来たるお誕生日によせて②:知らなくてもいいこと | 覚え書きあれこれ

覚え書きあれこれ

記憶力が低下する今日この頃、覚え書きみたいなものを綴っておかないと...

すでにご存じの方、お読みになった方も多いと思いますが、イタリア在住のNympheaさんがとても鋭い記事を書いていらっしゃいます。

 

 

 

 

 

Nymphea さんとはかなり昔から交流がありますが、もちろん私たちの共通点は羽生結弦ファンであること(海外在住であること、もありますが)。普段からけっこうコアなトピックで意見交換をしたり、一緒に笑ったり憤慨したり、とても楽しくお付き合いさせて頂いています。

 

この度の記事でNympheaさんが取り上げていらっしゃる日本のメディアに関しては、ちょうど私も似たようなことを考えていたので「あ、また先を越された」と思ったのも束の間、あまりにも理路整然としていて、かつ深い考察に満ちていたので、「いやいや、こっちが先に書かんで良かった」と思わされたことでした。

 

というわけで私はNympheaさんの記事の尻馬に乗ったような形で、話を始めさせていただきます。(その後はどこにどう展開するか、全く保証できません)

 

 

***

 

私はカナダにいる時、ほとんどテレビを見ません。ネットフリックスやアマゾン・プライムなどのサブスクリプションは家族でシェアしているので一応、備わっていますが、普段はスポーツの生放送ぐらいしか見ることがないのです。(それでさえも一時に比べると激減しています)

 

ところが日本に帰って来ると、かなり長時間、特に日中はテレビをつけていることが多い。

 

何なんだろう、と自分でも不思議に思います。

 

もちろん、最近は母があまり外に出られなくなってテレビを見る時間が増えたこともあるのですが、とにかく日本ではテレビに触れている時間が長い。

 

そこでいつも感じるのが「どうして同じニュースや話題が、何度も、どのチャンネルでも取り上げられるんだろう」ということです。(あと「なぜ、やたら妙なキャラクターや人形が大人向けの番組でも登場するのだろう」というのも謎ですが、それについてはまた別の機会に)

 

まさに引っ切り無しに、朝から夕方にかけてどの番組でも同じ事件やゴシップが議論されているので、いったいどのチャンネルを見ているのかも分からなくなります。

 

そしてもう一つ、専門家でもない人の意見をどうしてあんなにフィーチャーするんだろう、ということも思います。お笑い芸人やその他タレントはもちろんのこと、コメンテイターとか言われる人らも訳がわからない。あんなに何でもかんでもについて、ちゃんと語れる人がいるはずないですよね。

 

私がパンデミック以来、すっかりハマっているフランスのテレビ番組「C dans l'air」では毎日異なる時事ニュースをテーマに掲げて、その分野の専門家を4人ほど招いて議論します。

 

 

 

 

知識の深いメンバーが揃っていれば聞いていても勉強になりますが、日本のワイドショーでコメントをしている人たちはいったい、どういった基準で選ばれているのでしょうか。

 

まあ、以上のことはこれまでも感じていたことですが、この度の羽生結弦さんの私生活に関する騒ぎでは、改めて

 

「なんであなたみたいな、羽生さんのことを全く何も知らない人の言うことを聞かされなくちゃいけないんだ」

 

と腹が立つやら、笑えて来るやら。そして改めて思ったことは以下のとおりです。

 

私はだてに12年も羽生結弦を応援してきているんじゃない。

 

もちろん、私は彼に関して権威でもなんでもないし、彼について全てを把握しているわけではないけれど、たぶん私が知らないことは「知らなくてもいいこと」なのだと思う。

 

それでも十分、彼の演技が格別であることは分かるし、他の誰の演技よりも好きだ。そしてこれからもずっと応援していくことを確信している。

 

誰が何と言おうと、そこは揺るがないから大丈夫。

 

 

*****

 

ここでちょこっと余談です。

 

 

私のブログを読んでくださっている方ならご存知かと思いますが、私の祖父は画家でした。若い頃からそこそこ人気があり、私がフランスから日本に戻って来て祖父母と同居し始めた1970年代にはかなりの名声を得ていました。

 

 

 

 

 

有名人と一緒に暮らしていると、とても不思議な体験をすることがあります。

 

私が日常的に見ている祖父のことを、私の全く知らない人が街中で語っている。気恥ずかしいような誇らしいような、そして自分の感覚との「ずれ」に驚きます。「お祖父ちゃんは全然そんなのじゃないのに」と思ったり、「他人から見るとそう思われるのかも知れないな」とも納得したり。

 

そして、家族にとって祖父がどういう存在であるのかを知らなくても、祖父の芸術を人々は鑑賞する自由を持ち、感動を受けたり受けなかったりするのだと改めて思う。
 
祖父の人となりが果たしてその作品に本当に反映されているのかどうか、想像の域を出なくても、人々は議論する自由を持つ。
 
でも結局は祖父が私生活でどんな苦悩や悲しみや喜びを経験したのか、その10分の1しかおそらく世間の人々には(そして祖父のことを研究している人にさえ)知られていないだろう、とも思う。
 
 
良いんですよね、それで。祖父の芸術はそれとは関係なく、存在することが出来るのだから。
 
私たちがエンジョイしている全ての芸術家に関しても言えることです。
 
 
******
 
話を羽生さんに戻します。
 
私は羽生さんが競技者として出場した大会を8回、メディアセンターのボランティアとして手伝っています。(2013・2015・2016・2019年のGPスケートカナダ、2017・2018・2019年のCSオータムクラシック、2019年さいたまワールド)。
 
その時の様子はそれぞれのシリーズ記事で書き留めていますが、年々、羽生選手に対するメディアやファンからの注目度が増していくプロセスをある程度、間近で見ることが出来たと思っています。
 
いや、凄まじかった。
 
あんな光景は今後きっと見ることがないだろう、というものを目の当たりにしたことがありました。
 
 
 
2017年オータムクラシック
 

 

2019年さいたまワールド
 
 
2019年スケートカナダ
 

 

 

 

 
その一方で、この大会を無事に乗り切れるのだろうか、とドキドキしたこともありました。
 
 
 
2017年オータムクラシック
 
 
いくら彼を守ろうとしても限界がある。
 
逆に守ろうとすればするほど、それを搔い潜ろうとする人が出て来る。悪いことだと分かっていても、その時の激情に突き動かされて一線を越えてしまうのだろう。
 
危ないから選手出入り口の柵を越えて写真を撮ろうとしないでほしいというと、黒いカーテンをほどこした隙間からカメラやスマホが付きだされる。(これはメディアじゃありません、ちなみに)
 
「そこまでして撮ってどうするんだろ。カメラや携帯を落っことして選手に怪我でもさせたら、それこそ大変なのに」
 
小さな大会では、彼を会場から出すのもひと苦労。
 
その渦中でも羽生選手はいつも辛抱強く、主催者側のセキュリティ体制が整うのを待ち、時にはフッと目線を空に漂わせ、でも最後には周囲にお礼を言って去るのでした。
 
リンクの上では身を削るようにして演技して、メディアの取材では何時間もかけて質問に丁寧に答える。
 
会場の外で、ホテルのロビーで、大挙して待ち構えるファンにも会釈をする。これ以上、彼に何を求めるのか。
 
「結弦くん、君はもう十分、やったよ」
 
と言いたくなるのでした。
 
 
 
*****
 

冒頭に引用させていただいたNympheaさんの記事にも登場する低俗なメディアに関しては、私も常々、腹立たしい思いを抱いています。

 

人のプライベートな領域を、金のために、あるいは注目を浴びたいがために、はたまたお門違いな正義感や個人的な偏執のために侵し続ける者がジャーナリストと呼ばれるのは間違っている。ましてや事件性もなく、倫理的に全く何の問題もないケースとなるとなおさら糾弾されるべきでしょう。

 

それは大前提として、ですが、私たちも自分の好きな有名人やアスリートやアーティストに関して、「知らなくてもいいこと」の線引きをする必要があると感じます。

 

祖父の例を用いて示したかったのは、「彼の芸術作品の鑑賞は彼の全てを知り尽くしていなくても十分、成り立つ」ということでした。

 

私たちはモーツァルトの音楽を聴くとき、彼が実際は映画「アマデウス」で描かれているような人物であったのかどうか(多分、違うでしょうけど)、を知らなくても楽しめるはずです。

 

 

 

 

 

 

でなければ私たちは何をもってある作品が、パフォーマンスが、良いのかそうではないのか、を評価しているのでしょうか。

 

もちろん、知ることによって鑑賞の質が高まるような情報は存在します。しかし私生活に関するゴシップがその類に入るとは思えません。

 

 
そしてもう一つ、大事なことがあります。
 
どんな有名人であっても、彼・彼女には一人の人間としての人生があり、私たちファンはそこにほんの一部分(それがたとえ10年以上もの長期間であったとしても)関わっている時期しかないのだ、ということ。
 
そもそも家族でもなんでもないのだから、立ち入ることが許されない側面があるのは当然だし、決してその人の人生を狂わせるようなことをしてはいけない。
 
私自身、かつては「超」がつくほどのミーハーだったので、偉そうなことは言えませんが。還暦もとうに過ぎて分かったことはさすがに幾つかあります。
 
このテーマに関しては2016年に書いた二つの記事で考えを述べていますので、ご参考までに置いておきます:
 
 

 

 

 

 

 

*******

 

…とまあ、予測通り脈略のない記事になりましたが、以上でここ一週間ほど、頭をぐるぐる巡っていたことを書き出してみました。

 

何かを考えるきっかけになれば、と願いつつ、私は来週になれば自分の息子のバースデーを祝います(それが本筋)。

 

皆様もご自分の生活を大事になさってください。