えらいタイトルですが、どうかお付き合いください。
私はこれまでカナダで何度か日本文化についての講義を依頼されてきました。
そういった授業の中で、大学生やもう少し年を召された方々対象に、日本の社会のしくみや文化について自分なりの見解を述べました。
日本人でありながら、いかに日本について自分が無知であるか、そのたびに思い知らされます。
その中でも「宗教」のトピックは難しいと感じました。
色々と調べたり、教科書を読んだり、なるべく多くの日常生活上の観察した結果、日本人は宗教に関して非常に疎いというか、寛容というか、要するに「何でもあり」なのだな、というのが私の結論です。
カナダ、とりわけ私の住んでいるトロントではそれこそものすごい数の文化的背景を持った人々が共存しています。そのため、イスラム教、キリスト教(プロテスタントおよびカトリック)、ユダヤ教、ヒンズー教、仏教などなど、様々な宗教や宗派がそこかしこに礼拝の場所を作り、集っています。
しかし、だからといって、一人の人間が一度にいくつもの宗教を信仰する、という現象はめったに見られません。
ところが日本ではそれがまかり通っています。というか、それがほとんど「通常」なんですね。
よく日本人の宗教に対する姿勢をを外国人に説明する時、
生まれた時は神道(お宮参りをする)
結婚する時はキリスト教(チャペルで花嫁さんはウェディングドレスを着て)
死ぬ時は仏教(お寺で葬式をしてお墓に入れてもらう)
というジョークを用います。
でもそうですよね。
私自身、母方の家族はキリスト教。
父方の家族は仏教。
でも自分自身は旦那の家族がカトリックで、結婚式はカトリック系の教会で挙げてもらい、子どもには洗礼を受けさせました。
クリスマスにはミサにも参加します。
それでも父方の家風に基づいて実家には仏壇があり、日々、お仏飯を備えて線香をあげ、ことあるごとにご先祖さまのお墓参りをします。
あ、そういえば長男が生まれた時は地元の弓鶴羽神社にお参りもしました。
「な、何なんだ、この節操のなさは」
と、自分で思うものの、かといって別に深い抵抗は感じません。
私はこういった日本人の柔軟さは嫌いではありません。ポリシーがない、といえばそれまでですが、形式にこだわる必要はさほどないかな、というのが私の考えだからです。
たとえば
仏壇の前に座ってお線香をあげるとき、私はいったい何に対して、誰に対して語りかけているのか。
ミサに加わる時、私はどういった気持ちでそうしているのか。
どこかの神社で拝んでいる時、何が私をそうさせているのか。
形は何であれ、見上げているものが仏であろうがキリストであろうか、はたまた結びの神か恵比寿さんであろうが、そういったとき、私は私を超える何かに対して畏敬の念を示しているのだと思います。助けを求めたり、癒しを乞うているのでしょう。
社会学者のデュルケーム(ちなみに彼はユダヤ人でしたが)は、人間は自分だけのために生きることはできない(=何か自分を超えたものの存在を信じずにはいられない)と言いましたが、非常に的を得ているのではないでしょうか。
しかしぶっちゃけた話、その対象は何でも良いのです(こんなこと言ったら元も子もありませんが)。
偶像崇拝、というものを禁止する宗教もありますが、私はそれもいいのではないか、と思います。
人間は好きな芸能人がいると、その人の写真を見ていたいと思います。
その人の音楽を聞き、その人のコンサートに行き、その人に会い、上手く行けば握手してもらったりしたいと思います。
それと同じで(えらい乱暴ですが)何か思い入れのある宗教があると、それにまつわる十字架だとか、数珠だとか、お札だとか、何か形のあるものを所有したいと思います。
(これを書いていて思い出したことがあります:私はカトリック系の女子校に通っていたのですが、ある年のクリスマス会で「ナザレのイエス」という映画が上映されました。それを観た一人のシスターがえらく興奮して「イエス様のあの真っ青な目!」とおっしゃったのですが、よく考えればそれは実物のイエス・キリストではなく、単に俳優さんの容貌に関する感嘆ですよね。神につかえる身のシスターでさえも、偶像崇拝は必要だ、ってことの良い例ではないでしょうか)。
それは人間が弱い存在だからであって、別に罰するほどのことだとは思いません。
しかし気をつけないといけないのは偶像を崇拝するあまり、その偶像の形態だとか、在り処にこだわりすぎることだと思います。
それさえちゃんと心得ておけば、何を信じようと、どこでどんな形で拝もうと、それは本質的には「OK」なんじゃないかなあ。
最後に、私の大好きなフランスの小説家、マルセル・パニョルの名作『セザール』からの抜粋をリンクしておきますね。
これははっきり言って、私の兄へのおすそわけです。
この場面では、主人公セザールは病気で死にかけている親友パニスのあの世での行く末を心配しています。
セザールはパニスが天国にたどりついたはいいけど、門の前で出会った神様がキリスト教のそれではなく、
「赤とか黒とか黄色(つまりインディアンとか黒人とか東洋人)とか、あるいは腹が出て腕が何本もあるような(インドの)神様だったらどうする?」
という疑問を投げかけます。
「神様は一人しかいないわよ、私たちの(=キリスト教の)神様よ!」
と、その場にいる女性が憤慨して言いますが、セザールはごく常識的に:
「じゃあ俺ら以外の信仰の人間はみんな、勘違いしてるってことか」
と言います。
ごもっとも。