気づけば私も、順位を嫌っているつもりで、

 

しっかり順位を意識しているところがある。

 

しかもその自覚すら、

 

どこかで自分を救う材料にしているのだから始末が悪い。

 

 順位をつければ、努力の方向が見えやすくなる。

 

そう思っていた。

 

だがその方向は、たいてい誰かが引いたコースの上にある。

 

順位は地図ではなく、

 

目的地まで親切に誘導してくれる標識だ。

 

どこへ向かわせたいかは、走る前から決まっている。 

 

それでも私は確認する。「今、どの辺にいるのか」を。

 

表向きは不安の解消だが、本音では、

 

誰かより下ではないことを確かめたいだけなのかもしれない。

 

確認という言葉は、優越感という欲を、

 

ずいぶん上品に包んでくれる。

 

 さらに厄介なのは、

 

順位が一面しか切り取らないと知っていながら、

 

それを全部のように扱ってしまう点だ。

 

人を多面的に理解するのは面倒だし、

 

自分を多面的に見るのはもっと面倒だ。

 

だから数字に預けて、考える手間を減らす。

 

順位は思考の省エネ装置でもある。 

 

そして私は、そこに「反省」という免罪符を貼る。

 

反省している自分は、無自覚に比べている人間よりはマシだ、と。

 

ここでまた、小さな順位が生まれる。

 

結局、降りたつもりのレースを、

 

別のレースにすり替えているだけかもしれない。 

 

気づけば、逃げ場はない。

 

順位をつけても苦しく、嫌っても安心できない。

 

それでも私は、反省しながら、こっそり確認する。

 

 ……もしかすると人間は、順位が好きなのではなく、

 

降りられない遊びをやめられないだけなのかもしれない。

 

なお、私は今日も参加費無料だと思って、しっかり参加している。

 

どうやら私は、「失ったもの」ばかりを必死に数え、

 

「得たもの」はそもそも計算式に入れていないらしい。

 

人生から引かれた数字だけを電卓で連打し、

 

足されたはずの数字は、いつの間にか使途不明金として扱われている。

 

何かを得るということは、同時に何かを手放すことでもある。

 

時間、体力、選択肢、そして「もしも別の道を選んでいたら」という想像。

 

成長を得れば無邪気さを失い、安定を得れば刺激を失う。

 

これは交換条件というより、

 

最初から同意した覚えのない人生の利用規約のようなものだ。

 

しかもその規約は、定期的に内容が更新される。

 

厄介なのは、価値が取得時の価格ではなく、

 

完全な変動相場制である点だ。

 

失った直後は暴落したように見えるものが、

 

何年も経ってから急に評価を上げることがある。

 

一方で手に入れた瞬間は輝いていたものが、

 

気づけば減価償却すら考慮されないまま、

 

静かに資産一覧から消えていることもある。

 

得ることだけを正解にすると、失うことは失敗に見える。

 

でも両方がセットだと分かっていても、人は簡単には納得できない。

 

結局私は、「これは損失ではなく付属品です」と書かれた伝票に、

 

人生側から差し出されたまま、半ば不本意な顔で検収印を押すしかない。

 

人生はプラスマイナスゼロ――そう言い切れたら楽なのだけど、

 

計算式は毎回変わるし、電卓はときどき壊れて、ありもしない数字を表示する。

 

だから今日も私は、何かを得て、何かを失いながら生きている。

 

ちなみに最近失ったのは、若さと記憶力。得たのは老眼と白髪、

 

そして考えすぎる癖だけが、なぜか改善しないということです。
 

この文章を書いている間にも、何かを失い続けているかもしれない。
 

それでも今は答えがなくても、考えてきた時間だけは確かにここにある。
 

そしてその時間は、案外、最高のプレゼントなのかもしれない。

 

最近、自分の口から出た言葉を思い返して、

「ああ、また余計なことを言ったかもしれない」と、

あとから小さく反省することがあります。

言葉って不思議で、相手に届く前に、

まず自分の胸に落ちてくるような気がします。
 

「ありがとう」と言えば少し救われるし、

何気ない愚痴は自分の中で尾を引いたりもする。

言霊というのは、きっと言葉そのものの力というより、

その場に生まれる空気の変化なのだと思います。

ただ正直に言えば、いつも前向きに受け止められるわけでもありません。

反省してはクヨクヨし、「まあ笑い話にしよう」と思い直して、

また少し揺れる。その繰り返しです。
 

「ありがとう」や「おつかれさま」も、万能ではありません。

ときには距離を測り間違えて、余計な一言になることもある。

でも、それでも黙り込むより、

少し不格好でも言葉を差し出してみたいと思うのです。

言葉は完璧に操るものではなく、癖のある相棒のようなものだから。
 

だから今日も、慎重になりすぎた自分を横目で見つつ、

小さく「ありがとう」と口にしてみます。

うまく伝わらなくても、せいぜいコーヒーをひと口こぼすくらい。

テーブルを拭きながら、「まあ、こんな日もあるか」と思えたら、

それもひとつの言霊なのかもしれません。

 

このテーマもかなりデリケートな話ですが、

偉そうに語るほど立派な人間ではないし、

正直に言えば、誰かの言動を見て「それ言わなくてもよくない?」と

心の中で引っかかったことは何度かあります。

もちろん、それを誰かに投げ掛けたことはない。

思っただけで終わらせてきた、という程度の話です。

誹謗中傷という言葉は、

どこか特別に悪い人だけが使うもののように聞こえますが、

でも実際は、怒りや苛立ち、正しさへの自信が少し混ざっただけで、

わりと簡単に手の届く場所に転がっている気がします。

批判との違いも、文章にすると明確なのに、

感情が先に立つと急に境界線がぼやける。

書いている本人は「指摘」のつもりでも、

受け取る側には「攻撃」に見えることがある。

しかもやっかいなのは、書き手の意図がどれだけ丁寧でも、

それが伝わる保証はどこにもないという点だ。

善意は、デジタル空間では思っているより、

ずっと簡単に無効化される。
 

ただ一つ気になるのは、誹謗中傷が増えるほど、

言葉そのものの信用が目減りしていくことだ。

本当に必要な批判まで「また石投げか」と聞き流されてしまう。

これは投げられる側だけでなく、投げる側にとっても、

わりと損な話だ……と、理屈では思う。

もっとも、その損得すらどうでもよくなる瞬間が、

人には確かにあるのだけれど。
 

まあ、理屈は色々考えたけれど、結論はわりと身も蓋もない。

 誹謗中傷を打つ暇がある日は、だいたい自分の心も荒れているイメージ。 

心に余裕がないと、指はなぜか画面のほうへ向かう。 

どうやら人類は、怒ると進化ではなく、入力速度が上がる生き物らしい。

なのでせめて、指と目を痛める前に心のほうが先に静まってくれることを、

私は静かに願っている。 

もし読んでいるあなたがちょっと心をザワつかせているなら、

まあ、とりあえず深呼吸して、

少しだけ画面から目を離してみるのも悪くないかもしれない。 

そのうち、指と目は自然と画面よりも
 

チョコレートの包み紙を探すかもしれませんね。

 

 

          

正直に白状すると、

私はこのテーマを語るたびに
 

「お前の経験値で語るな」と自分にツッコミを入れたくなる。

男女の友情が成立するかどうか以前に、

自分の人間関係がだいぶチュートリアル止まりだからだ。

とはいえ、考えること自体は自由だと思うので自戒を込めつつ話を進めたい。

男女の友情は成立する、という人もいれば、

成立しない、という人もいる。

どちらも嘘ではなく、たぶん条件が違うだけなのだと思う。

恋愛感情が完全に消えた関係、

最初から互いを「異性」として見ていない関係、

あるいは距離感や立場をきちんと管理できる大人同士なら、

友情は案外成立するかもしれない。

一方で、どちらかの期待が少しでもズレた瞬間、

その友情は薄氷の上を滑り始める。

友情だと思っていたのは自分だけで、

相手は別の可能性を温めていた、なんて話は珍しくない。
 

そもそも「友情」という言葉自体が便利すぎるのかもしれない。

安心したい時は友情、都合が悪くなると男女、という使い分けが、

議論をややこしくする。

友情が壊れたのではなく幻想が剥がれただけ、という場合も多そうだ。

結局のところ、男女の友情が成立するかどうかは、

人ではなく関係性の問題なのだろう。

成熟すれば成立し、未熟なら崩れる。

ただし例外も山ほどある。

つまりこの議論が尽きない最大の理由は

人間が思った以上にややこしく、

感情の取扱説明書が誰にも配られていない生き物だからだと思う、

というあたりで手を打つのが無難なのかもしれない。

そんな大げさな話をしておいて何ですが、

どうやら私は、勘だけを頼りにやっているらしい。 

レベルアップの気配は、今のところ見当たりません。