お伝えしたとおり、この記事は羽生選手の早稲田大学卒業のニュースをテーマに書きたいと思います。
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大学卒業、ということで自分の学部生の時のことを思い出してみたのですが、あまりにもお恥ずかしい。四年間、部活でスキーばっかりしていて卒論は確か(冬休み中、教えていた)スキー学校の食堂のテーブルで仕上げたような気がします。ミシェル・フーコーの著書こそ参考文献にリストアップしていたものの、内容はただの感想文と変わらない。
二年後に提出した修士論文はそれより少しだけマシで、海外帰国子女の経験をライフヒストリー手法を使って分析した研究がベースになっていました。
頑張った、とようやく言えるのはこちらに来て7年目に書き上げた博士論文でしょうか。トロント大学に留学が決まった当初は「まあ、5年もあれば取得できるだろう」と思っていた博士号の修了が、結婚、父の発病・看病、妊娠・出産、父の死、子育て、などが重なって延びに延びてしまったのです。人生、いくら前もって計画を立てていても、何がいつ起こってぶち壊しになるか分かりません。
今、振り返ると、よくまあ大きなお腹を抱えて4カ月間、インタビュー調査をするためにトロント市内を歩き回ったものだと思います。しかも当時は運転をしなかったので全て地下鉄とバスを乗り継いで。若かったんですねえ。
そして長男を出産してから二年間、子育てと勉強の両立が大変で、「もう無理ちゃうかー」などと半分、卒業を諦めていたところもあります。
それを何とか思いとどまらせてくれたのが、
「続けるのもしんどいけど、ここで止めて後々、味わう挫折感に比べたらマシかも」
という考えと、
もう一つ、さらに大きなポイントは指導教授からの絶妙なタイミングでの電話でした。
忘れもしない、年明け早々のある日:
「とにかくすぐに第一校を提出しなさい。期限は1月末。そして口頭試問は4月。それで6月の卒業式に間に合うから」
と、穏やかな、しかし有無を言わせない口調で告げられたのです。
「ひえええ、あと三週間で?」などと焦りながらも何とかその第一校を提出すると、あとは不思議なほどにトントン拍子に進んで、気が付いたら口頭試問、そして卒業式の日を迎えていました。
要するに、自分でもやらなければならないのは分かっていたのだから、そこを誰かに「さっさとやりなさい!」と背中を突かれるのを待っていたということでしょうか。指導教授には本当に感謝しています。
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さて、自分の思い出話はこれくらいにして、やっと本題です。
ひとつ前の記事に再掲載した過去記事は、羽生選手が2014年のソチ五輪で金メダルを獲ってから数か月後に書かれたものでした。
自分で言うのも何ですが、あの記事の前半部分、けっこう良い事を書いています。そしてこの度の羽生選手の卒業にも、しっかりと当てはまる気がします。
つまり
これまでのスケーターとしてのキャリア、そして学業や人生そのものに関しても、彼の姿勢はただひたすら「拓く」ことなのだな、ということ。
明るい光がすぐそこに見えていれば、どんなに険しい道でもそれをめがけて突き進むことは出来るけれど、羽生選手の場合は必ずしもそうではなかった。(もちろん私達に見えないだけで、彼には見えている光があるのかも知れないけれど)
とにかく足元が真っ暗でも、気持ちを奮い立たせて、勇気を出して、一歩、また一歩、頑なに道を拓いて進んでいく。その時・その状況で出来ることを、全力を掛けて、積み重ねていく。
決してゴールにたどり着くことが保証されていなくとも。
大きな怪我や病気に見舞われても
修行僧のような生活を余儀なくされても
報われると分かっている努力は出来ても
報われる保証のない努力を続けるのは難しい。
でもこれからもひたすらに「拓く」ことに専念して行くんだろうなあ。
ところで羽生選手の卒業論文。
考えてみると彼が自分の言葉で、科学的にフィギュアスケートの技術について、実際にパソコンに向かってキーを叩いて「書いた」という意味では極めて貴重な著作ではないでしょうか。(ちなみに私が指導教授だったら絶対に恐れ多くて、ビビって、よう指導せん)
これまでさんざん色んな取材に応えて来ているので、あらゆる媒体を通して彼の言葉は伝えられてきているわけですが、それとは全く違う性質のものです。『蒼い炎』シリーズも羽生選手が著者になっているけれど、厳密にはインタビューを元に原稿が編集され、本になっているのだと理解しています。
羽生選手自らの文章が読みたい!と思いませんか?一体、どんなものなのだろう、と知りたくてうずうずしませんか?
絶対に(なるべく近い)いつの日か、公表されることを期待しています。
そしてこの研究が大きなプロジェクトのベースとなって、フィギュアスケートの発展に役立てられてほしいと思います。
そうなれば、きっと新たな道が拓かれることになるでしょう。