ポジティブが得だと言われると、

 

確かにそうかもしれないとは思う。

 

でも実践しようとすると、だいたい途中で転ぶ。

 

しかも、どうせ転ぶなら「笑いを取りたい」

 

なんて思ってしまうあたり、

 

すでに他人の反応に救いを求めている自分がいる。

 

盛大にコケて、周囲が爆笑してくれたら

 

「よし、これは成功だ」と思えるけれど、

 

もし誰にも見られず、あるいは完全スルーされたらどうだろう。

 

その瞬間、この人生コメディ路線は静かに打ち切りになる。

 

究極のだいたい主義とは、誰もいない路地裏でドブに落ち、

 

「あーあ」と一人で呟いて帰る強さなのかもしれない。

「靴ひもくらいは結んでおきたい」という小さな保険も、

 

よく考えると滑稽だ。転ぶ未来を受け入れつつ、

 

なお準備を怠らない。これはもう、

 

だいたい主義というより“用意周到な適当”である。

 

しかも人生は意地悪だから、

 

ちゃんと結んだ靴ひもがほどけて転ばせにくる。

 

準備すら裏切ってくるのが人生だとしたら、

 

「結んでいようが、ほどけていようが、まあ転ぶよね」

 

と開き直れるかどうかが、次の関門だ。

さらに厄介なのは、

 

「私は努力型の楽観主義者だ」と名札を貼ってしまったことだ。

 

これで今後、落ち込んだ日は「努力不足」という新しい自己嫌悪が発生する。

 

楽観ですら修行科目になるとは、

 

人間はどこまで真面目なのか。

 

適当に生きたいと願いながら、

 

その方法を必死に研究している時点で、

 

私はもう立派な優等生だ。

結局のところ、私は「適当に生きるために全力を尽くしている」

 

人間なのだと思う。
 

それが呪いなのか才能なのかは分からないけれど、

 

今日も真面目にだらけている。

…まあ、その姿勢すら面倒になったら、
 

その時こそ本物のだいたい主義、ということで

 

人はもしかすると、

 

「疑心暗鬼」という名のリュックを

 

背負って生きているのかもしれない。

 

しかもこのリュック、本人の意思とは

 

関係なく勝手に中身が増える。

 

過去の失敗、誰かの一言、既読スルー三時間――という、

 

たったそれだけのこと。

 

客観的には一瞬でも、

 

主観では永遠に感じるから不思議だ。

 

軽装で出かけたはずなのに、帰る頃には重量級である。

本来、疑う心は生存のための優秀な装置だった。

 

暗闇で音がしたとき、「気のせいだ」と油断するより、

 

「何かいるかも」と身構えた人のほうが長く生き残った。

 

人類史的には功労者だ。

 

ただ、この警報装置は自分を最新鋭だと思い込んでいる。

 

ハードウェアは石器時代のままなのに、

 

ソフトウェアだけが高速アップデートされた社会に放り込まれ、

 

誤作動を連発している。

疑える世界であえて信じることは、

 

たしかに一種の勇気だ。ただし万能ではない。

 

疑うべき場面まで信じてしまえば、

 

それは美徳ではなくエラーになる。

 

信じるとは、目を閉じることではなく、

 

状況を見たうえで「今回は行く」と決める行為に近い。

疑心暗鬼はなくならない。暴れる日もある。

 

そんなときは無理に追い出さず、

 

リュックから一つずつ取り出して名前をつけてみる。

 

「これは過去案件」「これは妄想」。

 

仕分けが終わったら、深呼吸してお茶を飲む。
 

疑心暗鬼は敵ではない。
 

少し声が大きくて、

 

時代感覚が古い同居人なだけなのだから。

 

「人間は放っておくと好き勝手する生物である」
 

少し乱暴だけれど、コンプライアンスという言葉を眺めていると、

 

私たちはだいたいこの一文に戻ってくるかもしれない。

もし私たち全員が、朝から晩まで善意と理性だけで行動できる存在だったなら、
 

コンプライアンスという言葉は生まれていないようにも思える。
 

講習も誓約書もチェックリストも不要で、
 

「信じてるよ」の一言ですべてが済んでいたはずだ。

けれど現実の私たちは、
 

「ちょっとくらいならいいか」
 

「今回は見逃されるだろう」
 

そんな小さな声を、かなり高性能な音量で内蔵している。

一人でいるときはそこそこ理性的なのに、
 

集団になると急に

 

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という名言(迷言)が顔を出す。
 

どうやら私たちは、人数が増えると勇気ではなく

 

判断力を分担してしまう生き物らしい。

さらに現代は、画面越しに言葉を投げられる時代だ。
 

相手の表情も、沈黙も、ため息も見えない。
 

そのせいで私たちは、思っている以上に軽い気持ちで、

 

重たい言葉を放ってしまう。
 

あとで振り返って、「あ、あれは言いすぎだったかも」と思い出すのは、

 

たいてい布団に入ってからだ。

そんな私たちの想像力の穴を埋めるために、
 

社会は少しずつルールを増やしてきた。
 

社会とは、人間の弱さに貼られた注意書きの集合体なのかもしれない。

もっとも、ルールを増やせばすべて解決、というわけでもない。
 

防波堤が高くなると、今度は
 

「どこまでがセーフか」を測る競技が始まる。
 

守っている、違反ではない、グレーだけど問題ない
 

私たちは今日も、そんな言葉を片手に綱渡りをしている。

ときどき、ルールは「正しさ」の顔をする。
 

本来は自分を律するためのものなのに、
 

いつの間にか他人を採点する物差しになる。
 

正義感が強い人ほど疲れてしまうのは、
 

きっとその物差しをずっと握りしめているからだ。

それでも、私たちはルールを手放せない。
 

放っておけばやらかす自分たちを、
 

実はよく知っているからだ。

それは、ダイエット中の私たちが
 

「今日は見るだけ」と言いながら冷蔵庫を開け、
 

結局そっと閉める、あの一連の動作に少し似ている。
 

意思が強いわけではない。
 

弱いと知っているから、工夫しているだけだ。

今、私たちが大事に守っているルールも、
 

未来の誰かから見れば
 

「そんなことで悩んでたんだね」と笑われるかもしれない。
 

でもそのたびに、私たちは
 

「今の私たちなりに、どう振る舞うのがマシか」を考えている。

結局のところ、コンプライアンスとは、
 

完璧ではない私たちが、
 

なるべく揉めずに、なるべく後悔せずに、
 

一緒に暮らすための知恵の寄せ集めなのだろう。

2026年も、ルールはきっと少しずつ増えると思う。
 

息苦しく感じることもあるけれど、
 

それはたぶん、私たちがまだ
 

「もう少しうまくやれないかな」と考える余力を失っていない証拠だ。
 

とはいえ、
 

深呼吸にまで承諾書が必要になったら、
 

そのときは一度、みんなで休憩したほうがいいと思う。

 

「石を投げるなら、罪のない者から投げなさい」という言葉は、
 

あまりにも条件が厳しくて、少し意地が悪い。
 

完全に潔白な人間など、まず見当たらない。
 

昨日の私は夜中にアイスを食べた。
 

これはせいぜい自分を甘やかした罪で、
 

誰かの人生を傷つける類のものではない。

ここでようやく気づく。
 

同じ「罪」という言葉でも、
 

自分を太らせるものと、他人を壊すものは、
 

重さがまるで違う。
 

その違いに目を向けた瞬間、
 

石は急に持ちにくくなる。

この言葉は「裁くな」と命じているわけではない。
 

ただ、最初の一投だけは、
 

責任の所在を本人の手に戻してくる。
 

もっとも今の時代、
 

名前を名乗ることさえ、
 

正義の石を磨く砥石に使われることがある。
 

実名で叩くほうが、
 

むしろ拍手をもらえる場面も少なくない。

それでも、この言葉は静かに問い続ける。
 

「それでも、あなたは投げますか?」と。

今日も私は、
 

ポケットに一個、石を入れている気がする。
 

護身用かもしれないし、
 

いつか使うために温めているだけかもしれない。
 

あるいはその石は、
 

アイスのように甘く、
 

投げることで少し気持ちよくなれるものかもしれない。

だからせめて私は、
 

その石が「ただのアイスだ」と
 

思い込んでしまわないことだけは、
 

自覚していたいと思う。

 

最近、掃除という行為が、

 

思っている以上に重要なのではないかと思い始めている。

 

もっとも、床のホコリと一緒に

 

心のザワつきまで吸い取れるかどうかは怪しい。

 

あの「ゴォーッ」という掃除機の音がうるさすぎて、

 

悩みごとを考える余裕が物理的に奪われているだけ、

 

という説も十分あり得る。

 

精神の安定というより、脳の一時強制終了だ。

それでも掃除は成果がわかりやすい。

 

やる前と後の差がはっきりしていて、

 

「今日は何も成し遂げていない」という日にすら、

 

達成感だけは置いていってくれる。

 

ただしこれは同時に、現実逃避の完璧なアリバイでもある。

 

本当にやるべき作業がある日に限って、

 

換気扇の油汚れがやけに気になったりするのだから、人間は正直だ。

掃除は未来の自分へのプレゼントだ、とも言える。

 

ただしこのプレゼント、賞味期限が異常に短い。

 

明日にはもう新しいホコリがあったりしている。

 

終わりのない賽の河原のようだが、不思議と腹は立たない。

 

どうやら人は「どうせまた汚れる」とわかっている作業を、

 

当たり前に感じる生き物らしい。

掃除を終えたあと、じっくり掃除機を見つめている自分がいる。

 

余計な心を吸い込んだつもりが、

 

「掃除と向き合える自分」という、

 

さらに上質な心が生成されている気もする。

 

それでもまあいい。今日も私は、

 

逃避だと知りつつ掃除機をかける。

 

部屋は少しきれいになり、人生は相変わらずだが、

 

この逃避だけは、なぜか誰にも怒られない。