桜花爛漫 | もとろーむの徒然歳時記

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山が好き、花が好き、クラッシック音楽や絵画、演劇に歴史好き…気ままに書かせて頂いています。

 

枝垂れザクラです。

 

平安末期から鎌倉時代の僧、西行が詠んだ歌に

 

願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃

 

という歌が山家集の77にあります。

 

平安時代の花見と言えば、それまでのウメから、サクラの花見が流行りだした頃です。

 

当然現代とは違い、まだソメイヨシノは存在していません。

 

山桜系かヒガンザクラ系のサクラだったでしょう。

 

枝垂れ桜はエドヒガンの変種で、

 

枝が下垂するものです。

 

大木になり淡紅白色で4月上旬頃に咲き始め、

 

木の寿命もソメイヨシノと比べると長寿で、

 

全国には樹齢何百年という名木が存在します。

 

花が紅色のベニシダレ、八重咲のヤエベニシダレがありますが、

 

この平安末期の頃にも既にあったのかもしれません。

 

 

願わくば、

 

二月の満月の花の下で、死にたいものだとなります。

 

如月2月は旧暦ですから新暦の4月ごろ、

 

望月は15日あたりの満月、

 

2月15日の意味はお釈迦様が涅槃(命日)に入られたと伝えられている日です。

 

西行は歌の通り望月の頃、

 

釈迦入滅の日を待ってその翌日にこの世を去っています。

 

西行にすれば死を予感した時から、

 

飲食を加減してまでサクラとともに散りたかったのでしょう。

 

 

サクラはわずか七日余りで

 

蕾から開花、満開、そして最後は散花と一気に変化します。

 

人はそこに、生き急ぐようなサクラの無常を感じるのでしょう。

 

西行は山家集の78に

 

仏には さくらの花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば 

 

と詠んでいます

 

たてまつれは仏に対する敬意です。

 

自分が仏になったらという将来のことを指していますので、

 

自分に敬意ということではありません。

 

とぶらはという未然形についている接続助詞の「ば」ですから、

 

仮定ですね。

 

自分が死んだ後の話ですから、

 

弔ってくれるかどうか、わからないけれど、

 

もし「弔ってくれるならば」という意味です。

 

已然形なら「とぶらへば」となります。

 

これなら「弔うと」という意味になります。

 

仏となった私に桜の花を供えてほしい。

 

わたしの後世を誰か弔ってくれるならば。と言っています。

 

 


 

清少納言は枕草子の35段、木の花はでは

 

桜は花びらおほきに、葉の色濃きが枝ほそくて咲きたる。

 

とあります。

 

桜は、花びらが大きくて葉の色が濃いものが(良く)枝が細くて咲いているの(が良い)

 

と言って、奥ゆかしさがあると詠んでいいます。

 

また、

 

高欄のもとに瓶の大きなる据ゑて桜のいみじくおもしろき枝の五尺ばかりなるを

 

いと多くさしたれば高欄のとまでこぼれたる

 

高欄の所に、青くて大きな瓶(かめ)を置いて、

 

立派に咲いた桜の五尺ほどの枝を沢山差しているので、

 

高欄の外に溢れるくらいに咲き誇っている。

 

と、枝を五尺に切って花瓶に差して

 

、高欄に外まで花が咲きこぼれた風情をよしとしています。

 

一方、紫式部の『源氏物語』の「花宴」の巻では、

 

光源氏が宮中花宴のあと

 

、朧月夜(おぼろづきよ)という女性と出会い、結ばれるシーンを盛り上げる演出として

 

桜は用いられています。

 

 

なにかにつけて比較される、紫式部と清少納言ですが、

 

紫式部は『源氏物語』の中で桜に一定の役割を与えており、

 

清少納言は『枕草子』の中で、桜の美しい風情について描写しています。

 

ですが、清少納言は桜よりも梅のほうが好きだったようで、

 

木の花は、こきも薄きも紅梅

 

と最初に梅をあげています。

 

今昔物語にも桜を見ることが出来ます。

 

巻第十三第四十三、巻第二十二第五、巻第二十七第二十九、

 

本をひろげると、多くの桜の話が出てきます。

 

枝垂れ桜と新緑の淡い色合いが春を告げる山村風景、

 

冬色が残る木々の間にサクラが春色に輝く風景など、

 

サクラには、底知れぬ幽玄さがあります。

 

それは悠久の昔から、

 

生き急ぐようなサクラの咲き方とその残英を惜しみながら、

 

一斉に若葉を輝かす様に、命の発露を見るような潔さから来るのでしょう。

 

春空に舞う細い枝は経糸、横糸を織りなし、

 

織物を織るようにして風に揺らぎ、無限の桜柄を見ているようでした。

 

 

見渡せば 春日の野辺に 霞立ち 咲きにほへるは さくら花かも

                

(万葉集 巻第十 一八七二)