前の記事へ早速コメントを頂き、ありがとうございました。
ワンオクロックの動画を母にも送ったところ、大音響にはびっくりしていたものの、すごく良い、と言ってくれました。母は昔からロック・コンサートに付いて行ってくれたり、私のライブにも来てくれたりしていたので、けっこう同年齢の人に比べるとロック音楽に理解があるのだと思います。
その後、まだ22歳の甥っ子もワンオクのファンであることが分かり、世代を超えて彼らの良さを語り合えるのは貴重だな、と思いました。
このプロセスの中で、祖父の若い頃から晩年までの写真をじっくりと見る機会に恵まれて、タイムワープしたような気分になったのも面白かったです。
私は3歳で日本を離れているので、物心がついてから初めて祖父に会ったのは1970年の夏、フランスから夏休みを利用して母と兄と一時帰国した時でした。
それから三年後にも一人で帰り、祖父母の家で二カ月ほど過ごしたことがあります。
祖父は当時70才、赤坂迎賓館の大作に挑んでいる真っ最中であり、
(今回、「絵画」の制作中の下絵の写真も見つかりました)
今になって考えればちょうどキャリア晩年のピークを迎えていた頃だったと言えます。
芸術家はアスリートなどと比べると現役でいられる時期が長く、時にはそのキャリアが何十年にも渡ることがあります。祖父の場合は非常に若い時からその才能が認められていたので、作品が広く世に出てから実に60年以上の画業を全うしました。
1926年、弱冠23才でまだ東京美術学校(現:東京芸術大学)在学中に「T嬢の像」が帝展で特選となり
生涯の親友、詩人の竹中郁さんをモデルにした「彼の休息」を卒業制作として提出し、1928年に主席で卒業。
1929年、フランス遊学中に描いた「肩掛けの女」(母によると祖父が最も愛した作品のひとつ)
帰国後(1933‐34年)に「洋和服の二人」などを次々と発表。
結婚して子供にも恵まれ、神戸の山本通の家に大きなアトリエを構え、個人としてもアーティストとしても「順風満帆」の人生を歩んでいたようです。
そんな折、「明治末期から昭和戦前期にかけて存在した官設公募美術展であった「文展」」(後に「帝展」に改まる)が1935年に文部大臣松田源治によって改組されることになります。いわゆる「松田改組」は「美術の国家統制を強化しようとして多くの紛糾を招く事態」にもなったわけですが、それに反旗を翻すような形で7名の若手の洋画家による新しい団体が発足します。1936年の「新制作派協会」(現:新制作協会)の誕生です。
1936(昭和11)年、もともと帝展で活躍していた洋画家の猪熊弦一郎、内田巌、小磯良平、脇田和らによって創設された。その前年、文部大臣松田源治が行なった帝展改組(松田改組)によって、在野の美術団体の有力画家たちが審査員として帝展に加えられた。そうした官展の横暴に異を唱えた新制作派協会の創立時の規約には、「我々は一切の政治的工作を否定し」「官展に関与せず」という言葉が見える。
(以上、青字部分は、artscape を参考に、あるいは引用しています)
新制作派協会を立ち上げた時に7名が掲げた規約を見ると:
1. 我々は一切の政治的工作を否定し、純粋芸術の責任ある行動に於て新芸術の確立を期す。
1. 我々は従って「反アカデミック」の芸術精神に於て官展に関与せず。
1. 我々は独自の芸術行動の自覚に於て、我々の背馳すると認めたる一切の美術展覧会に関与せず。
1. 我々は常に新しき時代の芸術家の結合を与望し、年一回以上の公募美術展覧会を最も厳格なる芸術的態度に於て開催し、以て我々の芸術行動の確立を期す。
1. 我々は以上の芸術的主張に於て新制作協会を盟約す。
と掲げられていて、肉筆の文書には7名の署名が施されています。
そこに祖父のサインが真っ先に印されているのが印象的でした。(実家にいつも送られてくる郵送物で見慣れたロゴの意味も興味深い)
(詳しくは新制作協会のHPにてどうぞ)
新制作協会が発足した経緯については私も以前から聞かされていたので知っていました。
しかし今回改めて認識したのは、祖父のキャリアにおける帝展脱退のタイミング、そしてその後に及ぶことが予想された影響、でした。
1936年と言えば祖父はまだ33才。
若さゆえに情熱と気力も十分あり、自分達の愛する芸術、守るべき権利のために信念を貫くのだ、と祖父が同志と一緒に立ち上がったことは想像できます。たとえそれが体制側からすれば「反逆」としか見なされないことであったとしても。
しかし1936年は私の母が生まれた年でもあります。祖父はとても子煩悩で家族に優しかったので、身体の丈夫ではない妻と二人の幼い娘たちを抱えて大変な覚悟が要ったであろうことも、今の私には良く分かります。
(1941年の写真、左から二人目が母です)
いくら若手の画家として成功していたと言っても、まだまだ先の長いキャリアのほんの入り口にあり、今後どのようなしっぺ返しを受けるかも知れたものではありません。(そして実際、祖父はそういった扱いを受けているのですが、それに関してはまた別の機会に…)
それから徐々に戦争へと向かう不穏な時代に突入して行き、どれだけの不安と葛藤があったのか。
しかし空襲によって大切なアトリエと多数の作品を焼かれても、戦後にやっと手に入れた家を進駐軍に没収されても、祖父の作品にはどれをとっても悲愴感だとか絶望だとかが入り込んでおらず、逆に光と静けさがいつもしっとりと佇んでいるのです。
そしてそれは終生、変わることなく、祖父の作風の特徴として知られています。
今朝もこの件に関して母と電話で話したばかりですが、私が「お祖父ちゃん、大人しい人だったのによく新組織の立ち上げだなんていう大胆なこと、やったねえ」と言うと、母は「いや、大人しくないよ。そうは見えるけど、芯の強い人だったからね」と即答。
声を荒げて怒られたことが一度もない、と母は自分の父親のことを言いますが、私も祖父と一緒に過ごしていて終始、穏やかな人であるという印象しか残っていません。
絵を描いている時はもちろん集中していましたが、制作中に私が(怖いもの知らずだったからか)アトリエにのこのこと入って行っても嫌な顔をしませんでした。芸術家にありがちな神経質で拘りの強いところもなく、そこかしこに置いてあったキャンバスに触れようが、隣で私がへたくそな絵を描こうが、いつも変わらず平静でした。
そんな祖父が跡に残した油彩、水彩画、素描、石版画、銅版画等の作品は全国各地の美術館や個人のコレクションに散らばっていますが、そこに劇場の緞帳、雑誌の表紙絵、連載小説の挿絵や習作・下絵なども含めると一人の人間がどうすればこれだけのものを生み出せるのか、と不思議に思うほどの数と種類に上ります。
しかし80歳を過ぎても毎朝、決まった時間にモデルさんを前にイーゼルに向かっていた姿を思い出し、画家は絵を描いていれば良い、との信条通り、ひたすら描き続けた証なのだと思えば納得も行きます。
そして祖父は若き日に同志たちと灯した炎を、何にもかき消されないようにじっと内に秘めて守り、それが光となって作品に宿って行ったのかな、とも思いました。
今回の実家での作業を通して、月日を超えて祖父からのそんなメッセージを受け止められた気がして、改めて感謝しています。
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オマケです。
さて、これは誰でしょう。