人はなぜ、人を批判してしまうんだろうか。
 

これはあくまで、私なりの観察メモです。
 

私は考えること自体はわりと好きだけど、
 

誰かを評価したり裁いたりする方向の思考は得意ではなく
 

通知表をつける係というより、廊下で様子を見ているタイプみたいです


だからこれは「自分がよく批判してしまう話」でもなく
 

周りを眺めていて、たぶんこうなんじゃないかと思ったことを綴ります。
 

人は、じっくり考えた末に批判するというより、
 

先に心が「ん?」と反応して、 
 

頭はあとから理由を探しに行くことが多い気がする
 

その反応の中身は、 違和感だったり、怖さだったり、 
 

ときには羨ましさや不安だったりする。
 

でもそれをそのまま持つのは落ち着かないから、 
 

「それはおかしい」「間違っていると思う」と 言葉にして並べ直す。
 

すると、わりと立派な批判が完成する。
 

たとえるなら、 心が先に転んで、
 

頭があとから「石につまずいたことにしよう」と 報告書を書く感じ。
 

石が本当にあった日もあるし、 何もないのに派手に転んだ日もある
 

これは善悪の話というより、 人の心のクセの話かも。 
 

そう思うと、批判はナイフというより、
 

自分の中の揺れをメモした付箋みたいなものかもしれない。
 

まあ、その付箋、 貼られた相手には、
 

ただの落書きか、呪文に見えているかもしれないが。
 

なんてことを考えている時点で 私もすでに、
 

付箋を一枚を握りしめている側なんだろうと思う。

 

 

これは恋愛の正解の話じゃなくて、 考えすぎてしまう人間の独り言です。
 

恋愛について語れるほどの経験があるわけではないので、

 

少し距離を取って眺めてみました。
 

恋愛をきっかけにしたトラブルの話を耳にします。
 

そこには「好き」だけでなく、寂しさや不安、承認欲求など、
 

複数の感情が重なっていることだろうと思います。

 

恋愛も単純な好意というより、
 

複雑な感情の集合体なのかもしれません。
 

また、「恋人なんだから分かって当然」という

 

暗黙の期待がすれ違いを生むこともありそうです。
 

境界線や価値観をすり合わせる事も大切で、
 

感情がそれを省略してしまうこともあるようです。
 

善意が、知らないうちに重荷になることもありそうです。
 

一人でも生活が回っている状態での恋愛は、

 

比較的安定しやすいと聞いたことがあります。
 

「一人でも楽しいけど、二人だともう少し面白い」

 

という余白を共有できるからです。
 

ただ、考えすぎることで恋愛特有の熱量まで削ってしまう危うさもあるようです。
 

なお、ここまではほぼ脳内シミュレーションなので、
 

将来の自分がそっと削除したくなる可能性もあるかも。
 

思わず考えしすぎてしまいましたが・・
 

恋愛は人生を豊かにするものと言われるけれど、
 

同時に、考えなくていい理由を与えてくれるものかもしれない。 
 

それが救いになることも、きっとあるはずと願うばかりです。

 

 

AIに丸投げすると、人間の思考はどうなるのか…考えすぎても疲れるし、
 

考えなさすぎても退化する。脳は筋肉と同じと言われるけれど、
 

文字や電卓で記憶や計算を外注してきた歴史を考えれば、
 

余ったリソースでより複雑な抽象や創造に挑んできた
 

だからAIに任せても、退化とは限らない。
 

丸投げしたくなる不快さはやっぱり人間らしさの証かもしれない。
 

慣れた世代にとって違和感はないかもしれないが。
 

でも今日も、悩んだ末に

 

「まあ、とりあえずコーヒーでも飲もうか」と自分に言い聞かせる。
 

その小さな休止の間に、
 

AIの提案を疑い、別の角度から検証してみる。
 

結局、人間って便利と不安のあいだで揺れる生き物で、
 

その揺れを意識して選択する瞬間こそが「らしさ」の証なのだろうと思う。
 

…とは言いつつ、実際のところ自分もかなり丸投げしてるんですけどね。
 

そして正直なところ、
 

丸投げして空いた時間で本当に

 

「より複雑な抽象や創造」に挑んでいるのかと言われると、
 

スマホを眺めてさらに脳を消費しているだけだったりするのも現実です。

はい ごめんなさい

 

正直に言うと、結婚について語れるほどの経験はない。 
 

未婚だし失敗談すらない。あるのは想像力と、少し考えるくらいだ。
 

それでも、よく聞く「恋愛と結婚は別物」という言葉について、
 

考えてしまうことがある。
 

たしかに恋愛は、当事者同士が楽しくて幸せなら、それで成立することもある。
 

極端に言えば、世界に二人だけでも回る。気持ちが中心で、身軽だ。 
 

一方で結婚は、気持ちだけでは回らない。
 

一緒に暮らし、仕事やお金の話をし、家族や親戚とも関わる。
 

名前や制度の問題も出てくる。
 

気づけば関係者が一気に増えて、生活という現実が前に出てくる。 
 

だから「結婚は仕組みだ」と言われるのも、わからなくはない。 
 

ただ、ここで少し立ち止まってみる。
 

仕組みを大事にしすぎると、家庭が会社みたいにならないだろうか?
 

効率や合理性は上がるけれど、意味のない会話や、甘えたり、
 

無駄に悩んだりする時間が削られてしまう気もする。 
 

人と暮らすって、本来もう少し不器用なもののはず。
 

逆に、恋愛は二人の世界、だけど信じすぎるのも少し危うい。
 

どんなに好きでも、病気になったり、
 

お金に困ったりすれば、医療や仕事や家族と無関係ではいられない。 
 

恋愛だって、実は最初から社会とつながっている。 
 

「純粋な気持ちだけの関係」というのは、
 

少し綺麗にしすぎた物語なのかもしれない。
 

そう考えると、恋愛と結婚の間に、はっきりした線なんて本当はない気がする。
 

結婚しても恋愛みたいな距離感の人もいれば、

 

結婚しなくても生活を共にしている人もいる。
 

そこには正解不正解はなく、それぞれの濃淡やグラデーションがあるだけだ。
 

理屈で考えすぎると、重たく見えて一歩が出なくなるし
 

何も考えずに飛び込むと、後から現実に足を取られる。 
 

たぶん必要なのは、完璧な答えじゃなくて、
 

傘を持ちながら少し濡れる覚悟なのかも。
 

まあ、ここまで語っておいて、結婚したことは一度もない。 
 

育ったのは覚悟ではなく、想像力のほうでした。 
 

ちなみにこの気づきは、洗濯物を干しながら突然降ってきた。 
 

どうやら、全員ではないにせよ、現実的な作業ほど
 

思考が勝手に深くなる人種がいるらしい 
 

皆さんはどうでしょう

 

「煩悩とは、ほどよく距離をとって付き合うもの」そう言えたら楽だけど、
 

実際はだいたい無理だ。怒りや執着の真っ只中では、
 

距離どころか自分の居場所すら見えない。仏教の中道も、
 

「まあまあ」で済ませる妥協ではなく、
 

何度も落ちながら渡る綱渡りだったはずだ。

煩悩は可愛い同居人ではなく、

 

最初からOSに書き込まれた仕様みたいなものかもしれない。
 

ときどき誰かを深く傷つけ、やめたいのに抜け出せない泥沼も生む。
 

修行とは、立派に勝つことより、負け続けて情けなさを知り、
 

少しずつ手放す練習なのかもしれない。
 

…とはいえ今日はもう限界なので、悟りは明日に回し、
 

敗北宣言をして布団に避難する。
 

これもまた、煩悩OS搭載型人間の通常運転、たぶん。