幸福について考え始めると、

 

まず「その前に自分の生活を立て直せ」という声が脳内で鳴り出す。

 

もっともらしいが、

 

もし生活が整ってから幸福を語る資格が生まれるのなら、

 

私は一生その順番待ちをして終わる気もしている。

 

幸福と不幸は表裏一体だと言われるけれど、

 

実際はそんなに上品に裏返ってくれない。

 

むしろ途中で引っかかり、

 

どちらとも言えない状態で止まることが多い。

 

うれしい出来事があった瞬間に、なぜか不安が先に立つ。

 

例えば少し運が向いたとき、

 

「これから運が落ちてきたらどうしよう」と考えてしまう

 

自分の浅ましさに気づいたりする。 

 

不幸に意味があるかどうかは分からない。

 

待っていれば評価が変わる、などと言えるほど余裕がない日もある。

 

そんなとき人は、意味が見つかるのを待つのではなく、

 

半ば強引に理由をでっちあげてでも前に進む必要があるかもしれない。

 

そうでもしないと、足元から静かに崩れてしまうのだ。

 

結局、幸福も不幸も性格診断のようなものかもしれない。

 

ただし結果を真に受けすぎると、

 

「自分は不幸タイプだから」と動けなくなる日が来る。

 

その瞬間、人は診断結果より先に、

 

測定器そのものを叩き壊したくなる人もでてくるかもしれない。

 

だから今日が不幸判定でも、深刻になりすぎる必要はない。

 

いよいよとなったら、

 

こちらが幸福と不幸の両方に

 

同時クレームを入れる側に回ればいいだけなのだから。 

 

追伸:今日はクリスマスらしいので、一応言っておきます。
 

幸福でも不幸でも、とりあえずメリークリスマス。

 

 

 

※感じ方に個人差があります。 

 

幸福な人が読めば皮肉に、

 

不幸な人が読めばブラックジョークに、

 

どちらでもない人が読めば、

 

ただの独り言に見えるかもしれません。

 

「経験に勝るものはない」と聞くたびに、

 

うなずきながら視線をそらしたくなる。

 

たぶん、分かっているからだ。

 

経験が足りない自分を・・

 

言葉でなんとか整えてきた自覚は、正直ある。 

 

たしかに経験は強い。実際にやって失敗した記憶は、

 

あとから思い返しても妙に鮮明で、理屈よりも説得力がある。

 

恥ずかしさや悔しさごと覚えてしまうから、

 

なかなか忘れてくれない。そう考えると、

 

「経験に勝るものはない」という言葉は、わりと素直に正しい。 

 

ただ、その正しさが、時々ちょっと眩しい。

 

経験を積んだ人の言葉が正論であればあるほど、

 

まだ途中にいる自分は、つい立ち止まって考え込んでしまう。

 

経験の良し悪しを分析することで、

 

「今はまだ準備中なんです」と言い訳しているだけなのかもしれない。

 

 経験は人を柔らかくも、少しだけ頑固にもする。

 

そんなことを分かった顔で眺めながら、

 

経験の少ない自分のほうが冷静だと思っているなら、

 

それもだいぶ都合のいい話だ。 

 

それでも今の自分にできるのは、

 

失敗から目をそらさないことくらいだ。

 

きれいに意味づけする前に、手に余る感じのまま引きずっておく。

 

正直、どう扱えばいいのか分からないまま、

 

しばらく一緒に歩くしかないのだと思う。 

 

経験に勝るものがあるかどうかは、まだ分からない。

 

 分からないまま立ち止まっている時間も、

 

たぶん経験の一部で、 そのうち何かが動き出したら、

 

そのとき改めて考えればいい。 

 

少なくとも今は、無理に悟った顔をしないでいようと思う

 

もしかすると私は、考えているのではなく、

 

考えていると思い込みたいだけなのかもしれない。 

 

「人は考える葦である」と、誰が言い出したのだったか。 

 

正直なところ、私はそんなに立派に考えてはいない気がする。

 

気づけば指が勝手にスマホを開き、考える前にスクロールしている。

 

この時点で、すでにただ揺れているだけの葦に近い。 

 

それでも人は、なぜか考えてしまう。 

 

意味のあることだけでなく、どうでもいいことや、

 

できれば考えたくないことまでまとめて。

 

夕飯をどうするか真剣に悩みながら、

 

栄養バランスを気にする自分と、

 

コンビニ弁当で全部済ませたい自分が、頭の中で小競り合いを始める。

 

たぶんこれが、今の私の思考の最深部だろう。 

 

スマホを置いたと思ったら、今度はコーヒーを淹れる。

 

と思ったら、そのコーヒーを飲みながら、

 

またスマホを触っている。

 

受動的か能動的かなんて区別は曖昧で、

 

現実はだいたい全部が混ざり合っている。

 

考えは前に進むというより、少し歩いて、

 

行き止まりで座り込む感じに近い。 

 

考えた末に何かが「決まる」ことは、実はあまりない。 

 

ただ疲れて、「今日はここまででいいか」と折り合いをつけるだけだ。

 

それでも、こうして立ち止まってしまうあたり、

 

揺れながらも考えるのをやめられない存在なのだろう。 

 

今もコーヒーは冷めかけで、スマホは手元にある。 

 

結局何を考えたのかと聞かれたら、

 

「ちゃんと考えていない自分について考えていた」と答えるしかない。

 

そしてたぶん、この回り道は今日だけでは終わらない。

 

明日も同じように揺れて、立ち止まり、

 

また考えた気になって終わるのだろう。 

 

今日も私は、折れそうで、わりと面倒くさい葦である。

 

そして、この面倒くささから、

 

どうやら簡単には逃げられそうにない

 

今回のテーマはいじめという
 

非常にデリケートな話になりますが、
 

綺麗事かもしれませんが、
 

あくまで自戒を込めて一個人として考えてみたいと思います。
 

正解を出すつもりはないし、
 

誰かを裁く気もなく、
 

ただ少し立ち止まってみようと思います
 

いじめは、殴る人だけで完結する話ではないように思います。
 

必ずしもそうとは限らないが、
 

そう感じてしまう場面もある。 
 

笑う人、見て見ぬふりをする人、
 

正義の名のもとに声を上げる人。 
 

そうした無数の立ち位置が重なって、
 

いつの間にか形になることがある
 

やっかいなのは、「自分は何もしていない」と思っているときほど、
 

その輪のすぐそばに立っている可能性に気づきにくいことかもしれません。
 

正論は、便利に使えてしまう場面があります。
 

掲げた瞬間、自分を安全な場所へ運んでくれるように感じるからでしょう
 

でもその正しさが、誰かを追い詰める燃料になることもあるし、
 

炎上や吊し上げも、形を変えたいじめに見えることがある。
 

かく言う私も、完全な部外者ではありません。
 

たぶん今も、気づかないうちに付箋を貼っている側かもしれません
 

だから偉そうな結論は出せません。 
 

ただ一つ思うのは、「自分は大丈夫」と思った瞬間こそ、
 

少し立ち止まった方がいいのかもしれない、ということくらいです。
 

気づかないうちに、
 

誰かの背中に付箋を貼っていないかだけは、
 

常に意識しておきたいものです。
 

それでも、いつの日か、いじめによって悲しむ人が
 

一人でも減ればいいと、静かに願っています

 

人を励ますのは難しくて、つい慎重になってしまいます。
 

でも、人が落ち込んでいるときにかける言葉は、
 

本当に奥が深く、
 

正解はひとつではないとも思ってます。
 

「大丈夫」と言われて安心する人もいれば、
 

「そんなの当然だよね」と共感されてほっとする人もいます。
 

「無理しなくていい」と受け止めてもらうことで
 

気持ちが軽くなることもあれば、
 

話題を変えて気をそらす方が救われる場合もあります。
 

もちろん、「自分が嬉しいこと=相手も嬉しいこと」と考えるのは危うく、
 

見当違いになることもあります。
 

それでも大切なのは、押し付けず、
 

相手の状態やタイミングを感じ取り、
 

少しずつ手を伸ばすことかもしれません。
 

まあ難しいんですけどね。
 

隣にそっと座る、
 

LINEを一言送る、
 

あるいはチョコを置くだけでも・・。
 

自分が落ち込んだときに欲しい言葉や行動を想像するのもありかもです。
 

まあ私は、元気づけるよりチョコを差し出す専門家に徹しつつ、
 

それでも「明日は今日より少し柔らかく笑える」と信じたいものです