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mkparisのフランス歳時記、日々のフランス、フランス人

フランス・パリからフランスやパリに関するトピックをお届けします。
日記形式で、可能な限り日々綴っていきたいと思います。お休みしたらごめんなさい。

8月25日はパリにとって革命記念日と同じくらい大切な日です。

 

1944年8月25日、パリはナチスから解放されました。

 

皆さん、第2次世界大戦、フランスの3大英雄と言われたら、誰を挙げますか?

まず、皆さんド・ゴール将軍を挙げるでしょう。では、2番目、3番目は?

フランス人は、恐らく全員ジャン・ムーランとルクレール将軍と答えるでしょう。

 

この3人の役割は、ド・ゴールが米・ルーズベルト、英・チャーチルと掛け合い、ルクレールが実際に兵士の先頭に立ち戦った。ムーランは地下組織を指導、レジスタンス活動を行いました。

 

本日紹介するのは、ルクレール将軍を中心にご紹介。

本名フィリップ・フランソワ・マリー・ド・オートクロク(Philippe François Marie de Hauteclocque、1902年11月22日 - 1947年11月28日)

 

写真の説明はありません。

 

あれ、ルクレールと言うのはあだ名?

実は戦時中、フランスに残した家族を心配して、改名していました。現在では「ジャック=フィリップ・ルクレール(Jacques-Philippe Leclerc)」で知られています。

 

 

対戦の話は長いので、パリ解放に絞って進めます。

 

 

ナチスに対抗したフランス軍を自由フランス軍(Forces Françaises Libre, 略称FFL、またはFrance Libre)と呼びます。旗はジャンヌダルクに由来するダブル・クロス(ロレーヌ十字と呼ぶ)をトリコロールにあしらったものです。

 

写真の説明はありません。

 

 

 

パリ解放と言うとほとんどの方がド・ゴール将軍がシャンゼリゼ通りを市民に囲まれて歩く写真を想像する事でしょう。でもこれは翌日の8月26日です。

 

その他に、「戦車の兵士に花束をささげる女性や、キスする女性、または戦車の甲板に市民が載っている写真」を見た方もいるでしょう。これが、フィリップ・ルクレール将軍が率いた第2機甲師団(2deuxième Division Blindée、略称:2e DB)です。機甲師団と言うのは戦車を中心にした部隊です。

 

 

第2機甲師団はアフリカ戦線や、ノルマンディー上陸作戦にも参加しています。

パリ解放時は、パリの南側から進行します。ベルサイユの南側に幾つもあったドイツ軍の包囲網を突破してパリに向かいます。ランブイエからベルサイユに向かう時は2つに分かれて進みますが、パリ付近で大きく4つに分かれて進みます。

 

ルクレール将軍の本隊は、

Porte d'Orléans

  ⇩

Place Denfert-Rochereau

  ⇩

Avenue du Maine

  ⇩

Gare Montparnasse

と進みます。

モンパルナス駅に機甲師団の司令部を置きます。

 

地図、テキストの画像のようです

 

 

現在Porte d'Orléans から Place Denfert-Rochereau の大通りを Avenue du Général-Leclercと呼ぶのはその為です。(その前は、Avenue d'Orléans と呼ばれていた)

 

 

 

ナチスドイツのパリ司令官コルティッツは拘束され、パリ警視庁で無条件降伏に署名する。その後、モンパルナスでルクレールと会見し、ドイツ軍兵士に投降を呼びかけました。

この件は米仏合作映画「パリは燃えているか」で詳細に描かれている。

その後、ド・ゴールはパリ市庁舎Hotel de Villeに入り、解放を宣言します。

 

 

演説は

« Paris ! Paris outragé ! Paris brisé ! Paris martyrisé ! Mais Paris libéré ! »

です。日本語にすると、

「パリ!

屈辱を受けたパリ!

打ち砕かれたパリ!

苦難を受けたパリ!

しかし、解放されたパリ!」

と。

 

そして続きは、

« libéré par lui-même, libéré par son peuple avec le concours des armées de la France… »

「自らの力によって解放された。フランス軍の協力を得て、その人民自身によって解放された……」

と続きます。

米軍、英軍、スペイン軍の助けがあったにも関わらず、自分たちで解放したという所は、ちょっと図々しいですが、国民を鼓舞するド・ゴールの上手い所です。

 

 

パリ解放後、11月23日に第2機甲師団はさらにストラスブールの解放に成功した。ストラスブールには現在ルクレール将軍の銅像が立っている。

 

 

ルクレールは日本とも少し縁がある。

日本が降伏文書に署名をしたのは、米軍ミズーリ号の甲板であった。この署名時に、ルクレールは太平洋地域フランス軍司令官で署名している。米国のマッカーサー的立ち位置だった?

 

テキストの画像のようです

 

 

ド・ゴールはその後、大統領になるが、ルクレールは1947年11月22日に飛行機墜落事故のためアルジェリアで死亡した。

現在、アンバリッドで眠る。記念して元帥の称号が与えられた。享年45歳。

 

 

パリ解放の別のエピソードで消防士がフランス国旗をエッフェル塔に掲げた話がある。ナチス統治時代は、消防士はパリ中のフランス国旗を降ろす命令が下された。解放を知った数名の消防士がエッフェル塔に登り、最上階でフランス国旗を掲げた。

 

潜水艦の白黒画像のようです

 

バイク、記念碑の画像のようです

 

パリ14区に

Musée de la Libération de Paris – musée du général Leclerc – musée Jean Moulin と3つの博物館が一つの建物に集約されています。入場無料。

 

 

 

本日は、パリ市役所、モンパルナスなどで記念式典があります。

 

 

 

8月24日はフランスのシンセサイザー音楽のパイオニア、ジャン・ミッシェル・ジャール(Jean-Michel Jarre)の誕生日です。

Joyeux Anniversaire Jean-Michel !

 

フランスの坂本龍一のような存在です。1948年8月24日、リヨン生まれ。

日本での知名度はいまいちですが、フランスでは今や音楽界の大御所です。

父親は『アラビアのロレンス』などの映画音楽で知られる作曲家モーリス・ジャール。

 

 

ジャールのコンサートは、音楽だけを聴かせるというより、

音+巨大建築+レーザー+映像+花火を一つの作品にするのが特徴です。

本人も、都市や歴史的建造物を「キャンバス」として使うことを長年続けています。エッフェル塔、ピラミッド、紫禁城、天安門広場、モスクワ大学など、世界的建造物が次々と巨大ステージになりました。

 

 

1976年の代表作『Oxygène(酸素)』は、現在までに世界で1,800万枚以上売れたとされる大ヒット作です。

ところが、その制作環境が意外です。

ジャールは当時、パリの自宅の物置を改良した小さな簡易スタジオで、アナログ・シンセサイザーやテープレコーダーを使って録音していました。

つまり、後に世界中の巨大スタジアムを埋め尽くすことになる音楽が、最初は非常に小さな個人スタジオから生まれたわけです。

 

 

ジャールを有名にした最初のコンサートは1979年7月14日、パリのコンコルド広場で革命記念日の無料コンサートでした。観客は約150万人とされます。

普通なら「大きなコンサート会場」を探しますが、ジャールは逆に、「パリそのものをステージにしてしまおう」

という発想でした。巨大スクリーン、レーザー、照明、花火を使い、コンコルド広場から周囲の建物まで一つの巨大な舞台にしてしまいました。

1986年、NASAの25周年などを記念して、ヒューストンで巨大コンサート「Rendez-Vous Houston」を開催。

観客は約130万人。

しかも会場は普通のコンサートホールではありません。

ヒューストンの高層ビル群そのものを巨大スクリーンにして、レーザーや映像を投射したのです。

ジャールは宇宙開発都市ヒューストンを見て、「未来都市」というイメージを音楽で表現しようとしました。

 

 

さらにすごいのが1997年。

モスクワ大学を背景にしたコンサートには、推定350万人が集まりました。ギネス世界記録にも掲載されています。

しかもジャールは、このコンサートで宇宙にいるロシアのミール宇宙ステーションの宇宙飛行士と中継しました。

つまり、地上の350万人+宇宙の宇宙飛行士という、とんでもないコンサートだったわけです。(350万人と言う数は、主催者発表で実際はその4-5割かもしれませんが、ギネスに認定されている事を考えると、全くの根拠のない数字でもないでしょう。でも静岡県の人口が355万人です、、、)

 

 

1981年、ジャールは中国で演奏した最初の西洋人ミュージシャンになりました。中国は天安門事件(1989年)以前の事です。現在のように西洋式のコーヒーが簡単に飲める環境ではありませんでした。そこでジャール側のスタッフは、

「中国ではコーヒーが飲めないかもしれない」と考え、なんと自分たちのコーヒーメーカーを特別なケースに入れて飛行機で持っていったそうです。

ところが現地中国人スタッフがコーヒーを一口飲んだ。

すると、「私にも!」「私にも!」となり、あっという間にコーヒーがなくなってしまったそうです。

ジャールの音楽より先に、現地スタッフが「フランスのコーヒー文化」に衝撃を受けたわけです。こうしてジャールは、中国にシンセサイザー音楽とコーヒーを紹介した人物となりました。

 

 

1998年には、小室哲哉とともにサッカーワールドカップ・フランス大会のテーマソング「TOGETHER NOW」を発表しました。日本でもTV出演したりしました。

「TOGETHER NOW」(1998年)

https://www.youtube.com/watch?v=HJx68NcMAxg

『幻想惑星』 - Oxygène (1976年)

https://www.youtube.com/watch?v=kSIMVnPA994

 

 

最近では2024年のパリ・パラリンピックの閉会式を担当しました。

 

 

 

 

8月23日、ルイ16世の誕生日です。

 

マリーアントワネットの伴侶、ギロチンにかけられた王様です。

Louis XVI、1754年8月23日 生まれる。ブルボン朝第5代フランス国王。

兄・ルイ・ジョセフがいたが、結核で死亡した。兄が存命なら彼に王位が回ってこず、ギロチンにかけられる運命も回避できたかも??

 

 

 

歴史的側面はWikipediaと「ベルサイユのバラ」に譲り、ルイ16世のエピソードを幾つか。

 

かなり有名な話ですが、国政にはあまり興味がなく、内向的な性格であったことは確かなようです。この辺りは、「ベルばら」でも描かれていますね。

ベルサイユ宮殿内に、自分だけの「秘密基地」を作り、一人こもって作業をしていたそうです。その作業とは、「錠前作り」。ルイ16世の最大の趣味は、なんと錠前作りでした。

機械・時計・木工・錠前などのための工房が設けられ、宮廷の正式な式典よりも、こうした機械いじりに熱中していたのです。

専属の錠前職人フランソワ・ガマンから技術を習い、自分で金属を削り、鍵や錠を作っていました。

しかも、王様が職人仕事をしていることを宮廷人に知られたくなかったらしく、重い金床を工房に運び込むのにも「秘密作戦」が必要だったと伝えられています。そのため宮廷では、「王はいったい、あそこで何をしているんだ?」と噂になりました。政治的な秘密会議をしているのではないか、女性と密会しているのではないか……など、いろいろな憶測が飛び交ったそうです。

鍵作りをしていると、ルイ16世の手は油や煤で真っ黒になります。マリー・アントワネットは、夫の手が黒くなっているのを見ると、「王様なのだから、もっと王様らしいことをして!」という感じで注意したと回想されています。

宮廷の華やかな世界で、「マリー・アントワネット=ファッション」に対して、「ルイ16世=鍵と金属」という、かなり奇妙な夫婦だったわけです。

 

ただ、ルイ16世は単なる鍵マニアではなく、科学技術そのものに強い興味を持っていたそうです。

ヴェルサイユには、彼のために

物理学

化学

機械

時計

木工

錠前

鍛冶

電気

などを扱う施設がありました。

 

さらに海洋探検にも強い関心を持ち、ラ・ペルーズの世界一周探検を支援しています。

また、1783年、ヴェルサイユでモンゴルフィエ兄弟の気球実験が行われると、ルイ16世はこれを見物しました。

気球には当初、囚人を載せる予定だったが、「そんな怖い事は出来ない。いっそのこと一思いに死刑にしてくれ」と言われ、断念、羊・アヒル・鶏と載せて世界初の気球飛行に成功しました。

 

さらに同年11月21日には、ピラートル・ド・ロジェらがヴェルサイユから飛び立ち、人類初期の有人飛行の一つを成功させています。当時の人々にとっては、「人間が空を飛ぶ!」という、とんでもない未来技術。ルイ16世はこうした最新技術にかなり興味を持っていました。

彼は「遊び好きの王様」というより、「自分で機械を触って、科学技術を研究するのが好きな王様」だったのです。現代なら、歓迎されこそすれ、ギロチンには無関係な王様であったかもしれません。

 

 

 

 

ルイ16世は鍵だけでなく、狩猟も大好きでした。

彼の記録には、「鹿を2頭」「10頭仕留めた」など、狩猟の成果が細かく記録されています。

つまり彼の日記は、「今日は何を政治的に決定したか」より、「今日は何頭捕まえたか」のほうが重要だったりするのです。

1789年7月14日、パリではバスティーユ襲撃。

ところがルイ16世の日記には、

「Rien(何もなし)」と書かれている。

そのため、

「パリで革命が始まったのに、王は『何もなかった』と書いた!」という話になっています。

ただし、これはかなり誤解を招く話です。

このノートは普通の日記というより、主に狩猟記録という性格の強い日記でした。「Rien」は、その日の狩猟で獲物がなかった、という意味で使われていました。実際、前後の日にも「Rien」が頻繁に登場します。

つまり、革命を無視して「何も起きなかった」と書いたわけではありません。とはいえ、7月14日にこの一言が残っているため、後世から見ると非常に皮肉な記録になっています。

 

 

長年彼の錠前作りを手伝っていた錠前職人フランソワ・ガマンを、ルイ16世は非常に信頼していました。

革命が激しくなると、王は重要な秘密文書を守るため、「鉄の戸棚(Armoire de fer)」と呼ばれる秘密の保管庫を作らせました。

ところが革命後、ガマンは王を裏切り、この秘密の戸棚の存在を明らかにします。そこから発見された文書が、ルイ16世の裁判で非常に大きな争点になり、死刑が決まりました。

「王様の秘密を守るための鍵を作った男」が、最終的にその秘密を暴くという、まるで映画のような結末です。

 

 

1793年1月21日午前10時22分、シャルル=アンリ・サンソンの執行により革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされた。

 

 

 

作家アレクサンドラ・デュマ・ペールは処刑当日の様子を次のように記述する。

朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。10時に王は断頭台の下にたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだ。

「私は無実のうちに死ぬ。私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」という、フランスへの思いが込められた一言だった。しかし、その言葉を聞いてもなお、涙するものはなかった。

革命前にギロチンの導入が検討された際、その刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言を行ったのは、錠前作りによって工学的知識、金属器の知識を持っていたルイ16世本人だったと言われている。

遺体は当初、マドレーヌ寺院近くの墓地に埋葬されたが、後にサン・ドニ聖堂に移葬され、マリーアントワネットと共に眠っている。

 

 

 

 

話は逸れるが、

 

日本で人気の「ベルサイユの薔薇」はフランスでは「Lady Oscar」として漫画が翻訳出版されている。また「シェルブールの雨傘」でカンヌ映画祭パルムドールを獲ったジャック・ドミ監督により1979年実写化(本編英語)もされた。しかし、この映画は全くヒットせず、ドミ監督の黒歴史と言われている。(仏年間興行入場者数136位)

 

「Lady Oscar」制作予告編(日本)

https://www.youtube.com/watch?v=vYRsQOilEQo

「Lady Oscar」予告編(日本)

https://www.youtube.com/watch?v=3PDWEA6KZCc

「Lady Oscar」(本編・英語)駄作かどうかご自身で確かめて下さい。2時間3分

https://www.youtube.com/watch?v=iicbiVJvYoc

 

 

池田理代子さんのアニメ「ベル薔薇」(1979)が放映される事、4年前、既にベルサイユを舞台にしたアニメが放映されていました。「ラ・セーヌの星」(1975年)

 

シテ島の花屋の娘・シモーヌが夜は仮面をつけて、悪党を退治する剣士に変身。実は彼女はマリーアントワネットの異母妹、という話。全39話。「ベル薔薇」が貴族目線であったのに対し、「ラ・セーヌの星」は庶民目線であった。もちろん「フランスでも放映された、子供の頃に観た」と私の友人が言っていました。

 

 

「ラ・セーヌの星」オープニング

https://www.youtube.com/watch?v=D31zqP6rOPM

「ラ・セーヌの星」フランス語Ver. アニメ版ではないですが、、、

https://www.youtube.com/watch?v=lMoFu6afKmQ

 

 

「ラ・セーヌの星」を紹介して「ベル薔薇」を紹介しない訳に行かないので。

 

「ベルサイユの薔薇」フランス語版

https://www.youtube.com/watch?v=d84vE1Hf7VQ

「ベルサイユの薔薇」イタリア語版

https://www.youtube.com/watch?v=RN2KLx7vdiE

「ベルサイユの薔薇」ドイツ語版

https://www.youtube.com/watch?v=ABT8JCEl9uM

「ベルサイユの薔薇」アラビア語版

https://www.youtube.com/watch?v=gNMJDx9RjRQ

 

 

*****<私見>*****

歴史に「もし」は無いと言われるが、「もし、先代の莫大な借金がなく、科学好きの王による平和な政治が続いていたら」、米国ではなく、フランスがソ連と対峙し、現在、中国と覇権を争っていたかもしれない??