飛梅飛松伝説 | もとろーむの徒然歳時記

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山が好き、花が好き、クラッシック音楽や絵画、演劇に歴史好き…気ままに書かせて頂いています。

 

福岡県太宰府市にある太宰府天満宮

 

「天神様」の名で知られている学問の神様、

 

菅原道真(すがわらのみちざね)公を祭神としてまつる、

 

天満宮のひとつです。

 

この天神社は全国に二千社あると言われ、

 

太宰府天満宮はその総本宮として、

 

多くの方々の崇敬を集めています。

 

私も高校、大学受験の際には一人で近くの二日市温泉に泊まり、

 

大宰府天満宮に合格祈願のお参りに行きました。

 

その大宰府に、旧暦の違いはあれど

 

今日、一月二十五日、菅原道真公は左遷されました。

 

一時は怨霊とまで言われ、恐れられた道真公、

 

それが天神様と呼ばれ、

 

学業の神様として広く慕われるようになったのは興味深いです。

 

なぜそうなったのか、書いてみようと思います。

 

まずこの菅原道真公の御霊(みたま)がまつられている「太宰府天満宮」、

 

実は、菅原道真公のお墓の上にご社殿を建てて、

 

魂をずっと祀っている神社です。

 

 

時代を遡ります

 

845年に京都で生まれた菅原道真公は、幼少の頃から学問に秀でた人でした。

 

当時、学者としての最高位であった文章博士(もんじょうはかせ)の地位を得て、

 

醍醐(だいご)天皇の治世では、右大臣に任じられます。

 

この時の左大臣は、当時権勢を奮っていた藤原一族の一人、

 

藤原時平(ふじわらのときひら)でした。

 

右大臣、道真公は時平を補佐する役職なのですが、

 

道真公の異例の出世に左大臣、藤原時平に疎まれ、あらぬ罪をきせられ、

 

冤罪を晴らすことも叶わぬまま、

 

無実の罪で大宰府に左遷されることになります。

 

その際、道真公は屋敷で可愛がっていた

 

梅の木、桜の木、松の木に別れを惜しみ歌を詠みます。

 

取り分け可愛がっていた梅の木には、

 

私がいなくなっても春が来たら忘れずに花を咲かせて

 

春の到来を忘れないようにとの想いから詠んだものでした。

 

有名な

 

「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

 

の句です。

 

伝説では、道真公が遠くへ行ってしまうのを知り、

 

桜の木は悲しみで枯れてしまいます。

 

一方梅は、道真公が大宰府に着くと

 

一夜のうちに道真公の元に飛んで来たと言われています。

 

これが有名な飛梅伝説ですが、

 

異説では、伊勢国度会(いせのくにわたらい)の社人である、

 

白太夫という人物が、道真公を慕って大宰府に下る

 

都の道真に立ち寄り、庭の梅を根分けして持ってきたという話です。

 

こちらの話の方が現実的ですが、私はやはり飛梅伝説の方が好きです。

 

 

道真は、大宰府に向かうのに山陽道で下ったという話があります。

 

摂津には道真が船で旅をしたという話が残っているそうです

 

当時の船は、風を帆に受けて進むか、櫂(かい)でこぐしかなかったので、

 

一度に距離を航海をすることは出来ません。

 

港に立ち寄りながらの旅でした

 

途中、長洲(ながす)兵庫県尼崎市))というところで待ちをすることになり

 

道真が、村人に「ここはどこか」と尋ねると

 

村人「ここは長洲と申します」と答えます。

 

道真公は大宰府に流される身立ち寄った港もやはり

 

ながすというのかと、嘆いて歌を詠んでいます。

 

人知れず おつる涙は 津の国の 長洲と見えて 袖ぞ朽ちぬる

 

の詩を聞いた村人たちは、道真公に深く同情します

 

また、あたりのや草までもが道真に同情ししおれてしまうのですが、

 

川の上流から流れてきたねぎだけはしおれなかったため

 

村人の反感を買います。

 

そして出航する日が翌日と迫り、一番鶏の声を合図に出航と決まりましたが、

 

道真公に反感を抱く者が、

 

鶏小屋のとまり木竹に、湯を流しま

 

鶏は足をあたためられ、夜が明けたと勘違いし時を告げます。

 

夜明けにはまだ早かったのですが、道真たちの船は出航してきました。

 

後になって、村人たちは鶏が間違って鳴いたことを知り、

 

その後、ネギを作るのも、鶏を飼うことをやめてしまったということです。

 

話をもどします。

 

長洲を出発した道真公たちは風待ちで、和田岬(神戸市兵庫区)に立ち寄った時、

 

梅の香が漂ってきます。道真公が香りをたどっていくと

 

苅藻川(かるもがわ・神戸市長田区)が海に注ぐあたりにかかる、

 

真野の継橋(つぎはし)のたもとに、

 

一本の梅がたくさんの花をつけていました。

 

梅は良い香りを漂わせ、芳しい香りを道真公に届けてくれました。

 

 

ところが、都に残した松の木からは音沙汰がありません。

 

道真公はそこでまた、詩を詠まれます。

 

梅は飛び 桜は枯るる 世の中に 何とて松の つれなかるらむ

 

すると。松の木は、京の都から空を飛んで、あっという間に道真公のところへやって来ます

 

松は神戸市須磨区板宿近くに落ち、そこで根を下ろしま

 

大きな松の木は、大正年間の雷が原因で枯れてしったそうですが

 

「板宿(いたやど)八幡神社」の境内に、「飛松社」として大きな松の株が奉納され、

 

「大宰府の飛梅」と同じように「板宿の飛松」と呼ばれています

 

また道真公が休むために板作りの小屋を作った所は

 

板宿町(いたやどちょう)、

 

苅藻川の梅の木があったあたりは梅ヶ香町(うめがかちょう)、

 

松の木が飛んできたという場所を「飛松」と呼ばれているそうです。

 

道真がこの地を去った後も、松の木は残り、その高さは30mもあったとされ、

 

「摂陽群談」によると、その姿ははるか遠く

 

現在の大阪湾のあたりからも望まれ、長い間、船乗りたちの目印になったといいます。

 

その他にも各所に道真公にまつわる伝説が残されているようです。

 

大宰府に着任した道真公は侘しい毎日だったようです

 

無実を訴えの日を夢見、憤懣やるかたない日々を過ごしていましたが

 

とうとう果たせず、大宰府に来て二年目、

 

延喜三年(903)二月二十五日、道真公は五十九歳で憤死します

 

 

逸話があります。道真公の門弟の一人が

道真公の埋葬のために亡骸を牛車に乗せて進んでいたところ、

 

車を引いていた牛が座り込んで動かなくなります。

 

これ道真公のご遺志であると考えた門弟は

 

その地に亡骸を埋葬しま

 

その後、道真公を慕う人々によって、お墓の上に祀廟(しびょう)が建てられ、

 

これが太宰府天満宮のはじまりであるとされています。

 

この道真公と牛にまつわる逸話から、

 

太宰府天満宮の境内や日本中の天神社にある

 

御神牛(ごしんぎゅう)は、どれも座り込んでいるという事です。

 

道真公の没後、

 

都で天災、災害が頻繁に起こります

 

なかでも落雷によるものが多く、特に藤原一族に災厄がふりかかります

 

「日本紀略(にほんきりゃく)」、「扶桑略記(ふそうりゃくき)」によると、

 

蔵人頭の藤原菅根(すがね)が病死すると、

 

道真公の怨霊に取り殺されたとささやかれ、道真公の怨敵であった

 

左大臣、藤原時平が病で39歳の若さで亡くなります。

 

その頃から「時平は道真公の怨霊に殺されたのだ。」との噂が広まります。

 

そもそも道真公が大宰府に流されるきっかけが

 

「道真が醍醐天皇を廃し、娘婿の斎世(ときよ)親王を皇位につけようと

 

陰謀をめぐらしている」と密告したのが、この左大臣、藤原時平でした。

 

 

その後、道真公の後に右大臣となった源光(ひかる)が変死、

 

醍醐天皇と時平の妹である皇后、藤原穏子(やすこ)の間に生まれた、

 

皇太子保明(やすあきら)が21歳で突然死。

 

保明の子、慶頼(よしより)親王もわずか5歳で死去。

 

更に大納言、藤原清貫(きよつら)は雷によって、

 

右中弁(うちゅうべん)の平稀世(まれよ)も落雷で、

 

右兵衛佐(うひょうのすけ)の美努忠包(みぬのただかね)も落雷により焼死、

 

紀蔭連(きのかげつれ)は悶死、安曇野宗仁(あずみのむねひと)も焼死、

 

醍醐天皇は衝撃のあまり体調を崩し、8歳の皇太子寛明(ゆたあきら)に皇位を譲り、

 

加持祈祷を行うも、46歳で息を引き取っています。

 

怨霊の恐怖に悩まされたのは天皇周辺だけにとどまりません。

 

平安京はたびたび風水害や疫病に見舞われています。

 

なんとも凄まじい祟りにも思えます。

 

そこで天暦元年(947年)に道真公の祟りを鎮めるために

 

北野天満宮が建てられます。

 

皇室や藤原氏がこの北野天満宮を重んじたため、

 

地方の嵐の神や雷の神をまつる神社が、次々と北野神社の保護下に入り

 

天神社となり、全国にこの天神信仰が広まっていきます。

 

江戸時代、朱子学がさかんになると高名な朱子学者も天神信仰を持つようになり、

 

これによって天神社が学業成就の神として学問の神様となっていきます

 

 

901年(昌泰4年)一月二十五日、

 

菅原道真公が大宰府に流されることなった時、

 

先に書いたように幼い頃より親しんできた梅に

 

「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

 

と詠みかけました。

 

この句にある東風(こち)とは春を告げる風とされ、

 

年が明け、東方から吹くやや荒い風を

 

初東風というそうです。

 

松前船が順風として利用したそうですが、

 

日本海沿岸ではこの東風を「あゆのかぜ」と読むそうです。

 

奈良時代の越中(富山県)で、使われていた方言だそうです

 

この地に大伴家持(おおとものやかもち)が赴任していたことから、

 

春を告げる風は、「こち」と呼ぶことが一般的でしたが、

 

家持は越中で「あゆ」という言葉を知り、

 

の詞(ことば)を自分の歌に、入れたと言われています。

 

さて現代、この飛梅、

 

毎年、境内にあるどの梅よりも、先んじて花を開くそうです。