「イスズ・ベーカリーに寄りたい」
と、無類のパン好きの彼女が言うので、行ってみました。
このパン屋さんは1946年に創業した老舗で、この加納町のお店が本店です。
とにかくここでパンを買い、出ようとするとすぐ隣に看板が出ていて、BAR ACADEMYという文字が見えました。
私がこのバーの存在を知ったのは30年以上も昔のことです。
兄が大学一年生の時、初めてのデートに女の子を連れて行くのにどこか洒落た所はないかと母に聞き、「アカデミーはどうかしら」と母が言ったのでした。
「お祖父ちゃんがよく行ってた、なかなか面白い店よ」
そのアドバイスに従ってガールフレンドを連れて行った兄貴は、一杯のハイボールで1000円以上取られてビビったと言っていたと思うのですが、私はいつか必ず、この店を訪れたいと思っていました。
それがそのままになっていた、ということです。
この話を次男にすると(彼はこの夏、日本でバイトをするため四カ月、滞在しています)、乗り気になり、一緒に行ってみようということになりました。
でも私たちだけではどうも、物足りない。誰か良い道連れはいないかと考えたところ、思い当った方がいらっしゃいました。
神戸の洋画家の石阪春生先生です。
まずは北野坂のステーキ店で夕食を取って、そこから次男と私は徒歩で、母たちはタクシーで雨の中、待望の「アカデミー」へと向かいました。
マスターが一人でカウンターの後ろに立っていて、石阪先生や母を見るととても懐かしそうに歓待してくださいました。
そこから一時間半ほど、色んな昔話に花が咲き、貴重な資料をマスターに見せていただいたり、興味深いエピソードを話し合うことになりました。
母方の祖父は洋画家でした。
親友の詩人や他の画家たちと一緒にこのアカデミーを訪れてはお酒を飲み、様々な議論を交わし、長い時間を過ごしたと言われています。
(この壁に掛かっている3つの写真の内、右下は石阪先生の伯父様にあたられる神戸の代表的な詩人、竹中郁氏です。似てますね?そしてその左の写真は竹中氏と談笑する祖父です。二人は無二の親友でした。)
誰がいつ言いだしたことなのかは定かではありませんが、絵描きたちがアカデミーの壁に「落書き」をしようと思い立ち、それぞれが痕跡を残したのでした(祖父の絵は右上の角にあります)。
その壁が後に有名になり、何十年後も雑誌に取り上げられることになるとは思っていなかったでしょうね。
1995年、神戸を襲った地震はこの壁をなんとか崩さずにおいてくれました。マスターはこの店がなくなっても、この壁だけは美術館に引き取ってもらえるようすでに手筈は整っているのだと教えてくれました。
そしてちょっと衝撃的なことに、このアカデミーも後、そう長くはここにないだろう、というマスターのお言葉。周囲の建て直しが進んでいて、もう抗うことはできないのだそうです。
「だから、皆さんが今日来てくださったのは、なんか運命的なものを感じるなあ」
と言われ、感慨深いものがありました。
ところでこの夜、私は石阪先生と話をしている中でとても心に残る言葉がありました。
私がアカデミーに来ることでレトロな気持ちに浸っていたこともあり、「昭和って良い時代でしたよねー」と言うと、先生は
「いや、あんたらにとって昭和はレトロに値する時代かも知れんけど、ぼくらはちゃうわ。」
とおっしゃったのです。
昭和は石阪先生にとって何よりも「戦争」を連想させるから。
このブログ記事を書くにあたって石坂先生の事を検索をしているとこんな記事(「一枚の繪」に掲載)に遭遇しました:
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16歳の時、神戸大空襲を経験され、九死に一生を得て、阪神淡路大震災では、たまたまトイレに起きたおかげで、家具の下敷きにならなかったという強運の持 ち主。
空襲で丸焼けになった神戸の町で、真っ黒に焼け焦げた死体の山を見た石阪少年は、驚くほど何の感情もわかなかったと言います。「人間は自分が壊れな いため、何も感じなくなるんです。そういう体験をしているから,より耽美的なものに向かうのかもしれない」
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祖父も戦時中に清らかな一枚の絵を描き上げています。
美を求める芸術家にとって、せめてもの抵抗だったのかと思います。