『金子文子と朴烈(パク・ヨル)』(2017/日本公開2019)
韓国映画。原題は『박열』(朴烈=パク・ヨル)。実話にもとづいて作られた作品。
監督 イ・ジュニク
脚本 ファン・ソング
1923年(昭和12年)、社会主義に焦がれた若者たちが集うおでん屋で働く金子文子(チェ・ヒソ)は、そこで感銘を受けた「犬ころ」という詩を書いた朝鮮人の朴烈(イ・ジェフン)と出会う。朴烈はアナキストで現政府はもちろん、天皇制も否定している。文子もまたアナキストを名乗り、同志という名目で朴烈と暮らし始める。もちろん、そこにあるのは恋愛感情であった。二人は日本人とか在日とか分け隔てなく集う仲間たちと「不逞社」という政治結社を作る。朴烈らはその前に、上海から爆弾を購入し天皇暗殺を企ててもいた。
その年の9月1日に関東大震災が発災し、この時とばかり朝鮮人を悪者に仕立て上げた朝鮮人大虐殺事件が起こる。社会は不安に包まれ、「不逞社」の面々はその渦に巻き込まれる。殊、内務大臣水野錬太郎(キム・インウ)の筋書きにより朴烈と文子は収監され裁判を待つ身となる。そんな中でも一応の人権は保たれ、互いに書簡のやり取りは許されており、離れ離れに拘束されていても思想と相互愛は共有し合えていた。そうして社会変革のために獄中でも闘うことを諦めなかった。
やがて本国へも二人の闘いの様子が伝えられ、支持運動も起こり、内閣は混乱し、二人の処遇がなかなか定まらなかった。しかし皇太子暗殺計画が決め手となり、ようやく死刑判決が出るも、天皇の恩赦で無期懲役と変わる。
一番否定すべき天皇から命を返してもらったことになる、これ以上の侮辱は二人にはなかった…。
文子は獄中で綴った千ページにもおよぶ自伝を残す。
天皇の恩赦によって死刑が無期懲役になる。しかし二人とも怒りに打ち震える。特に文子。
「私の意思で動いた時、それがたとえ死に向かうものであろうとそれは生の否定ではない。肯定である。彼とともに闘った三年の間こそ私は私自身を生きた。」から、文子にとって天皇と国家権力に対する抵抗が死だったのでは?と仲間たちは言う。でも、文子は他殺だったのではとも言われていて真相は定かではない。
一方、断食を続けるパク。「文子は俺を一人死なせないと言った。」無期懲役刑となってから別々の刑務所に収監されることになったため、様子を知り得ない。パクは文子はどうだと弁護士に問う。文子は死んだと伝えた弁護士は、「君は生きてくれ」と言う。パクは「誰よりも長く生きて貴様らがやったことを全部知らしめる」ことを誓う。
いや、、、なにそれまじ腹立つ。
僕らがどんな二人だったのか写真に残そうと、有名な一枚を撮る。その姿(パクの左手)にまさに左翼的思考が現れていて不快。いきりちらかし、みたいな。
もちろん、時代的にも民族的人種的にも、世界の潮流からしても、社会主義思想に陥ってもしかたない。それぞれ理想とする国家観があるのはわかる。だけど、どうしても左翼的思考は若い時にありがちな一時的な自己顕示欲に過ぎない気がしてならない。それで生き延びれられればまた思想転換でおもしろ楽しい人生があったかもしれないのに、思想に命を握られてるってのは限りある命の冒涜に思えてならない。だから腹が立つ。なんなら三島由紀夫でも腹が立つ。まずは命が第一だと思うから。
私も確かに若い頃は天皇の意味も一部の特権階級が動かす社会も、いや、十代であれば学校教育にさえも文句があった。でも大人になるにつれ、種々累々を知るにつけ、考えは変わるし事実見方も変わった。現代においても、この自由な国において社会主義国に憧れる人がいる。理解できない。たぶん、当時を生きていたとして、ひとつも共感できなかったと思う。
命より思想を美徳とした作品だったが、そのわりに思想の前に男女間の恋愛感情がそびえてる。結局、思想より愛の方が勝ることがわかったのは良かった。
韓国名の役者さんが多いのは当たり前にしろ、その日本語は堪能であった。でもやはり、顔はどんなに似てても違うし、金子文子のキャラクターも絶対日本人的ではない。でもそれが金子文子の育ちにも現れていたので、キャスティングは良かったと思う。
★★★
