破壊された。その後、修復されたが以前の物とは全く違う姿になった。

 

記念碑の画像のようです

破壊される前の墓石

 

 

写真の説明はありません。

新しい墓石

 

 




 

 

8月26日はフランス人権宣言が採択された日です。

 

昨日、紹介した「パリ解放の2日目」でもあり、アポリネールの誕生日でもありますが、やはり人権宣言を紹介。

 

人間と市民の権利の宣言( Déclaration des Droits de l'Homme et du Citoyen)は17条からなる。

 

1789年、フランスでは人民が絶対君主制の廃止をもたらし、最初のフランス共和国の設立のための基盤を築いた。バスティーユ監獄襲撃の6週間後、そして封建制度廃止のわずか3週間後、憲法制定国民議会によって採択されました。これは、フランス共和国の憲法制定に向けた最初のステップでした。

 

テキストの画像のようです

 

 

詳しい人権宣言の内容は、歴史書やWikipediaに譲ります。

 

宣言は1789年8月26日にいきなり17条が出来たわけではなく、実際には8月20日から26日まで、1条ずつ激しい議論をしながら決めていきました。最初から17条だったわけではありません。

ラファイエット、シエイエスなど複数の議員がそれぞれ草案を出し、委員会がそれらをまとめました。

8月18日、そして議会の第6局(sixième bureau)の案を基礎にすることが決まり、8月19日には第6局案の多くが採用されました。そこから宗教、所有権などをめぐって激論。

そして8月26日にようやく採択されました。

人権宣言の重要な草案の一つを提出したのが、アメリカ独立戦争にも参加したラファイエット侯爵です。

彼はアメリカで独立革命を経験しており、1789年のフランス革命でも「自由と権利」を具体的な政治原則にしようとしました。つまり、アメリカ独立革命 → フランス革命という「革命から革命への思想の輸入」が起こっていたわけです。

 

写真の説明はありません。

 

 

 

第4条が非常にフランスらしい。

「自由とは、他人を害しないすべてのことを行えることである」つまり、「自由だ!」→「ただし、他人に迷惑をかけない範囲でね」という考え方です。

また「自由・平等」だけではなく、「抵抗する権利」まで入っている!

第2条には、人間の自然権として

自由

所有

安全

圧政への抵抗(résistance à l'oppression)

が挙げられています。

つまり、「政府が圧政を行ったら、それに抵抗することも人間の権利である」と宣言しているわけです。

革命を肯定しており、現代フランス人がスト好きはこの条文から来ているのでしょうね。

8月26日に国民議会が採択したからといって、ルイ16世がその日に承認したわけではありません。(バスティーユ襲撃後、すぐに国王が捕らわれたわけではありません)

ルイ16世が正式に承認したのは、なんと10月5日。

しかも、ヴェルサイユに押しかけた民衆と国民議会から強い圧力を受けた後でした。

つまり、

8月26日=議会が採択

10月5日=国王が承認

です。

 

 

1789年の宣言は、「人間は自由で平等」と言いました。

すると当然、「では奴隷は人間ではないのか?」という矛盾が出てきます。

フランス植民地のサン=ドマング(現在のハイチ)では、この矛盾が爆発します。

そして1791年に始まったハイチ革命は、世界史上初めて成功した奴隷反乱による独立革命へと発展します。

1804年、ハイチは独立。

つまり1789年の理念が、フランス自身の植民地支配に対して、「あなたたちが宣言した『自由と平等』を、私たちにも適用しろ」という武器になったのです。

 

 

同様に女性も政治的権利から排除されていました。

そこでオランプ・ド・グージュが1791年、『女性と女性市民の権利宣言』を発表。

冒頭で、「女性は自由な者として生まれ、権利において男性と平等である。」という趣旨を掲げました。

つまり彼女は、「あなたたちの人権宣言を、そのまま女性にも適用してください」と突きつけたのです。

これは近代フェミニズム史の重要な出発点の一つです。

彼女がいなければ、今の女性の社会的地位向上は何十年か遅れていたかもしれません。リュパブリック広場の近くに、彼女の名を冠したPlace Olympe-de-Gouges があります。

 

イラストのようです

 

 

第二次世界大戦後、国際連合が1948年に世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)を採択します。

第1条は、

「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等である。」という内容です。

1789年の第1条と並べると、その思想的な連続性がよく分かります。

1789年の人権宣言には、現代から見ると大きな矛盾があります。「すべての人間は自由で平等」と言いながら、

女性

奴隷

植民地の人々

貧しい人々

には、必ずしも同じ権利が保障されませんでした。

しかし、この矛盾こそが重要でした。

後世の人々が、「では、あなたがたの言う『人間』とは誰なのか?」と問い返すことができたからです。

その意味では1789年の宣言は、完成した人権制度というより、「権利を要求するための世界共通の言葉」を発明した文書だった、と考えると分かりやすいです。

そして現在のフランスでは、1789年の宣言は歴史資料ではなく、現行憲法の前文がその原則を確認しているため、現在の憲法的価値の一部と考えられている。

 

 

メトロ12号線のコンコルド駅の壁には、「人間と市民の権利の宣言」の文章が、白いタイルに青い文字でびっしりと書かれています。句読点やアクセント記号をほとんど使わず、文字だけを連続させたような構成になっています。

壁全体を眺めると、DECLARATIONDESDROITSDE...

という具合に、文字が連続して並んでいます。

 

テキストの画像のようです

 

 

 

 

世界三大発明は、火薬、羅針盤、活版印刷と言われる。現代では、ワクチン、インターネットなどを主張する人もいるが、フランス人権宣言がそれに加わっても良いのではないかと個人的に思う。

 

 

 

8月25日はパリにとって革命記念日と同じくらい大切な日です。

 

1944年8月25日、パリはナチスから解放されました。

 

皆さん、第2次世界大戦、フランスの3大英雄と言われたら、誰を挙げますか?

まず、皆さんド・ゴール将軍を挙げるでしょう。では、2番目、3番目は?

フランス人は、恐らく全員ジャン・ムーランとルクレール将軍と答えるでしょう。

 

この3人の役割は、ド・ゴールが米・ルーズベルト、英・チャーチルと掛け合い、ルクレールが実際に兵士の先頭に立ち戦った。ムーランは地下組織を指導、レジスタンス活動を行いました。

 

本日紹介するのは、ルクレール将軍を中心にご紹介。

本名フィリップ・フランソワ・マリー・ド・オートクロク(Philippe François Marie de Hauteclocque、1902年11月22日 - 1947年11月28日)

 

写真の説明はありません。

 

あれ、ルクレールと言うのはあだ名?

実は戦時中、フランスに残した家族を心配して、改名していました。現在では「ジャック=フィリップ・ルクレール(Jacques-Philippe Leclerc)」で知られています。

 

 

対戦の話は長いので、パリ解放に絞って進めます。

 

 

ナチスに対抗したフランス軍を自由フランス軍(Forces Françaises Libre, 略称FFL、またはFrance Libre)と呼びます。旗はジャンヌダルクに由来するダブル・クロス(ロレーヌ十字と呼ぶ)をトリコロールにあしらったものです。

 

写真の説明はありません。

 

 

 

パリ解放と言うとほとんどの方がド・ゴール将軍がシャンゼリゼ通りを市民に囲まれて歩く写真を想像する事でしょう。でもこれは翌日の8月26日です。

 

その他に、「戦車の兵士に花束をささげる女性や、キスする女性、または戦車の甲板に市民が載っている写真」を見た方もいるでしょう。これが、フィリップ・ルクレール将軍が率いた第2機甲師団(2deuxième Division Blindée、略称:2e DB)です。機甲師団と言うのは戦車を中心にした部隊です。

 

 

第2機甲師団はアフリカ戦線や、ノルマンディー上陸作戦にも参加しています。

パリ解放時は、パリの南側から進行します。ベルサイユの南側に幾つもあったドイツ軍の包囲網を突破してパリに向かいます。ランブイエからベルサイユに向かう時は2つに分かれて進みますが、パリ付近で大きく4つに分かれて進みます。

 

ルクレール将軍の本隊は、

Porte d'Orléans

  ⇩

Place Denfert-Rochereau

  ⇩

Avenue du Maine

  ⇩

Gare Montparnasse

と進みます。

モンパルナス駅に機甲師団の司令部を置きます。

 

地図、テキストの画像のようです

 

 

現在Porte d'Orléans から Place Denfert-Rochereau の大通りを Avenue du Général-Leclercと呼ぶのはその為です。(その前は、Avenue d'Orléans と呼ばれていた)

 

 

 

ナチスドイツのパリ司令官コルティッツは拘束され、パリ警視庁で無条件降伏に署名する。その後、モンパルナスでルクレールと会見し、ドイツ軍兵士に投降を呼びかけました。

この件は米仏合作映画「パリは燃えているか」で詳細に描かれている。

その後、ド・ゴールはパリ市庁舎Hotel de Villeに入り、解放を宣言します。

 

 

演説は

« Paris ! Paris outragé ! Paris brisé ! Paris martyrisé ! Mais Paris libéré ! »

です。日本語にすると、

「パリ!

屈辱を受けたパリ!

打ち砕かれたパリ!

苦難を受けたパリ!

しかし、解放されたパリ!」

と。

 

そして続きは、

« libéré par lui-même, libéré par son peuple avec le concours des armées de la France… »

「自らの力によって解放された。フランス軍の協力を得て、その人民自身によって解放された……」

と続きます。

米軍、英軍、スペイン軍の助けがあったにも関わらず、自分たちで解放したという所は、ちょっと図々しいですが、国民を鼓舞するド・ゴールの上手い所です。

 

 

パリ解放後、11月23日に第2機甲師団はさらにストラスブールの解放に成功した。ストラスブールには現在ルクレール将軍の銅像が立っている。

 

 

ルクレールは日本とも少し縁がある。

日本が降伏文書に署名をしたのは、米軍ミズーリ号の甲板であった。この署名時に、ルクレールは太平洋地域フランス軍司令官で署名している。米国のマッカーサー的立ち位置だった?

 

テキストの画像のようです

 

 

ド・ゴールはその後、大統領になるが、ルクレールは1947年11月22日に飛行機墜落事故のためアルジェリアで死亡した。

現在、アンバリッドで眠る。記念して元帥の称号が与えられた。享年45歳。

 

 

パリ解放の別のエピソードで消防士がフランス国旗をエッフェル塔に掲げた話がある。ナチス統治時代は、消防士はパリ中のフランス国旗を降ろす命令が下された。解放を知った数名の消防士がエッフェル塔に登り、最上階でフランス国旗を掲げた。

 

潜水艦の白黒画像のようです

 

バイク、記念碑の画像のようです

 

パリ14区に

Musée de la Libération de Paris – musée du général Leclerc – musée Jean Moulin と3つの博物館が一つの建物に集約されています。入場無料。

 

 

 

本日は、パリ市役所、モンパルナスなどで記念式典があります。