継続は力なり、というが。

そう言われるたび、私は少し身構える。

 

なにしろ私は三日坊主ですらなく、

 

だいたい二日半で飽きる人間だと思う。

 

もっとも、この「二日半」という言い方自体、すでに予防線である。

 

三日続かない自分を、先に差し出しておくことで、

 

これ以上責められない位置に逃げている。

継続はたしかに力になる。だが同時に、

 

「続けられない自分」を測るための、

 

やけに精度の高い定規でもある。その定規が痛いので、

 

私は継続を再定義したくなる。休むのも、離れるのも、

 

やり方を変えるのも継続だ——などと、もっともらしく言い換えながら。

ただ、この「微調整」という言葉は危険だ。

 

挫折も飽きも、全部ここに押し込められる。

 

「今は調整期間だ」と言い張れば、何もしないことさえ継続になる。

 

定義が広すぎて、もはや努力なのか言い訳なのか、区別がつかない。

さらに厄介なのが、「続ける前に、ちゃんと考えろ」という結論である。

 

これは継続のライバルだ。

 

ちゃんと考え始めた瞬間、

 

人はだいたい「やらなくていい理由」を見つけてしまう。

 

考えることで、動かない自分を守る。

 

私はその技術だけは、無駄に身についている。

……と、ここまで理屈を並べておいて何だが、

 

実はこのブログに関して言えば、

 

すでに三日坊主ではなくなっている。今のところ、続いてはいる。

 

もっとも、この先どうなるかは、まったくわからない。

そもそも、この自己分析自体、

 

明日の朝には半分くらい忘れているに違いない。

 

残り半分も、二度寝と一緒に失われるだろう。

だから今日も、私は言い訳を丁寧に磨く。
 

継続は力なり。
 

少なくとも、この言い訳だけは、しぶとく続いている。

 

Coming Soon

「お金か、愛か」と問われると、私はいつも答えに詰まる。


愛を大切にしたい気持ちはあるのに、

 

クレジットカードの引き落とし日が近づくと、

 

その決意は驚くほど簡単に揺らぐ。
 

実際、私は「この人となら何もなくてもいい」と

 

思えるほど誰かを信じきる前に、「今は無理だ」と

 

先回りして自分を納得させてきた気がする。

 

けど胸は少し痛むが、胃は守られる。

またお金は冷たい。

 

だが正直だ。
 

足りなければ関係は荒れるし、余裕がなければ優しさは減る。
 

愛があれば何とかなる、という言葉は美しいが、

 

何ともならなかった例はいくつもある。
 

お金が尽きると、愛は支え合いから責め合いへ、

 

思いやりから計算へと、簡単に変身する。

一方で、お金だけを選ぶ人生も、案外しんどい。
 

愛のない安全な場所では、孤独は静かに長居する。
 

ここで言う愛は、理想的な思いやりではなく、

 

嫉妬や依存、面倒くささ込みの「誰かに執着してしまう感じ」だ。
 

それは不合理で厄介だが、生きている実感だけはやたらと強い。

結局、極限状態では、私はお金を取ってしまいそうだ。

 

でも、その選択を一生正解だとは思えないだろう。
 

愛を失わない程度にお金を欲しがり、
 

お金を失わない程度に愛を夢見ている
 

なんとも自己中な思いだ。
 

そして今日も、通帳の残高を確認しながら、

 

誰かからの連絡を待ってしまう

 

そんな矛盾の中にしか、私の居場所はないようだ。
 

まあ、完璧に整理された人生なんて、最初からなかったのだ。
 

愛は未定、お金は宿題、結論だけは毎回先送りである。

 

新年早々、まず自分の心に聞いてみた。

 

「あれ、俺、友達何人いたっけ…?」と。

 

指で数えたら余裕で余りすぎるくらいだった。

 

さて、子どもの歌にある「友達100人できるかな」、

 

どうして100人なのだろう。20だと少し物足りないし、

 

200だと途方もない。100はほどよく夢があり、

 

ほどよく現実離れした魔法の数字なのだろう。


歌詞には「100人で富士山のおにぎり」とあるが、

 

現実には登山渋滞、スペース不足、米は生煮えの可能性まである。

 

さらに100個のおにぎりを誰が運ぶのか、

 

1年生が背負うと「友情の遠足」どころか「友情行軍」だ。

 

入学直後の6歳で100人の人脈を築くのも過酷で、

 

遊ぶ暇もなく社交マシーン化必至。
 

「100人で笑いたい」も要注意。

 

全力で笑えば周囲は騒音、

 

集団ヒステリー扱いの可能性もある。

 

指で数えて足りない瞬間は、11人目以降の印象が薄い証拠で、

 

SNS疲れ的警告とも言える。

 

さらに、達成後の関係維持は歌詞が完全スルー。

 

釣った魚に餌をやらない式の残酷さが潜んでいる。


誕生日を100人に祝われるのも考えものだ。

 

年間100回近くのお祝い返しに追われ、

 

年中誰かのケーキの火を消しに走る日々。

 

酸素不足でふらつき、熱で生クリームが溶ける惨劇がどこかで起きる予感。

 

友情の儀式が文字通り「熱すぎる」瞬間だ。

 

それでも、一人でも心から笑い合える友達がいれば十分幸せかもしれない。

 

100人は魔法の数字、でも友情の尊さは数字では量れない。

 

友達作りを頑張る子供たちも、

 

それを支える親御さんたちも、

 

本当にお疲れ様。

 

100人という数字に追われて疲れたときは、

 

この生煮えのおにぎり理論を思い出して、

 

少し肩の力を抜いてほしい。

 

念のために言っておくが、私はこの歌が大好きだ。

 

ただ、もし本当に富士山頂でおにぎりパーティーが開かれるなら、

 

私は下界から双眼鏡で、

 

そのカオスな友情をそっと見守る役に徹したいと思う。

 

…まあ、もし本当に100人できたら、

 

酸欠覚悟でケーキの火消し係をやるしかないかもしれないが・・・。

 

明けましておめでとうございます。 

 

2026年をスタートができ感謝します。

 

毎年の事ですが、

 

「今年こそは、もう少しマシな自分になりたい」

 

そんな密かな願いとともに、

 

新年を迎えました。

 

年の初めは希望に満ちた言葉を並べたくなりますが、

 

同時に「三日坊主になる確率」も無視できません。

 

だから今年も肩に力を入れすぎず、穏やかに過ごすことにします。

 

おせちを食べたり、特番みたり、

 

そんな小さな時間の積み重ねが「心の豊かさ」につながる気もします。

 

「無理せず自分らしく」を盾に、今年も体を大切に、

 

そして少しの運を味方につけて進みたいと思います。

 

ちなみに三が日が明けるころには、

 

早くも「来年はもっと頑張ろう」と思っている予感もしますが

 

まあ、それもご愛嬌ということで。

 

皆さんは、どんな「密かな願い」とともに新年を迎えましたでしょうか? 

 

本年度もどうぞよろしくお願いします

 

 

 

 

 

大みそかになると、急に一年を振り返る。

 

普段は三日前の夕飯すら曖昧なのに、

 

なぜか一年分の自分を評価し始めるあたり、

 

人間は区切りが好きな生き物らしい。

 

「今年はどうだった?」と自分の心に聞いてみるが、

 

返事はだいたい曖昧だ。

 

良かったこともあれば、嫌な事もあり、反省点もある。

 

とはいえ、それらを丁寧に振り返るほどの集中力は、

 

年末の私は持ってない。

 

大掃除の途中でスマホを開いてしまって、

 

反省はだいたい脱線する。

 

それでも年の瀬に何かを書きたくなるのは、

 

区切りが欲しいからだろう。

 

反省というより、「ここで一度、話を畳んでおきたい」という気持ちに近い。

 

大みそかは、人生の会議というより、

 

ひとまずノートを閉じる日なのかもしれない。

 

また来年の目標も、一応考える。

 

だが毎年ほぼ同じ内容なので、

 

きっと来年も似たような自分でいる事は否定できない。

 

それでもいい。変わらない自分を確認できたなら、

 

それも成果ということにしておく。

 

さて、今年も残りわずかです。

 

深い結論は出なかったが、無事にここまで来て嬉しい、ホッとした。

 

それだけで、もう十分かもしれない。
 

などと真面目な顔で書いているが、

 夜には特番を見つつ年越しそばを食べながら、 

たぶん、きれいさっぱり忘れているかもしれない。

なので忘れる前に、これだけは。

来年も、どうぞよろしくお願いします。

良いお年を。