「およげ!たいやきくん」という歌を、

 

お茶菓子でも食べながら話すような、

 

ゆるい雰囲気で眺めてみる。


この曲の主人公である「たいやきくん」は、

 

ある日突然、仕事(焼かれること)をボイコットして海へ飛び込む。

 

今風に言えば「会社辞めて南の島へ行っちゃった」みたいな感じになる。

海の中での彼は、とっても楽しそうだ。

 

サンゴ礁をすり抜けたり、

 

お腹のあんこが重いのをちょっと気にしたり。

 

でも、ここでふと冷静になると

 

「たいやきが海水に浸かって、皮がベチャベチャにならないのかな?」

 

という心配がよぎったりする。

 

きっと彼は、よっぽど高性能な薄力粉を使っていたか、

 

あるいは自由への情熱で表面をカリッと保っていたのかもしれない。

しかし、自由なバカンスは唐突に終わりを迎える。

 

お腹を空かせたおじさんに釣られ、

 

結局食べられてしまう。

 

海まで逃げても、最後は「食べられる」

 

という自分の宿命(あるいは職務)に戻っていく。

 

なんとも切ないお話です。

最後の表情については諸説ありますが、

 

少なくとも「初めての海、どうでした?」と聞ける状況ではなかった。

私たちも、毎日同じことの繰り返しで

 

「鉄板の上はもう嫌だ!」と思うことがあるはず。

 

そんな時は、彼のように一度海へ飛び込んでみるのもいいかもしれない。

 

ただし、「おいしそうな顔」をしていると、

 

すぐに誰かに釣り上げられてしまうので、

 

逃げる時はなるべく「不機嫌そうな顔」で泳ぐのがコツかもしれない。

 

人は生きていれば、出会いと別れを繰り返す。
 

頭ではわかっているのに、そのたびに少し戸惑う。
 

このあたり、人間はなぜか毎回初回プレイだ。

出会いは、だいたい拍子抜けするほど地味だ。
 

同じ場所にいた、たまたま隣に座った、

 

雨の日に傘を貸した。
 

その瞬間は特別な予感なんてなくて、

 

「あ、どうも」くらいの温度感。
 

なのに後から振り返ると、「

 

どうやらここが始まりだったらしい」と気づく。
 

人生はだいたい、後出しジャンケンでできている。

別れは、やっぱりつらい。
 

ただ、別れ方にもいろいろある。
 

きちんと話して終わる別れもあれば、
 

気づいたら連絡が途切れていた、という別れもある。
 

最後の言葉を覚えているものもあれば、
 

何が最後だったのか思い出せないままの別れもある。

理由がはっきりしているほうが楽、というわけでもない。
 

説明のない別れほど、心の中で反省会が長引く。
 

私は今でも、いくつかの別れを、生焼けのまま持ち歩いている。

それでも、時間が経ってから気づくことがある。
 

以前より人に優しくなっていたり、同じ失敗を少し避けられたり。
 

会えなくなった誰かが、今の自分の中で、意外と働いている。
 

本人不在なのに影響力だけ現役なのは、少しずるい。

今日もどこかで出会い、どこかで別れている。
 

それでも洗濯機は回るし、コーヒーは冷めるし、夜は来る。
 

私はまた誰かに影響されながら生きていく。
 

できれば次は、傘を貸す側でいたい。
 

……と毎回思うのだが、

 

だいたい雨の日はいちばん濡れている。

 

私は、片面派だ。
 

黄身は見えていている方がいいし、白身は静かに固まっていてほしい。
 

朝から裏側の事情までは、できれば知りたくない。

片面焼きには、少しの勇気と少しの放任が必要だ。
 

火を入れすぎれば黄身は固まり、目を離せば白身は不安になる。
 

この曖昧な時間を信じて待つあたり、どこか人付き合いに似ている。

一方、ひっくり返す派にも、ちゃんとした美学がある。
 

安心、安定、均一。
 

彼らは物語よりも、確実な朝を選ぶ。
 

食べやすさや効率を尊び、明日をこぼさない生き方だ。
 

それは、立派な判断だと思う。

それでも私は今日も片面で焼く。
 

フライパンの前で、じっと待つ。
 

待つあいだにコーヒーを淹れ、パンを焼く。
 

気を紛らわせるためではなく、

 

待つ時間をきちんと受け入れるための、小さな儀式だ。

失敗しても、黄身は流れる。
 

流れたら、トーストが受け止める。
 

それを見て私は思う。
 

今日も人生は、私より先にうまく着地している

 

特売の茶葉を指摘され、

 

静寂に包まれたリビングは、

 

今や音のない戦場と化していた。
 

女の瞳に宿る冷徹な光は、

 

窓の外を流れる2026年の冬の月よりも鋭く、男の心臓を射抜く。
 

「……気づいていたのよ。あなたが夜な夜な、

 

キッチンの奥で何かを隠していたことぐらい」
 

女が震える指で差し出したのは、銀のスプーンではない。
 

それは、ゴミ箱の底に無残に捨てられていた、コンビニスイーツの包装紙。
 

しかも、そこには無情にも『増量キャンペーン・完食』の文字が刻まれていた。

あなた、自分だけ……。自分だけ、あの限定のマドレーヌを食べたのね。

 

私が、あんなに楽しみにしていた、あの黄金色の輝きを……!」
 

男は言葉を失う。
 

沈黙という名の重いカーテンが、二人の間に降りる。
 

共に優雅な夜を過ごすと誓ったあの日。

 

琥珀色の紅茶に溶かしたはずの誠実さは、

 

今や湿りきった砂糖の塊のように、カップの底で固く冷たくなっていた。
 

「……マドレーヌだけじゃない。……フィナンシェも、……食べたわね?」
 

女の問いかけに、男はただ、力なく項垂れる。
 

一度ついた嘘は、二度出しされたティーバッグのように薄汚れ、

 

もはや何の香りも残ってはいない。
 

お湯を注ぎ足しても、もう、あの頃の熱い関係に戻ることはできないのだ。
 

次回、第74話、『賞味期限切れの愛をレンジでチンして』。
 

……夜はまだ、飲み残した冷たい紅茶のように、

 

渋く、救いようのない後味を残している。

 

目玉焼きには焼き加減や味付けの話題が尽きないが、

 

実はもう一つ、静かに人を分けることがある。
 

卵は一個か、二個か、という問題だ。

一個派はよく「バランスがいい」「ちょうどいい」と言われる。
 

白身と黄身の比率も美しく、朝の胃袋に無理をさせない。
 

ただし、それが本当に美学かどうかは少し怪しい。
 

広めのフライパンの中央で、ぽつんと焼かれる卵一個。
 

そこには節度と同時に、「二個いく勇気はなかった」という

 

小さな敗北感も含まれている。

一方の二個派は、満足感を正面から取りにいく。
 

黄身が二つ並ぶ景色は、理屈より先に幸福を語る。
 

ただし二個派は忙しい。
 

どの黄身をいつ潰すか、片方をソースにするのか、
 

最後まで神として崇めるのか。
 

実は一個派よりも、戦略に縛られているのは二個派かもしれない。

そしてこの話を左右する最大要因は、心ではなく道具だ。
 

小さなフライパンでは二個は窮屈になり、
 

大きなフライパンでは一個が妙に頼りない。
 

思想よりも直径。私たちは案外、従順である。
 

私は一個が好きだ。
 

そう言い切ってみると、少し大人になった気がする。
 

節度があり、分相応で、生活に優しい選択のようにも聞こえる。
 

だが冷蔵庫を開けると、卵は二個しか残っていない。
 

残された一個は、次回の主役候補であると同時に、
 

納豆に吸収される可能性も秘めている。
 

それは救済なのか、アイデンティティの喪失なのか。
 

結局いちばん強い派閥は、好みではなく、

 

冷蔵庫なのかもしれない。