振り返りついでシリーズ:エピローグ(一点だけ補足あり) | 覚え書きあれこれ

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記憶力が低下する今日この頃、覚え書きみたいなものを綴っておかないと...

(非常に間抜けな話ですが、最後の最後で集中力が切れたか、一点だけ、補足ありました。よろしく。)

 

 

 

 

北米の各地域でロックダウンが始まった時、ネットフリックスなどで「Must See (必見)」と話題になったのが、NBAの往年のスーパースター、マイケル・ジョーダンの『ラスト・ダンス』というドキュメンタリー・シリーズでした。

 

 

 

 

我が家では長男と私とで見始めたのですが、その中で、ある記者がジョーダンに関して発したコメントがとても印象的でした。

 

Michael played every game as if it was his last

マイケルはどの試合も、まるでそれが彼にとって最後の試合であるかのようにプレイした。

 

Every, single, game

毎試合、例外、なく。

 

There was never a day off

気を抜くことは決して無かった。

 

He knew there was somebody in that crowd that never saw him play before. That's what kept him going

あの観衆の中には、自分がプレイするのを初めて目にする人が誰か一人はいることを知っていたから、それが彼を突き動かしていた。

 

It wasn't "I went to see this guy play and he only got 12 points".

「せっかくあいつがプレイするのを観に行ったのに、12点しか獲らなかった」なんてことはなかった。

 

Didn't happen. 

決して起こらなかった。

 

 

どの試合も全力を尽くして、出し惜しみをしない。

 

プロのアスリートとして、初めて観に来てくれたファンをガッカリさせたくない、という面もあったでしょうが、彼のエリート・アスリートとしてのプライドがそれを許さなかった、というのも理由ではなかったか、と思いました。

 
ジョーダンの特色であった、と言われている「どの試合も最後の試合だと思ってプレイする」といった極限の集中力と自発的な動機付けは、競技種目に限らず、最高峰のアスリートに共通しているものなのかも知れません。
 
羽生選手は、紛れもなく、そんなアスリートの一人ですが、「ラスト・ダンス」に登場するジョーダン以下、多くのNBA選手たちとは違うところもあります。すなわち、彼(羽生選手)ほどの実績と人気を持ちながら、彼ほど周囲への態度が謙虚なスーパースターも珍しいのではないか、という点です。キャリアが長くなればなるほど、そして有名になればなるほど、普通は態度も大きくなっていくケースの方が多いと思うのですけどね。
 
私が知っている大会の場を例に取ってみると:
 
羽生選手のファンなら良くご存知でしょうが、彼は以前から、ジャーナリストによって多数、差し出されるレコーダーを丁寧に並べてあげたり、会見の開始前・終了後には椅子や名札の「お片付け」をしてくれていました。
 
 
IFSのツイッターより:
2016年GPスケートカナダ(ミシサガ大会)の様子
 
 
 
しかし、ここ数年はそういった気遣いに「優しさ」や「悟り」が加わったように感じられるのです。
 
先シーズンに限って言えば、ケロウナの会場で車椅子の女性の方にごく自然にスーッと駆け寄って行ってハグしたり、
 
 
Quadruple Axel 2020 10頁より)
 
 
会見では後輩スケーター(プルキネン君やナム君)たちに暖かい言葉をかけたりして、場を和ませていました。(オータムの会場では同じクラブのコンラッド・オーゼル選手のことも気にかけていました)

また、会場の受付担当の地元ボランティアや、お馴染みのカナダ連盟のスタッフにも終始、笑顔で挨拶を忘れない。SPの後で氷上に投げ入れられたプレゼントの山を素早く回収したチビッ子スケーター達に対しては、「リハーサルを行なって、備えていた」と聞くと、しっかりと会見の場で言及して謝意を述べる心遣いも見せていました。
 
そしてどんなセキュリティ関連の状況が起こっても、とにかく気長に、嫌な顔を見せずに、静かに対応するので、時としてあまりの我慢強さにこちらが心配になってしまいます。試合が始まって、彼の周りの空気がピーンと張り詰め、鋭い刃物のような競技者に変わると妙に安心する始末。
 
単にシーズンを重ねて行くにつれ、大人になったのだ、ということかも知れません。
 
それにしても。
 
 
 
この度のパンデミックにより、「リアルタイム」で進行するスポーツ競技、特にフィギュアスケートに関してはほとんどニュースがない中、選手・メディア・ファンを含めて誰しもが「振り返り」をたくさんするようになっています。非常にフラストレーションが溜まる一方で、私は良い面もあるのだと思うようになりました。いったん、立ち止まって、過去を振り返り、まだ予測しがたい未来に備えつつ、現在をフルに生きることを教えられているのだ、と。
 
毎年、周り巡ってやって来るのが当然だと思いながら、新しいシーズンの幕開けを迎える。そして試合を順々に観て、時には手伝って、はい次、はい次、と流れに乗って気が付いたら終わっている。オフシーズン、アイスショー、新しいプログラムの噂、そしてまたあっという間に次のシーズン。
 
そこに、2020年の3月11日、急ブレーキがかかって、私などはようやく全ての脆さ、有難さを改めて思い知らされました。

 

 

そしてもう一度、5月6日に公開された羽生選手からの動画メッセージを見て、考えさせられました。シニア選手になってから演じた過去のプログラムを順番に披露してくれた、例の動画です。

 

 

 
彼はいつも過去の、小さかった頃の自分と対話している、と言われています。子供時代に描いていた理想像に近づいて、9才の自分に胸を張れるように、どんな時でも全力を尽くす。
 
では機会あるごとに過去のプログラムをエキシビションなどで滑るのは、それと同じように各シーズンごとの自分と対話して、今の自分を確かめるためなのか。
 
また、彼はもしかして未来の自分をも想定しているのかな、とも思いました。時が経って振り返った時に、誇れる自分であるように、今を生きている。その姿勢が彼をスケーターとして精進させるだけではなく、一人の人間としても「奢り」から守っているのかな、とか。
 
過去、そして未来の両方に準拠点に置きつつ、現在の身の振り方を見極める。言うのは簡単ですが、なかなか実行するのは難しいことです。でも彼ならやれているのかも知れないな、などと考えさせられました。
 
 
。。。。
 
 
なんだかつい、固いことをグダグダと言いたくなるのはヒマだからかも知れませんが、この振り返りシリーズを書こうと思った時から、一番言いたかったのは:
 
もしもあの昨年のGPスケートカナダが、私にとって大会ボランティアとして最後の試合であったのだとしても、心残りは(ほとんど)ない、ということです。(*注:失礼、「羽生選手の出場する」というところを抜かしてました。だって、2020年の1月にはカナダ選手権に手伝いに行ってたんですもん。ワハハ。)
 
変にセンチメンタルになるつもりはありませんが、少なくとも今シーズン、国際大会がどういう形態で実施されるのか、あるいは実施されるのかどうかも予測できません。そして今後、私自身、どんな事情で大会ボランティアという大好きな活動に携われなくなるかも知れません。なのでそういう覚悟はしておいた方が良いかな、と思うのです。
 
老体にムチ打って会場の階段をドドドと上り下りしたり、緊張しながら選手のエスコートをしたり、ミックスゾーンや会見場でメディアの方々のお手伝いをするのは本当に毎回、最高に充実した時間です。7シーズン、同じことを繰り返している内に、私なりに「全力投球する」ことがちょっとは身に付いて来たのかな、と自負しています。
 
その上、2019年の10月には、ケロウナのプロスペラ・プレイスで羽生選手の見事な勝利に立ち合えて、本当に嬉しそうな表情で試合を終えた彼を見ることが出来たのです。ワールド用のプロモーション動画を収録する際には、カナダに長く住んでいるので、この国の人たちに恩返しがしたかった、というようなことも言ってくれました。羽生選手は、きっとモントリオールでも全てを懸けて戦ってくれたでしょう。
 
もうホントに十分、満足です。

 


今、ひたすら楽しみにしているのは、このパンデミックについて羽生選手がいつか語ってくれるであろう感想、です。彼ならどんな言葉で解説してくれるでしょうか。

 

 
 
その時を待ちつつ、「振り返りついでシリーズ」を終えたいと思います。(別にこれでブログが終わり、ということとはちゃいまっせ)
 
皆様も引き続き、お元気で。