人はなぜ、本能に逆らえないのだろう。


深夜のラーメン、寝る前のスマホ、

 

そして「明日こそやる」という誓い。
 

理性は会議室で資料を広げているはずなのに、

 

本能は非常ベルを鳴らしながら廊下を全力疾走している。

 

しかも、だいたい理性の声は通らない。

もっとも、理性が本当に賢いかというと、少し怪しい。
 

深夜のラーメンを前にした瞬間、理性は急に饒舌になる。
 

「明日は忙しいからエネルギー補給が必要だ」「ストレス管理も大事だ」
 

気づけば理性は、本能のために都合のいい資料を

 

量産するお抱え弁護士になっている。

 

冷静というより、弁が立つだけだ。

一方、本能は本能で、少し時代遅れだ。
 

もともとは命を守るための優秀な警報装置だったはずが、

 

飽食と刺激に囲まれた現代では過剰反応ぎみ。
 

「守れ!」と鳴らし続けた結果、

 

血管や睡眠が犠牲になっているあたり、

 

良かれと思ってやっている天然ボケ感が否めない。

さらに厄介なのがスマホだ。
 

あれは本能そのものというより、本能の顔をした詐欺師に近い。
 

本能が「休め」と言っている横で、「もっと刺激を」と脳をつついてくる。

 

親友どころか、だいぶ口のうまい悪友である。

では理性と本能は、きちんと交渉しているのか。
 

たぶんしていない。
 

理性は会議室で踏ん張っているふりをしつつ、

 

「どうせベルが鳴ったら終わるし」とコーヒーを飲んでいる可能性が高い。

翌朝、空っぽのカップ麺を見つめながら、

 

理性は議事録にこう書き込む。
 

「昨日の『明日こそ』は、本日付で再び『明日こそ』に繰り越されました」

——結局、人間は本能に負けているのではない。
 

ただ、全員が期限を守らないまま、

 

それなりに真面目に生きているだけなのだ

 

自戒を込めて言うと、

 

私は世界が残酷だと感じるたびに、だいたい誰かのせいにしたくなる。


昨日も、うまくいかないことが重なり、

 

危うく無関係な店員さんに「世の中全体の代表」として不満を押し付けそうになった。

 

踏みとどまった自分を褒めたいが、

 

内心では宇宙ごと軽く睨んでいた。

人は残酷だ。悪気がなくても、言葉は簡単に人を削る。

 

世の中もなかなか容赦がない。

 

誠実に生きても理不尽は減らず、

 

努力とは別枠で税金と老いだけは確実に徴収される。

 

これは誰の悪意でもなく、逃げ道のない構造だ。

では宇宙はどうか。宇宙はさらに冷たい。

 

祈りに応答せず、説明責任も果たさない。

 

重力は裏切らずに落下を続け、偶然は偶然のまま放置される。

 

そこには希望も絶望もなく、ただ静かな運行があるだけだ。

そう考えると、この世の残酷さは、誰かの性格ではなく

 

感情という概念をインストールし忘れた

 

巨大な時計仕掛けなのかもしれない。

 

人はその歯車の隙間に意味を探し、

 

勝手に怒り、勝手に疲れている。

結局、残酷なのは人か、世の中か、

 

宇宙か。たぶん全部で、同時にどれでもない。
 

私は今日も答えを出せないまま、とりあえず爪を切る。

 

宇宙はそれを、相変わらず一ミリも気にしない。

 

まずは自戒から始めたい。

 

私はどうも、「考えているだけで何か分かった気になる」という、

 

あまり誇れない癖を持っている。

 

思考停止というより、考えすぎて動けなくなるタイプだ。

 

頭の中では何度も人生を立て直しているのに、

 

現実はだいたい据え置きか下降である。

「思考は現実化する」という言葉を、

 

私は何度も聞いてきた。

 

そのたびに少し希望を持ち、少し疑い、結局そのまま忘れる。

 

布団の中で未来を想像し、

 

「よし、今日はもう十分考えた」と満足して眠る夜もあった。

 

今思えば、あれは思考というより、

 

現実逃避に近かったかもしれない。

成功哲学で言われる「思考」は、もっと粘り強いものらしい。

 

願うだけではなく、信じて、何度も考え直して、

 

行動に付きまとうような思考。

 

そう分かっていても、私は途中で疲れてしまう。

 

考えること自体がゴールになり、

 

現実はいつもスタート地点で待ちぼうけだ。

心理学的に見ると、思考は世界そのものを変えるというより、

 

出来事への受け取り方を少し変える力を持っているらしい。

 

電車の遅延や他人の機嫌はどうにもならないが、

 

それを「今日はついてない日」にするか、

 

「まあ、そんな日もある」にするかは、

 

わりと頭の中で決まっている。

とはいえ、前向きに考えたからといって、

 

うまくいくとは限らない。

 

勇気を出してやってみたことが、

 

静かに失敗に終わることもある。

 

そのとき残るのは成長よりも、

 

気まずさや、少しの自己嫌悪だったりする。

それでも思う。

 

思考は人生を劇的に変えてはくれないが、

 

現実と向き合う姿勢くらいは整えてくれる。

 

万能ではないが、無駄でもない。

 

そのくらいの距離感が、私にはちょうどいい。

今日も私は前向きなことを少し考え、

 

そして現実的にコーヒーをこぼした。

 

そのシミを眺めながら、「まあ、これも一つのオチか」と。

 

どうやら思考は、

 

人生の着地場所は教えてくれても、

 

コーヒーの着地点までは制御してくれないらしい。

 

正直に言うと、私も時々、初心を忘れる。


たとえば、夜中に一人で作業しているとき。

 

「なんで私は、こんな細かいミリ単位の調整にムキになってるんだろう」と、

 

自分にツッコミを入れたくなる瞬間がある。

 

もしかすると、寝ぼけているのか、

 

それとも変なスイッチが入ってしまったのか。

 

どちらにせよ、我ながら笑えてくる。
 

けれど、冷静に考えれば、そのこだわりこそが、

 

かつての私が「これ、絶対面白くなるぞ」と根拠のない確信を抱いた、

 

あのヒリつくような情熱のなれの果てでもあるはずだ。

 

それなのに、いつの間にか作業を終わらせること自体が

 

「目的」にすり替わり、最初の一歩を踏み出したときの、

 

あの指先の軽やかさをどこかに置き忘れてしまう。

大人になると、効率や成果という鎧がどうしても重くなる。

 

それは自分を守るための武装なのだけれど、

 

重すぎて身動きが取れなくなり、肝心の「楽しむこと」を忘れてしまうのだ。
 

でも、初心を忘れないというのは、

 

別にずっと無邪気な子供のままでいろという意味ではない。

 

むしろ、成果に追われて息切れしている自分に気づいたとき、

 

「ああ、そういえば最初はこんな気持ちだったな」と、

 

かつての自分に会いに行く感覚に近い。

久しぶりに会う初心は、たいていちょっと滑稽で、笑ってしまう。
 

今思えば、子どもの頃の落書きや、

 

途中で挫折したままの読まない本。

 

でもそこには、今の自分が見失った

 

「自分を飽きさせないための工夫」が詰まっている。

 

その青臭さを笑い飛ばせたとき、目の前の作業は再び、

 

自分をワクワクさせるための「遊び道具」に戻っていく。

 

この小さな気分の切り替えが、

 

行き詰まった夜から自分を救い出してくれる。

初心を忘れたことに、罪悪感を抱く必要なんてない。

 

その「申し訳ないな」という気持ちすら、今の自分がまだ、

 

その物事を大切に思っている証拠なのだから。
 

結局、初心を忘れないというのは、

 

自分を厳しく監視して正解を強いることではないと思う。

 

時々かつての自分を呼び出して、

 

「今の私、こんなに堅苦しくなっちゃったよ」と一緒に面白がる。

 

そうやって自分と仲良く遊ぶ余裕を持っている人の方が、

 

きっと毎日をしなやかに進んでいけるかもしれない。
 

あ、ちなみに呼び出した初心にコーヒーを奢ると、

 

「もっと自由にやれよ」なんて文句がさらに増えるので、

 

そこだけはご注意を。

 

最近、私はつい「今日は運が悪い」と口にしてしまう。


目の前で電車のドアが閉まったり、

 

乗った車両がすし詰め状態だったり。


冷静に考えれば、あと数秒早く家を出ればよかっただけだし、

 

混んでいるのも単なる確率の問題だ。

 

それでも「運が悪かった」と言い張りたいのは、

 

自分を反省して落ち込むよりも、

 

正体不明の「運」のせいにするほうが、

 

心がずっと楽だから。

 

自分を叱るより、

 

運のせいにするほうが得意なのだ。
 

人は時々、世界中から意地悪をされている気分になる。
 

信号がぜんぶ赤だったりすると、

 

「街全体で私を足止めしようとしているな?」と疑いたくなる。

 

本当は、青信号ですいすい進めた日だってあるはずなのに

 

そういうラッキーはあっさり忘れてしまう。

 

どうやら私の脳内ニュースは、

 

悪いニュースばかりを特報で流したがる困ったクセがあるらしい。
 

ここで「それは単なる努力不足だろ」という正論が飛んできそうだが、

 

そのあたりは、もちろん自覚している 。

 

家を早く出ればいいし、

 

電車の混雑予報を見ればいいだけの話だ。

 

でも、正論だけで生きていくには、人生は少し長すぎる。

 

心の余裕も大きいと思う。
 

イライラしている日は、ただの雨でも「もう最悪!」と叫びたくなるけれど、

 

機嫌がいい日は「これで堂々と家でゴロゴロできる理由ができた」なんて、

 

天の恵みのように喜んじゃったりする。

 

運がいいか悪いかなんて、結局のところ、

 

こっち側の機嫌次第なのかもしれない。

 

それでも、私は「運」という言葉を卒業するつもりはない。
 

全部が自分のせいだと思うと息が詰まるけれど、

 

「たまたま運が悪かっただけ」と思えば、

 

また明日も頑張れる気がする。

 

まあ、そんな風に甘えてばかりいると、

 

いつまでたっても生活は整わないのだけれど。
 

きっと運は逃げたわけじゃなくて、

 

今ごろのんびり、遠回りをしながらこっちへ向かっている最中なのだろう。
 

そう自分に言い聞かせながら、

 

私は明日、運が追いついてくる前に

 

「そもそも家から出ない」という 究極かつ平和な対策を採用し、

 

のんびり過ごす予定でいる。