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mkparisのフランス歳時記、日々のフランス、フランス人

フランス・パリからフランスやパリに関するトピックをお届けします。
日記形式で、可能な限り日々綴っていきたいと思います。お休みしたらごめんなさい。

1883年8月19日、ココ・シャネルが生まれました。

本名ガブリエル・ボヌール・シャネル〈Gabrielle Bonheur Chanel〉但し、出生届時に誤りがあり、記録上は「シャスネルChasnel」となっている。

 

写真の説明はありません。

 

1)「Coco」という愛称にはいくつかの説があるそうです。

若い頃、お針子として仕事をしていましたが、それだけでは生計が立たず、副業としてキャバレーで歌っていました。その時の十八番が「Qui qu'a vu Coco ?(ココを見たのは誰?)」という歌でした。それが常連客に「Coco」と呼ばれるようになったという説が有力です。

ところが後年のシャネルは、「父が私をCocoと呼んでいた」という別の話をしていました。

「Qui qu'a vu Coco ?」のリンクは以下。

https://www.youtube.com/watch?v=1hWNMBGXVi0

 

 

2)1910年、パリのカンボン通りに帽子店を開き、その後ドーヴィルへ進出。そして彼女が注目された理由の一つが、従来の女性服にはあまり使われなかったジャージー素材を使ったことでした。当時ジャージーは、主に男性用下着などに使われる安価で実用的な素材。シャネルはそれを、「安っぽい布」→「動きやすくてエレガントな服」に変えてしまったのです。

 

写真の説明はありません。

 

3)イギリス人の大富豪・ポロ選手 Arthur “Boy” Capel は、シャネルにとって非常に重要な存在でした。

彼は恋人であるだけでなく、彼女の事業を経済的に支援した人物でもあります。シャネル自身も後年、彼を非常に特別な存在として語っています。ところが1919年、カペルは自動車事故で死亡。シャネルは深く悲しみました。

そして興味深いのが、その後のシャネルの黒い服です。

当時、黒は喪服のイメージが強かったのですが、シャネルはそれを洗練されたファッションへと変えていきます。

1926年には有名な「リトル・ブラック・ドレス」が登場します。黒いドレスは汚れを目立たせず、合わせるアクセサリーで表情を変えることができ、シャネルが重視していた機能性の面でも抜群。折しも1929年に米国に起こった大恐慌の頃は、質素倹約の時代。それが逆に追い風になり、リトル・ブラック・ドレスは定着。女性の「定番」となっていくのです。

 

スーツの画像のようです

 

4)シャネルは数字の「5」を非常に好んでいました。

香水の試作品をいくつか提示されたとき、彼女が選んだのが5番目の試作品。そして、「5月5日にコレクションを発表するのも縁起がいい」ということで、そのまま「No.5」という名前になったという有名な話があります。

 

 

5)1947年、ディオールが「ニュールック」を発表。

ウエストを強く絞り、スカートを大きく膨らませた女性らしいシルエットでした。ところがシャネルはこれを、「女性を再びコルセットに閉じ込めるようなもの」と考え、嫌悪しました。彼女にとってファッションとは、女性が自由に動けることだったからです。

ディオールとシャネルは、まさに「女性を美しく見せる服」vs.「女性を自由にする服」という思想の対立をしていました。

 

白黒画像のようです

 

6)第一次世界大戦の影響でロシアからフランスへ移ってきたストラビンスキーは、妻エカテリーナと子供たちを連れて生活していました。しかし一家は経済的にも厳しい状況にありました。そこで手を差し伸べたのが、当時すでに大成功していたシャネルでした。1920年頃、シャネルはストラヴィンスキー一家に対して、「私の家に住めばいい」と申し出ます。一家が暮らしたのは、パリ郊外ガルシュにあるシャネルの邸宅「ベル・レズィード」でした。シャネルは既婚者だったストラヴィンスキーと、親密な関係になったとされています。このエピソードは2010年に映画化されています。 『シャネル&ストラヴィンスキー』(Coco Chanel & Igor Stravinsky)

 

 

7)シャネルは戦時中にドイツ人のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲと愛人関係にあり、ナチスの活動に関与していたという負の面もあります。当時のセレブや政治家との豊富なつながりをナチスが利用して、ドイツ軍に有利になるよう英仏の政治家に働きかけていました。1944年のパリ解放後にはホテルリッツの部屋で逮捕され、尋問も受けましたが、正式に協力者として起訴されることはありませんでした。この不起訴には、かなり上の権力者の口添えがあったと考えられています。恐らくチャーチルではないかと推測されています。

 

 

8)シャネルの店は大戦中から15年ほどクローズしていました。上記の件も絡み、シャネルはスイスに転居していました。(逃亡とか亡命という記事もあります)フランスのファッション界からほぼ姿を消します。

この期間については、シャネル自身もあまり積極的に語りませんでした。

ところが1954年――71歳になったシャネルが突然パリに戻り、オートクチュールを再開します。

当時のフランスでは、「ナチスと関係があったシャネルが、今さら戻ってきた」という冷たい目もありました。

しかし、彼女は復帰を強行します。

そしてアメリカではむしろ高く評価され、再び世界的なファッションデザイナーとして復活していきました。

 

 

9)シャネルはパリのホテル・リッツを非常に気に入り、長年そこに住みました。

第二次世界大戦中もリッツに滞在していました。

そして1971年1月10日、87歳で亡くなった場所もリッツの自室でした。現在リッツにはシャネルの名を冠したスイートルームがあります。

 

 

10)母親が死んで、孤児院に預けられたガブリエルはそこで裁縫を学びました。しかし、彼女は孤児院で育った事、キャバレーで働いていたこと、ナチスと関係があった事などをあまり表だって話しませんでした。むしろ話を作り替える事が多かったそうです。

孤児院育ち → 貧しい少女 → 歌手 → 愛人 → 帽子屋 → ファッション革命家 → 香水王 → 世界的セレブ。

歴史家の視点からは、現在のシャネルには、「実在したガブリエル・シャネル」と「本人が作り上げた伝説のココ・シャネル」の2つの像がある。

彼女の最大の才能は服を作ったことではなく、「ココ・シャネル」という人物をブランド化したことだとされています。

 

 

1971年1月10日、パリのリッツホテルにて死去、享年87歳。彼女の墓はスイス・ローザンヌにあります。ここにも「5」つのライオンの像があります。

写真の説明はありません。

8月18日は文豪・バルザックの命日です。

 

オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac ) 1799年5月20日 ロワール地方・トゥールで生まれる。 1850年8月18日パリで没、享年51歳。

 

フランスを代表する小説家だがジャーナリストとしての顔も持つ。代表作に『ゴリオ爺さん』、『谷間のゆり』などがあり、ドストエフスキー、トルストイなどのロシア文学にも多くの影響を与えた。あらゆる視点で善人と悪人、金持ちと貧乏人、理性と欲望、聖と俗などを俯瞰的に捉えた作品群は、多くの後身から「彼こそ天才」と呼ばれる。

(彼の作品紹介やその書評はウキペディアに任せよう)

 

彼の幾つかのエピソードを、、。

 

1)彼は夜中に起きて、濃厚なトルコ風コーヒーを飲みながら執筆するという生活をしていました。1日に30~40杯、あるいは「50杯飲んだ」とする逸話さえあります。しかもブルボン、マルティニーク、モカという3種類の豆を自分でブレンドしていたそうです。友人によれば、良いコーヒーを探すためにパリ中を何時間も歩き回るほどのこだわりだったとか。現在のMaison de Balzacには、彼が使ったコーヒーポットも残っています。

 

2)彼は若い頃からお金の使い方が非常に下手でした。

印税などで稼いでも、また使ってしまう。そして借金を返すためにまた書く。

書いて稼ぐ→借金を返す→また借金する→さらに書く

という無限ループだったそうです。その上、ある時はパイナップル栽培を始めようとしたり、さらにサルデーニャ島へ行って銀鉱山への投資まで考えました。

しかし当然のように、どちらもうまくいきませんでした。

彼の人生で借金は返済できなかったそうです。

 

3)その借金が故に、彼は幾度となく転居を繰り返します。パリ16区のMaison de Balzacは、現在彼の博物館になっていますが、彼がここに転居した理由は、入り口が2つあったからと言われています。表口から借金取りが来ると、別の出口から逃げていたそうです。

 

4)彼はある時、金や宝石をあしらった非常に派手なステッキを作らせました。当時のパリでは、このステッキがものすごく目立ち、本人も自慢していて、「このステッキを持つ男なら、安物のボタンを付けた服など着られない」というような調子で、今度は服のボタンまで金製にしました。

このステッキはあまりにも有名になり、なんと作家デルフィーヌ・ド・ジラルダンが、『バルザック氏のステッキ(La Canne de M. de Balzac)』という作品を書くほどでした。

借金になるわけですね。

 

5)執筆中はコーヒーとパン程度で何時間も過ごすのに、仕事が終わると猛烈に食べました。出版社のウェルデの証言によると、ある時のバルザックは、

牡蠣100個

羊の骨付き肉12本

鴨料理

ヤマウズラ2羽

ノルマンディー風の舌平目

などを食べたとされています。

ウェルデは最後に、

「すべて容赦なく平らげた。残ったのは骨と魚の骨だけだった」と記録しています。ほんとかな?

 

6)バルザックには、ポーランドの貴族女性エヴェリーナ・ハンスカ(Ève Hanska)という生涯の恋人がいました。

二人が最初に出会ったのは1833年。その後、18年間にわたって手紙を交換しました。

つまりバルザックは、現在で言えば「超長期の遠距離恋愛」をしていたわけです。そして1850年3月14日、ついに二人は結婚。ところが……バルザックは結婚からわずか5か月後の8月18日に亡くなります。

彼の借金は彼女の持参金で清算されました。

 

 

 

ペール・ラシェーズ墓地に眠る。

 

記念碑の画像のようです

 

 

シャンゼリゼ通りのすぐ脇にrue Balzac があります。バルザックはこの通りの部屋でなくなり、彼の死後、通りの名前が現在のrue Balzacに変更になりました。良質な映画を上映するCinema Le Balzac や 高級ホテルHotel Balzac(中に3つ星レストラン・ピエール・ガニエール)があります。

 

 

バスティーユ広場、通り、サクレ・クール寺院、ブランデンブルク門の画像のようです