「あたしと仕事、どっちが大事なのよ」


この台詞を聞くたび、なぜか背筋が伸びる。
 

というより、現場の写真を見せられて、

 

なぜか自分が反省文を書かされている感覚に近い。
 

理屈で考えれば、答えは簡単だ。

 

生活がある。責任がある。仕事は大事だ。
 

でもこの問いは、優先順位の確認ではなく、

 

たぶん「今、同じ水位で慌ててくれるか」という生存確認に近いかもしれない。
 

問題は、そこから先だ。
 

仕事を理由に距離を取るのは、実はかなり卑怯な作業でもある。
 

忙しさは万能の盾で、「向き合えない自分」を正当化してくれる。

 

しかも厄介なことに、それはたいてい事実のような気もする。
 

一方で、この問いを投げる側も、

 

論理的に正しい答えを求めているわけではない。
 

欲しいのは説明ではなく、生理反応かも。

 

困る顔とか、言葉に詰まる沈黙とか、予定が少し狂う気配とか。
 

つまり「私はちゃんと影響を与えている存在か?」

 

という不安の確認なのだと思う。
 

結局この問いに模範解答はなさそう。
 

あるのは、その瞬間にどれだけ無様になれるかだけだ。
 

仕事も大事、でも今はあなたが大事。
 

そう言いながら内心で狼狽している、その姿こそが答えなのかもしれない。
 

……と、現場にすら立てていない人間が、

 

机の上で反省文だけを積み上げている。
 

どうやら私は、恋愛という科目の履修登録の前に、

 

「恥をかく覚悟」を登録し忘れて生きているようです。

 

カーテンの隙間から差し込む月光が、

 

銀色のティーポットに冷たく、

 

あまりにも残酷に反射している。

 

今宵、この静かなリビングで開催されるのは、

 

選ばれし者だけが許される「夜のお茶会」。

 

だが、その高貴な静寂の裏側で、

 

運命の歯車はすでに狂い始めていた。


沸き立つ湯気は、まるで逃れられない過去の執着。

 

男は震える手で、ゆっくりと琥珀色の液体を注ぐ。

 

立ち上る香りはアールグレイ……。

 

だが、その華やかな香りに隠された真実を、

 

女はすでに見抜いていた。
 

(ここで3秒間、たっぷりためる)
 

「……ねえ。これ、いつもの茶葉じゃないわね?」
 

女の低く、氷のような声が、

 

夜の静寂を切り裂く。

 

男の背中に冷たい汗が伝う。

 

隠し通せると思っていた。

 

スーパーの特売で買った、

 

あのお徳用パックの茶葉であることを。
 

「違うんだ……。それは、その……」


「黙って。言い訳なんて聞きたくない。

 

あなたはいつだってそう。

 

肝心なところで、

 

いつも100グラム300円の安らぎに逃げるのね……!」
 

投げつけられた言葉は、

 

磁器のカップよりも脆く、床に散らばる。
 

愛は、温度を失えばただの苦い汁に過ぎないのか。
 

それとも、あの時添えられた「賞味期限切れのビスケット」が、

 

すべての終わりの合図だったのか。
 

次回、第72話、『二度出しされたティーバッグ』。


……夜はまだ、底に沈んだ砂糖のように、

 

甘く、そして救いようもなく、どろりとしている。

 

 

優しさについて考えようと思ったのは、

 

私が何か失敗をすると、

 

改善より先に「反省している自分」を確認して

 

安心してしまう癖があると気づいたから。
 

反省は好きだし。少なくとも、やっている感がある。

 

だがそれは反省というより、

 

たぶん自意識のメンテナンスかもしれない。

 

深刻そうな顔をしているわりに、

 

実のところはとても居心地がいい。

 

優しさも、これとよく似ている気がする。
 

出しすぎれば重たいと言われ、控えれば冷たいと言われる。

 

ちょうどいい優しさを求められる様子は、

 

理想の湯加減を要求される風呂のよう。

 

そして最近、自分がその温度をかなり都合よく

 

調整していることがあることも。。。
 

それを「空気を読む」とか「距離感を測る」などと上品に言ってみたり、

 

我ながらなかなか抜け目がない。

 

さらに言えば、この文章自体もそうだ。
 

整えて、比喩を使って、少しだけ笑わせる。

 

読者のためと言いながら、同時に嫌われないための防具でもある。

 

優しさを疑う文章が、また別の優しさで自分を包んでいる。

 

この循環から、私はまだ外に出られそうにない。

 

結局、ここに具体的な誰かはいない。
 

いるのは「優しさについて考えている自分」だけ。

 

それでも書いてしまうのは、完全に冷たくなる勇気も、

 

無条件に優しくなる覚悟も、どちらも持てないからだろう。

 

今日も私は考え、反省し、たぶん少し誤魔化す。
 

冷水を浴びせるより、ついぬるめの風呂を用意してしまう。
 

ほら、最後までしっかり自分に甘い。

 

実に人間的で、実に厄介です。

 

追伸
 

出口は見えている気がするが、たいていタオルを忘れている。

 

 

 

 

正直に言うと、

 

私はまた余計なことを考え始めた。

 

たこ焼きは丸い。

 

それで何の問題もないのに、

 

気づけば理由を探している自分がいる。

 

考えすぎている自覚はあるが、

 

たこ焼きを前にすると、なぜか脳が暇になる。

たこ焼きが丸いのは、鉄板の穴が丸いから。

 

たぶんそれが一番わかりやすい答えかもしれない。

 

ただ、ふと立ち止まって考えると少し不思議でもある。

 

丸いたこ焼きを作りたかったから穴を丸くしたのか、

 

丸い穴しか作れなかったから、

 

私たちは丸いものを食べ続けているのか。

 

もし後者なら、私は知らないうちに鉄板に人生を委ねていることになる。

丸いたこ焼きは分けやすく、見た目も穏やかだ。

 

一人一個、はい平和。……と思いきや、

 

最後の一個が残った瞬間、空気は少しだけ重くなる。

 

みんな同じ大きさだからこそ、「どうぞ」「いやいや」と譲り合いが始まる。

 

丸さは優しさでもあり、小さな試練でもあるらしい。

そもそも、たこ焼きは完璧な丸ではない。

 

底は少し平らで、焼き色もまちまちだ。

 

でもその歪みが、外はカリッと中はとろっとした違いを生むのかも。

 

きれいに揃っていないからこそ、

 

「この一個は当たりだ」なんて喜びも生まれる。

こうして考えると、

 

たこ焼きが丸い理由は一つではなさそうだ。

 

便利さ、安心感、たまたま、そして少しの成り行き。

 

その全部が、ゆるく混ざって今の形になったのだろう。
 

と、考えているうちに、たこ焼きは冷める。

 

理由はほどほどでいい。温かいうちに食べよう。

 

それが一番、丸くてやさしい結論なのかもしれない。

 

「幸運は不幸な顔をしてやってくる」と、

 

どこかで聞いたとき、私はまず疑った。
 

できれば幸運には、もっと分かりやすい格好で来てほしい。

 

金色に光るとか、効果音が鳴るとか、せめて名札をつけるとか。

 

だが現実の幸運は、だいたい疲れ切った顔で、

 

無言のまま玄関先に立っている。

 

こちらが人生に文句を言っている、

 

まさにそのタイミングで。

振り返ると、

 

どうでもいいことで一日が台無しになった日や、

 

信じていた関係が音を立てて崩れた日が、

 

後になってみれば進路を変える分岐点だった、

 

と思えてしまう瞬間がある。

 

当時は間違いなく不幸だったし、そんな余裕は一切なかった。

 

それでも時間が経ち、傷口がふさがってかさぶたになった頃、

 

ようやく「あれがなければ今も同じ場所で立ち尽くしていたかもしれない」

 

と考えられるようにもなる。

もちろん、すべての不幸が幸運に化けるわけではないし、

 

無理に意味づけする必要もない。

 

目の前で起きている出来事に「これは試練だ」などと

 

格言を貼る余裕がない日もある。

 

むしろ、そんな言葉はうるさく感じることのほうが多い。

結局のところ、幸運か不幸かは出来事そのものより、

 

どれくらい時間が経ったあとで振り返るかによって

 

姿を変えるのかもしれない。

 

私はたいてい、幸運が立ち去ったあとで

 

ふとした拍子に、あるいはずいぶん後になってから、

 

あれはあのことだったのかと気づくこともある。

だから今日もまた、疲れた顔をした来訪者が来たら、

 

追い返さずに、とりあえずお湯を沸かしてみようと思う。
 

正体が幸運じゃなかったとしても、

 

その日は少し温かい飲み物が飲める。
 

もしただの不幸だったら、

 

二杯目は自分で注げばいいだけだ。